白い敵が現れる日1

 夜明け前の水圧のように重たい薄赤い闇が床と天井との間に滞留していた。つんとした耳鳴りがあった。僕は開かれた感覚に背を向けて深く毛布を被り直した。小さい冷たい予感があった。それは命が失われる予感だった。


 ……


 十一月の中旬に赤石山中で戦闘があった。僕の生活を少しなりとも転変させる出来事がそこで二三生じたのである。

 早朝に起こされてテントの兵舎を出て、深呼吸やストレッチをうんとしながら霧の中を川の方へ向かって歩いた。肢闘隊の八機はトラックが入れるところからさらに河川敷に近い林に点々と待機して、僕の〈弓狐〉も正座姿勢で赤や茶色の落葉をまぶしたネットを頭から被っていた。かくれんぼに参加しようとして絶望したみたいな感じだ。この状態なら高さ五メートルといったところで、木々の傘下の陰に十分隠れる。濃紺色の弓狐では紅葉を背景に目立つのではないか、なんて心配は無用だと鹿屋は言っていた。昨日の作戦会議の時だが、実際に来てみると彼の言い分には納得が行った。樹種はカエデ、シラカバ、ブナ他。戦術的影響は視界遮蔽以外に特になし。

 機体の回りを一周し、ゴム製のいわゆる地下足袋を履いた踵や電池を収めた大腿部の外装に手を触れる。まだ眠たいような感じがした。落ち葉の毛布が暖かいのかもしれない。結露があって指に水滴が付いた。炭素系の複合装甲は比熱が高いから、水の冷たさの向こうに乾いた感触がある。戦車とか、金属の装甲ならもっと素直に寒いと感じるかもしれない。

 気配。

 腰のベルトに手をやって辺りを見回した。心臓が高鳴って体の昂揚を催促する。陣営の方に人影が見えた。霧の中だから本当に平たく黒い影に見えた。

「諏訪野さんか」と灘見ナダミは言った。彼はすでにシグを構えていて僕よりも臨戦態勢だったが、僕を認めて腕を下げた。「猪かと思った」

「残念、狐でした」

 僕と灘見が鉢合わせたのはそんな経緯だった。僕は自分の機体を見に、彼は水切りに、それぞれ早起きをした。お互い一人の時間を邪魔されて少し苛々していたのかもしれない。彼はそれでもレンズ石を数回掌の上に浮かせた後、低い体勢からのサイドスロウで綺麗な軌道を描いた。石が川面に跳ねた波紋が霧の中に浮かび上がった。ちゃぷちゃぷちゃぷ。魚が跳ねる音がする。僕はこの音に起こされたのか。

 灘見にジンクスなのかと訊いた。つまり、戦闘の前に水切りをすることがだ。それとも、何か物を投げることがだろうか。僕は彼が週末になると多摩川まで草野球をしに行くという話を聞いていて、それで見当をつけた。彼は水切りに向ない角張った小さな石を拾って上投げで放った。石は霧の中に消えて向う岸から乾いた打撃音が届いた。

「目を覚まして、既定の準備だけをして、そのまま武器を取る。まるで人間らしくない」

「考える時間が欲しい、か」僕は水際へ行ってしゃがんだ。水は澄んでいた。灘見の石の波紋もここまでは来ない。「でも、やめた方がいいな。スクランブルで一投だけなんて言っていられない。時間のかかりすぎる儀式だ」

「この戦争じゃスクランブルなんか起きやしない」

 まあそうか、知らないだろうな、と僕は口にしないで水に指を浸けて掻き回した。コーヒーに砂糖を入れる時とミルクを入れる時では別々の混ぜ方をするものだが、これはミルク的な穏やかな混ぜ方だった。光が歪んだり影がすっと走ったりして水底の模様に透明に近い魚が擬態していたのがわかった。休息、直線機動、休息と繰り返す動きはハゼかチチブの類だろう。

