中編

トオヤマ

架ける橋

 僕には別段、これといって誇れるものがない。

クラスメイトの飯田は足が速いし、高橋はサッカーのゴールキーパーとして毎回レギュラーだ。増谷は勉強ができるし、隣のクラスの林は女の子にモテる。ついでに林は、男子の中で断トツ人気の相田さんと交際を始めた。僕は足の速さは普通だし、サッカーをしたってボールを止められるわけでも、格好良くネットにボールをシュートするわけでも、また派手に転んだりするわけでもない。勉強だって下から数えたほうが早いが悪いわけでもなく、顔は普通。


 今日も一日、いつも通りに学校を終え、部活に所属していない僕は自宅へと向かう。その帰り道に、ふと見慣れない看板を発見した。「cafe milky way」新しく出来た喫茶店かなにかだろうか?

「milky way」とはなんだったか、そう考えだした頃には、その扉を押していた。


カラン、と扉に設置された鈴が鳴る。静かに扉を開けたつもりだったが、来店を知らせる鐘に驚いてしまった。店なのだからそういった仕組みが組み込まれているのは当然のことか、と息を吐く。「あ、いらっしゃい」高くもなく、低いと言ったわけでもない、ただ、それは来店を心から歓迎するような声だった。「あっ」僕は思わず、素っ頓狂な声をあげる。「お客さん?」見遣った先には、にこりと歯を見せ笑う、男性の姿があった。




「ここ、最近できたんですか?」僕は慌てた余り、質問に対して質問で返してしまったことに気付く。やってしまったなと思ったが、今更お客ですと言ったところで、何のアピールかと思われてしまいそうだったので言葉を呑み込んだ。

「そう、喫茶店」また、にこりと歯を見せて笑う。

人当たりのいい笑顔をする人だと思った。

「よかったら、お客さん第一号になってくれない?」彼は少しカウンターから身を乗り出し、席へ座るように促した。会釈を一つして、目についた椅子に座る。しばらく店内をぐるぐる眺めていると、男性がテーブルまでやってくる。「珈琲は?飲める?」「飲めなくは、ないです」僕はコクコクと頷く。怪しい客に見られていたらどうしようと不安になる。「よかった」またニコリと笑って、その笑顔のまま珈琲をテーブルへと置く。「苦いのはダメって言われた時のために、砂糖と牛乳も多めに持ってきておいたんだ」そう言いながら彼は、十を超えるであろう数の砂糖とミルクを置く。「ありがとう、ございます…」僕は若干驚きつつ、そこから三つずつ手に取り、黒い液体への中へ投入した。「甘党なんだね」飲んでみてから入れすぎたと思ったが、彼の屈託のない笑顔を見ると、否定する気にもならなかった。それから、今度からは二つずつにしようと思惑して、甘い珈琲を飲み切る。

今度という言葉が、頭の中に自然と浮かんでいたことに心の中で驚いていた。



「またおいで」そう言って笑顔で見送ってくれた男性は、そのお店のマスターだった。彼は色々な話をしてくれた。実は音楽が好きで、ベースを嗜んでいるということ。ベースというものは、全て四弦だけに限らないこと。昔好きな女性に、ベースのみで作ったLoveletterという曲を送ったことがあることなんかも、少し照れた表情で語ってくれた。僕は勿論、特別自慢できる話があるわけでも、勇気を出して照れ臭い経験をしたわけでもないから、ただ頷いて聞いているだけだった。それでも彼の話は、聞いているだけで心地の良い気分になるものだった。

「また今度、聴かせてくださいよ、Loveletter」

彼は、恥ずかしいから気が向いたらね。と言っていた。



それから数ヶ月、僕はmilky wayへ定期的に通うようになった。彼はそのたびに「いらっしゃい」と笑顔で迎え、その人のことを「ゲンさん」と呼ぶようになるころには、常連客が数人出来ているほどになっていた。どんな時もゲンさんは、いつもの笑顔でお客さんと会話を楽しんでいるようだった。彼は僕に気付くと、あの日初めて座った席へと案内する。このテーブルは、ほとんど僕の指定席となっていた。「おかえり。珈琲?」ゲンさんは、いつもメニューを持ってくるでもなく、この質問を投げてくる。いつだってそれに、「はい」と一つ、頷くだけだった。そして決まって、コップ一杯の珈琲と、十を超えた砂糖とミルクをテーブルへ置く。どちらも二つずつだ。

