New year Ⅳ

 夢を見ていたような気がする。父の夢だ。

 私の父はお調子者だった。すぐ冗談を言い、私と母と姉をからかうのが好きだった。そしてよく笑う人だった。カメラは父の唯一の趣味だった。


 私はゆっくりと体を起こす。ぼうっとする頭で、自分の部屋で眠っていたことを思い出した。部屋の中は薄暗く、少しだけ開いた扉の隙間から光が入ってきていた。

 違和感を覚えて頭を触る。団子にしていた髪の毛は、髪留めを外してそのまま手ぐしでもしたかのようにぼさぼさだった。ワックスをつけていた場所は固まっている。髪の毛は波のようにうねっていた。

 ベッドから降りると、自分が部屋着を着ていることに気づいた。いったいいつ着替えたのか。自分で着替えたのか。神社から自分の家に帰宅するまでの記憶が曖昧だった。机を見るとカメラのシルエットが見えて、私は胸をなでおろす。

 先ほどからずっと、部屋の外から誰かの話声が聞こえていた。母と。もう一人。男の子の声がしている。覚えのある声だった。私はこの格好のまま出て行ってもいいものかどうか考えていた。


「そんなに似ているんですか。俺と。その……」


 いつも明るい声を聞いていたせいか、彼の真面目な声を聞くのはとても新しく感じられた。


「ええ。そうね。あの子の話を聞く限りでは、そうなのよね。去年の春頃だったかしら。あの子の口からよく名前を聞くようになったの。椿ちゃん。君島くん。京菜ちゃんにマルクくん。そしてあなたの名前が一番、話に出てきていたの。無意識だったみたいだけど」

「それって……」

「君に会えてよかったわ。あの子もきっとそう思っているはずよ。呼び止めてごめんなさいね。あの子、まだ寝ているのかしら」


 母の声が近づいてきて、私は足をすくませた。

 薄暗い部屋に立っていたものだから、扉を開けた母は一瞬驚いた顔をした。


「あら。起きていたの。萌美」


 母は、私に向かってほほ笑みかけてくる。


「あ。先輩。気分はどうですか」


 母の後ろにいた朽木くんが、声をかけてきた。


「あの。私……」


 どう答えたらいいのかわからなかった。

 先ほどの母と朽木くんの会話が頭の中で繰り返される。恥ずかしい。と思った。私が想っていたこと。感じていたことを母に見透かされていた。そして朽木くん本人に知られてしまった。子どものように泣いてしまいたかったが、ぐっとこらえる。


「たった今起きましたー。それよりも、何で朽木くんがいるんですかー?」


 私の問いに、母が答える。


「覚えていない? みんなが心配してあなたを家まで送ってくれたのよ。他の子たちはもう帰ったけれど、彼だけ私が呼び止めたのよ」

「そうだったんですかー。みんなに悪いことしちゃいましたー」


 私はそう言って頭を掻いた。

 母が部屋の電気をつける。私の部屋が、姿が。朽木くんに見られる。壁に貼ってある風景写真も。椿ちゃんの着物姿の写真も。和道部の部室の写真も。クリスマスにみんなで撮った写真も。私が今までカメラで撮ってきた写真すべて。

 異常だと思うだろうか。壁一面に貼られたこの写真たちのこと。椿ちゃんたちも見たのだろうか。見たんだろうな。覚えていないけれど。

 朽木くんは目を丸くして部屋を見ていたけれど、何も言わなかった。普通の人ならドン引きするだろう枚数が飾られていたのに。


「お茶でも入れてくるわ」


 母はそう言って、朽木くんの肩に軽く触れてから部屋を出て行った。それにどのような意図があったのかはわからない。


「あの。先輩。本当に大丈夫ですか」

「朽木くんー。大丈夫に見えますかー?」


 私は作り笑顔で質問し返す。質問に質問で返すなんてずるいことをしたと思うが、そうせざるをえなかった。


「私がこんな姿を、朽木くんやみんなに見られたかったと思いますかー?」

「いえ……」


 朽木くんは首を振った。

 私は少し落ち着こうと、息を吐いた。


「お母さんから、お父さんのこと聞きましたよねー」

「はい」


 朽木くんは素直に頷いた。


「私、昔からお父さん子だったんですー。なので、お父さんが亡くなったとき、本当にショックでしたー。一時期声も出なくて、はっきりしゃべれなくなってしまったんですよー。今もちょっと怪しいので語尾を伸ばしたりして誤魔化してますけどー」


 私はそう言って下唇を右手の人差し指で触った。

 目の前の朽木くんは、いつもの朽木くんと違っていた。

 真面目に、私の話を聞こうとしてくれている。

 私は机の傍まで行くと、置いてあったカメラを手に取った。


「高校一年生の夏休みのことでしたー。見かねたお母さんが、お父さんのカメラを渡してくれて。これがなかったら今の私はありませんー」


 この話をしたのは一年生の夏休み明けに、信頼のおける友だちに話して以来だった。果たして朽木くんはその域に達していたのだろうか。そんなはずはない。だた、それでも朽木くんは他の和道部のみんなとも違う。だって私にとって朽木くんは――。


「カメラだけは絶対に誰にも、盗られたくなかったのですー。だから朽木くん。ありがとうございましたー」


 私はそう言って、朽木くんに向かって丁寧に頭を下げた。心の底から感謝した。カメラが盗られてしまわなかったこと。私の命よりも大事なもの。


「先輩に怪我がなくて何よりです。気にしないでください」


 朽木くんはそう言ってほほ笑んだ。

 そんな風に言うなんてずるい。そんな顔をするなんてずるい。泣きそうになってしまう。


「朽木くんは、本当にお父さんみたいな人ですねー」

「それさっきも先輩のお母さんに言われたけど。そんなに似てるんですか」


 朽木くんは、どんな顔をしていいかわからないといった様子だった。


「似てますよー。顔とかじゃないんですー。性格なんですー。雰囲気なんですー。朽木くんと話している時はいつもお父さんと話しているみたいでー……あれ」


 涙が頬を伝っていく。ぽろぽろと零れていく。

 私は慌てて顔を両手で覆った。

 大好きだったお父さん。突然いなくなったお父さん。朽木くんと話しているとお父さんのことをどうしても思い出して、懐かしさに溺れそうになる。会いたくなる。もう二度と会えないのに。それが哀しくて。もどかしくて。寂しい。


「すみませんー。こんな風に泣くつもりではー」


 頭部に朽木くんの手が乗せられる。慰めてくれるらしい。


「はいはい。先輩ってほんっとうに、子どもみたいですよね」


 呆れたようにそう言って、朽木くんは鼻で笑った。

 ちょっとだけいらっとしたけれど、時間が止まってしまえばいいなとも思っていた。今この時だけは、お父さんの代わりをしていてほしかった。

 いつか私が恋をするとき、その相手は朽木くんではないのだろうなと思う。彼に好きな人がいるからではなく。彼が私にとって特別な友人だから。

 今度和道部のみんなに会えたら、元気な姿をみせなくちゃ。

 まずはお母さんの入れたお茶を飲みに行こう。

 朽木くんの手のぬくもりを感じながら、私はそんなことを思っていた。

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