 灘見は今年度の初めに第三駆陸団に配属された新入りだった。東京一帯に血族の網を張ったある厳格な家の育ちで、今までの働きを見る限りではオペレータとしての素質が高いとは感じられなかったけれど、彼はとても冷淡で動じない自分の筋道を立てていて、それに従って行動するだけの力があれば全く支障がないと信じていたし、多少予想外のことがあってもほんの短い間に悪い結果が落下していく方へ先回りできる対応力を備えていた。また学才の秀でた奴で、僕が教養学校九年の時彼は七年生だったが、水曜午後の集会で政治主題の作文を読み上げたのを記憶している。人間同士のこじれた関係をリセットするためには、それぞれに過去を否定し、かつ相手から過去を否定されることを受け入れなければならない。確かそんなアメリカンでラジカルな内容だったと思う。

「俺はこの戦争には反対ですよ」またレンズ石を投げながら灘見は言った。

「愚痴なら猪にでも言ってくれよ」

「愚痴じゃなくて、訊いたんだ。他の人がどう思っているのか」

「どう思うって、この戦争について?」

「それ以外にあります?」

「どうってことはないな。僕は仕事があって肢闘に乗れるならそれで十分」

「タリス主体的な生き方ですか。それではいくら人間的といっても特に迷信的な人々と同レベルだ」

「他に選びようがないから。かといって迷信的だなんて言い方は癪に触るな。僕らは読むこと見ることに開かれている。自分の立場くらいは勝手にわかってくるもんだ」

 僕は振り向いた。灘見は教養のない哀れな人間を見下す目をしていたが、すぐにそっぽを向いた。

「不思議な気分だな。会議室のテーブルに上げられるべき俺たちが同じ問題のために戦場で消耗していく。鷲田大将はもっと早くに絹川中将の要求を呑んでおくべきだった。北海道に肢闘開発拠点を集中していたのが過ちだと思うなら、絹川中将の指摘に従って移転計画を変更しておけばいい。それを渋るから問題が地域振興レベルにまで広がって、しまいにアメリカとの講和にも影を落としている」

「争点が戦火の中にあるなんて珍しくもない。フォークランドの領有権だってフォークランドで争われたじゃないか」我ながら随分な昔話を持ち出したものだが、咄嗟に思いついたのがそれだった。「おまえは自分が戦いたくないから他人のせいにしているだけだよ。戦わない方法を考えるのは立派だけど、だったら過去のことをとやかく言っても仕方がない。もっと先のことを考えないと。それに、鷲田大将の考えは妥当じゃないかな。彼が退いた後も池羽大佐が計画を引き継いでいる。いくら大将の息がかかっているといっても他の幕僚部の連中が潰せないわけじゃない。道理なんだよ。肢闘関連の予算をきちんと全国に振り分けると現状関西以西で主流の機体管制システムが幅を利かすことになる。それはまずいんだ。国全体の肢闘関連技術の発展の道筋としてまずいことになる。せっかく新規格のデータ集積システムを構築しているのに、それがおじゃんになる。九木崎が普及させている肢闘や投影器の方式、つまりショコネットの網を東から順に構築していくのが筋なんだよ」

「それはわかってますって。だから、なぜ九木崎方式が牛耳を執ることが前提なのか、こっちの指導者の誤謬はそこに端を発するのではないか。そういうことです」

 その時我々の背後で起床ラッパが鳴った。灘見は僕が立ち上がるのを待たずに陣営の方へ歩いていった。礫に足を取られて膝や足首を捻りそうになっている。

「あいつは君のことが嫌いみたいだな」と僕はタリスに言った。「それがどうしてだか、理解してやる気にはなれないけど」

「子供は大人に反抗するものですよ。特にそれが多くのことを教えてくれた大人である場合には、もう教わることはないと、それを上回ろうとするものです」

 少し霧が薄くなった所に対岸の鮮やかな紅葉のパッチワークが浮かんでいて、僕はその光景を写真に収めてから灘見の後を追った。次の戦闘で自分が死ぬという気はしないし、死ぬ時にはそれとなく察することができるものだと思う。いつかは死ぬだろうが、まだ当分の間はその時がやってこないとわかっていた。

 しかし他人の死となると往々にして予期もままならないうちに唐突にやってくるものだ。その人が何に殺されるのか、仕組まれた自殺なのか不運の他殺なのかさえわからない。例えそこに自分自身が関与することになるとしてもだ。僕は次の戦闘で灘見を殺すことになる。

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