「ゲンさん」僕は、ようやく静まった頃を見計らって声をかける。ん?と首を傾げた彼は、僕の座るテーブルへと近付いた。「僕の話を、してもいいですか?」



「僕ね、誇れるものが、ないんです。特別誇れるものが。クラスメイトは、成績が良かったり、運動ができたり、女の子にモテたり、キラキラしていて。みっともないんですけど、それが…」息をのんだ。この話をこんなに真面目にするのは、初めてだったからだ。「それがね、いつだって、妬ましかった。いつだって羨ましかった。僕には何にもないし、真似事をしたところで、皆には勝てない。それが悔しくて、腹が立った。だから、何もしないでおこうって決めた」でもすると、周りに誰もいなくなった。「きっとクラスメイトは、そんな僕が嫌だったんだ。あいつはいいよな、才能があって。そうやって妬む僕を、皆は煩わしかったんだ。そりゃあそうですよね、そんなことばかり言っている人間と、誰が仲良くしたいんだろう。昔は何でも挑戦できた。でも挑戦するたびに、ああ、誰々には勝てない、って、勝手に落ち込むんです。それから何かに挑戦することをやめたんですけど、誰もそんな、何も持っていない人間と仲良くなんてしない。皆キラキラしたものが好きなんだって。何も持たないつまらない僕は、きっとこのままなんだろうなって思うんです」何を言おうとしていたのか、途中から分からなくなっていた。それでも、一度吐き出たものは止まることを知らなかった。「うん…、そっかあ…」そう答えるとゲンさんは、僕のテーブルから離れてしまう。ああ、こんな話、するべきじゃなかった。後悔は、いつだって先には立ってくれない。


「これ、読んでみなよ」ゲンさんの声がした。

まさか戻ってくるとは思っていなくて、慌てて顔を上げる。その手に持たれていたのは、一冊の文庫本だった。

「なんです、これ」

「この本、僕好きなんだ。この本に出てくる主人公はね、自分が周りと比べて劣っていると言われ続けて悩んで、いつも陰に隠れて生活してる。でもある日、とあることがきっかけで、そこから飛び出すんだ。飛んで飛んで、飛んで飛んで飛んで、どれだけダメだと言われても、どれだけ否定されても、彼は飛び続けるんだ。最後にはどうなったと思う」

「最後…?」あまりに漠然とした説明すぎて、全く想像がつかなかった。「え、っと…」

「これ、貸してあげるよ」

「え?」

「彼の結末は、自分で見届けるといい」

そう言って、テーブルに本を置く。「それから特別に、いいものを見せてあげよう」そう言ってまたテーブルから離れ、カウンターの奥へと消えていく。そして、「電気けすよー」という緩い声が聞こえた。理解できないまま、はいと返事をした。

パチ、消えた電気。その意図を、僕は悟った。天井一面に広がる星、星、星。それはまさしく、空に架かる橋のように見えた。薄暗い店内を手探りで帰ってきた彼は、片手に何かを持っている。

それは、四弦という枠を超えた、ベースだった。

そのまま椅子に座ってベースを抱えるゲンさん。「聴いてくれる?」彼はそういって、僕の瞳を見つめた。

いよいよ「Loveletter」が聴けるのだと思って、大きく頷いた。


「はい、終わり」彼は演奏を終えると、ベースをそばにあった椅子へとかける。「今のが、Loveletterですか?」なんだか曲と曲名がちぐはぐで、思わずそんな質問をしてしまった。言ってから、失礼だったかと不安になる。どうも彼には、余計なことを言ってしまいがちだ。

「これはLoveletterじゃないよ」

「え?」

「これはね、銀河の曲」

「銀河の曲…?」

頷いた彼は、ふと腕時計を見る。僕も追うようにして時間を確認すると、もう閉店の時間だった。


「僕は好きだよ、君のこと。だから、またおいで」帰る間際に、ゲンさんはいつもの笑顔でそう言った。涙が、バカみたいに溢れてきた。


貸してもらった本を読み終わるまで、あの喫茶店へは行かないことにした。作中に出てくる登場人物はとても醜い鳥だった。ゲンさんが、どうして僕にこれを貸したのかも分からなかった。この鳥と僕はまるで同じだと言われているようで、酷く虚しい気持ちになった。読み進めるたびに胸が苦しくなって、幾度も読むのを中断してしまい、時間が空いてまた初めから読み直すという行為を繰り返していた。それでも僕は、何故この本を渡されたのか知りたくて、読むことをやめなかった。



