honey×coffee
黒宮涼
一章
第1話 四月の君は
「三河椿です。好きな食べ物は林檎で、好きな色は赤で、着物が大好きなので将来の夢は、呉服屋のお嫁さんになることです!」
高校生になって、クラス最初の自己紹介にそう言い放った女がいた。
教室がざわめく。
俺は冷や汗をかいていた。誰かが何かを言い出すのではと、はらはらしていた。
「なので、家が呉服屋を営んでいる男子はあたしのところにきてください。以上です!」
誰が行くか! と、俺は心の中で叫んだ。
幸い、クラスには中学のころから仲の良い友人は一人もいなかった。もしいたら今すぐにでも口止めしに行きたいところだった。
そう、俺の実家は呉服屋だ。しかも四十年以上続く老舗。この学校から自転車で十五分の場所にある商店街の一角にあった。最近は近くに大型ショッピングモールができてしまったせいで、商店街はすっかり寂しくなってしまっていた。
「あら。君島くんの家って確か……」
ここで担任教師。江川春江三十九歳(さっき自己紹介していた)が余計な一言を発する。彼女は生徒名簿をぱらぱらとめくりだした。
おいおいおいおい。人の個人情報勝手に見るんじゃねぇよ。と叫びだしたかったが、俺は堪えた。ここで下手に前に出たりしたら目立つ。確実に。
「ん。きみじま?」
先生の一言に三河が反応してしまう。
「あ。やっぱり」
俺の名前の書いてあるページが見つかったのか、江川先生が手を止めて言った。
「君島浩彦くんの家。呉服屋さんよ」
せんせええええええええ。
生徒のプライバシーを考えない先生の一言で、クラス中が歓声を上げた。
入学早々カップル誕生か? とか。指笛を吹くやつとか。結婚おめでとうとかいうやつまでいた。主に男子。
「あら、まずかったかしら」
江川先生は右手で口元を隠した。
俺は頭を抱えた。久しぶりに聞く歓声が、こんなに嬉しくないものだと思っていなかった。ああ。中学時代に戻りたいと俺は思っていた。
突然机に衝撃が走ったので、俺は抱えていた頭を上げる。見ると三河が目の前にいた。光沢のある肩まで長い黒い髪の毛。長いまつげ。日本人形みたいに綺麗な顔だと思った。それが至近距離にある。
「それ、本当なの?」
尋ねられて、動揺した。異性にこんなに近づかれたのは初めてかもしれない。
「えっと。その。ホントウです」
言いながら、俺は三河から目を逸らした。顔が火照る感じがした。
歓声が鳴りやまない。俺は恥ずかしくて今すぐプールにでも飛び込みたい気分だった。
「先生。先、進めてください」
俺の後ろの席から、突然そんな声が聞こえた。歓声に負けないくらいの大きな声だったと思う。
「え、ああ。そうね。そこ。席に座りなさい。三河さんも」
江川先生は慌てた様子で、生徒を叱り始めた。
正直助かったと、俺は思った。三河は渋々自分の席に戻っていったし、他のクラスメイトも静かになった。俺は後ろの救世主のほうをちらりと見る。そいつはとびっきりの笑顔を、俺に向けた。
***
三河椿は次の休み時間になると、チャイムとほぼ同時に俺の席の前に駆けてきた。
「ひゅう」という野次も気にならないのか、堂々とした態度で俺を見ている。
「きてっ」
三河に腕を掴まれた俺は、そのままどこかへひっぱられる。
教室にいた生徒たちの視線が俺たちを追っていることに気づき、俺は赤くなった顔を隠そうと俯いた。
「何だよ?」
廊下へ出ると俺は精一杯の嫌な顔をして、三河を見る。
「ねぇ、もう部活決めてる?」
三河は俺の腕を離すと、そう尋ねてきた。
「帰宅部」
三河の質問に、俺は当然のごとくその答えを返す。高校では部活に入らないと、心に決めていたのだ。
「それは部活じゃないでしょ。あたし色々調べたの。この学校、文芸部があったんだけど。去年、部員が少なくて廃部になったらしいのよ」
「だから?」
「部室が一個空いたってこと! ね、あたしたちで別の部活作らない?」
三河の提案は、俺の気分を更に憂鬱にさせた。部活を作る? 冗談じゃない。
「ヤダ。何でそんなことしなきゃならないんだよ」
「もー、分かんないかなぁ。君がいないと何の意味もないのにー」
三河は呆れた表情を見せる。
何の意味だ。分かりたくもない。
「ごめんけど、もう決めてるんで。じゃ」
俺は不機嫌な顔で、教室に戻ろうと歩き出した。
「あ! ちょっと待ってよ」
そんな俺に気づいた三河が、慌てたように呼び止めてくる。
「何?」
俺は三河の方へ振り向く。何を言われても断る気でいた。
「協力してくれないの?」
三河は上目づかいで、瞳を潤ませて言ってくる。
「一人でやれ」
俺は素っ気なくそう言った。冷たくすればそのうち諦めるだろうと思っていた。
「協力してくれるよね?」
三河は腰に両手を当てて、言い直した。さっきまでの泣きそうな顔は演技だったらしい。ひしひしと感じる圧力に、俺は再び頭を抱えた。
「……何をすればいいんだ」
俺は早々に諦める。何を言っても無駄そうだったからだ。
「うん、とりあえず今はいいや。終わったら学校近くに、〝HONEY〟っていう喫茶店があるから、そこで落ち合いましょ」
三河はそう言って、さっさと教室に戻っていった。
俺は扉の前で、立ち尽くしていた。
「何なんだ。あいつは」
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