明日、久しぶりにゲンさんに会いに行こう。会わない間に、色々なことがあったんだ。話したいことが、また出来たんだ。読み終わるまでに、色々なことを考えた。またゲンさんに聞いてもらおう。そうしたらきっと彼は「うん、そっかあ」と答える。そして今度こそ、Loveletterを聴かせてもらうんだ。




僕は呆然とそこに立っていた。

milky wayは、そこにはなかった。ただ、空き家と大きく張り出された紙に、賃貸物件の連絡先。その看板が、「cafe milky way」はもうないのだという事実を無理やり押し付けてくる。余りに突然だった。理解ができなかった。僕は、自分のことを話すだけ話して、吐き出すだけ吐き出して、そうしてまた自分のことを話すために、ここに来てしまった。彼が、この店を閉めようと決めたときに、何も知ろうとせず、何も聞こうとせず、何も考えず何も気付けなかった。今更になって激しく後悔の波が押し寄せる。悔しくて仕方がなかった。やっぱり僕は、僕のままなのだ。

「どうしてなんだ、ゲンさん」

milky wayがなくなってしまったことで、ゲンさん自身を失ってしまったような感覚に陥る。そうしてもう二度と、会えないような気がした。「どうするんだゲンさん、僕は、この本をどうすればいいんだ。Loveletterは、いつになったら…」聴かせてくれるんだ。


「あ、君、いつもmilky wayの同じ席に座ってた子だよね」

ふと後ろから声がする。慌てて顔を拭って、そちらを見遣った。

「あ、そう、かもしれません」

「私も、よく行ってたんだ。このお店、閉まっちゃってから色々な人が訪れては残念だなって言って、肩を落として帰っていくの」

「…はぁ」

「遅いよね。そんなもの、その時に言わないと、相手には伝わらないのに」

僕にも直接、言われているような気分だった。

「まぁ、どうしてここのお店がしまっちゃったのかも分からないし、私だって直接、マスターに好きを伝えたわけでもなかったんだけれど…」

なんだそれ、と心の中で悪態をつく。「でもね、」彼女は、屈託のない笑顔で売り家になってしまった店を見つめる。この笑顔、ゲンさんを思い出すな、と思った。


―間違いなく、マスターはたくさんの人に愛されていたよね。

その言葉には、ただ黙って強く頷いた。







「ええ!夜鷹 銀河って名前、大丈夫なの!?」

「ダメかなぁ。ダメでもともと、この名前で出してみようと思うんだけど」

あの日出会った彼女と僕は、それから何度か会うようになっていた。そして僕は自分の好きなものに挑戦を始めていた。

それは、小説を書くことだった。

数ヶ月後に控えた小説コンクールのために原稿の仕上げにかかっており、後はペンネームを考えるのみになったのだけれど、どうもこの名前は彼女的には少し問題らしい。正直、僕も問題だとは思う。

「でもさぁ、あまりに分かりやすすぎない?」

「だって好きなんだもん」

「うーん、まぁ、そっか。出すだけタダ、か」

「そういうこと」

ゲンさんから借りた本の主人公は、何度も高い空に昇っては、星になりたいと叫ぶ。どれだけ叫んでも、相手にされなかった。それでも彼は諦めなかった。繰り返し飛ぶ彼は、最後には青く青く燃え、永遠に燃え続ける星となったのだ。醜かった彼は諦めないことで、美しい星となり、燐の火のように青く光る。

僕もやってみようと思った。こどもの頃目指していた小説家になるために。飛んでみようと思った。遠い遠い銀河に届くまで。


そういえば、milky wayの意味を聞いていなかった。

砂糖とミルクが二つずつ投入された珈琲を啜りながら、そんなふうに考える。まぁでも彼のことだから、そのままの意味なんだろう。




今でもあの日天井に架けた橋を、僕は鮮明に思い出す。

この先も、きっと。



ーー

Ceiling Galaxy.

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