最終話   祈之十五歳の頃 ⅩⅠ

 祈之は階段の途中で意識が混濁し、赤い雪の中を舞った様な気がした…。

 雪の中を彷徨いながら、その幻想と現実の入り混じった緩慢な意識の下で、祈之はタンカーに乗せられ、どこかに運び込まれて行くのを感じていた…。クレゾールの匂いがツーンと鼻に付く、それは緊迫した雰囲気で、様々な手が祈之の身体にいろいろな処置を施されていくのが感じられた…。

 祈之は朦朧とした意識の中で正夫の面影を追い、こんな事はしていられない、早く正夫の元に帰らなくてはと気が急いた。

 祈之の遠ざかる意識の中、白い靄の中彷徨うように歩き始める。 「まーちゃんの所に行かなくては…」立ち込める靄を、闇雲に両手で掻き分け歩き迷う祈之の耳に、突然母の声が聞こえた…。

「肺結核らしい…今時ねえ…そうなのよ…いろいろ合併症も起こしていて手術できる状態じゃないって、もう、末期なのよ…多分…このまま意識戻らないかもだって…覚悟して置いてくださいって…今死んでもおかしくないし、意識戻したところで…難しいって。祈之売り出す企画も進んでいるし…これからって言う時、皆に申し訳なくて。嫌ね…貧乏人の病気よ、人に言えないわよ。この子でほんと、苦労したわ、そう言えば妙に熱っぽい目をいつもしてたわよね…」

 祈之は深い海の底に引き摺り込まれる様に…滑り落ちていきながら、自分の命が危うい事を知る――暗黒の底に絶望と困惑で怯え蹲る祈之は「まーちゃん…」と悲痛な叫び声を上げた…。


 目の前に茫んやりと微かな灯りが漏れ、それが、漆喰の天井にぶら下がる電灯なんだと気が付いた…「何処だろう…」定かでない視線を彷徨わせると、真っ白な部屋の中に祈之は寝ていた。鼻を付くクレゾールの匂いに、祈之は混然とした意識のまま起き上がろうと身体を起こし掛け、何本もの管に身体が囚われている事に気付いた。「何だろう…これは…」頭上にぶら下がる液体の入った袋からは透明の官が垂れ下がり、それは自分の静脈に繋がっている…尿道に差し込まれた管の先には袋がぶら下がり、口と鼻には椀型したマスクが固定され、心臓の鼓動を捕らえる電波の波動が青い線を描き、祈之は自分の呼吸を茫んやり見ていた。

「まーちゃん…何処…」祈之は繋がれた管から逃れようともがいた…。

「あっ、田中君…祈之君、気が付いたの…」 

 点滴液を交換にきた看護婦が祈之を押さえ、祈之の目をジーッと覗き込むと、首に掛けた聴診器で胸の鼓動を聞き脈を取った。

「ずーっと眠っていたのよ、目が覚めてよかったわね」看護士は何か用紙に書き込みながら、体温計を祈之の脇の下に差し込んだ。

「…何処?…」

「病院よ、君ねお家で倒れたのよ。覚えてないでしょ?いい子にして早く治しましょう、ね?今先生に来て頂きますからね。管取っちゃ駄目よ」看護士は布団を掛け直し、尿の袋を計ると病室を出て行った。

「まーちゃん…僕」祈之は、取り返しが付かないと悄然とした。


 意識を取り戻したと言う事で病室の廊下に詰めていた亜子関係のスタッフたちも散りじり居なくなり、緊迫した状態から静寂を取り戻し祈之はぼんやり空を見ていた。入り口には「面会謝絶」の札が掛かり訪れる人も居なくなった。翌日、亜子のマネージャーが大きなマスクを掛けて病室に入ってきた。コートを着たまま、何度も時計を見て、次のスケジュールに追われている様で、義務的なその笑顔は形ばかりの労りを見せ、

「祈之君、気がついてよかったね。いっぱい血を吐いたんだよ。ゆっくりここで治して貰おうね、ママはお仕事で来れないけれど…だけど、祈之君がここに運ばれた時は、ママも来たんだよ、忙しかったけど、どおしてもってね、お母さんだからね」

 マネージャーは言い訳ける様に言った。亜子の立場を慮り、廊下の気配に気を配った。末期の肺結核、もう死んでもおかしくない…亜子の良く通る甲高な声が祈之の頭を巡った。祈之はマネージャーの大きなマスクをぼんやり見つめた。

 マネージャーはキャッシュカードを示し「これ、一応置いとくね。念のためにね…」マネージャーは自分の連絡のつく電話番号を添えるとカードをベットサイドの机の引き出しにしまった。

 看護婦が大きな花束を数個抱え、病室に入ってきた。ビニールが掛かったままの花束が病室の色の無い空間に手際よく並べられた。

「これね、お母様からですよ。私たちにもいっぱいお花やお菓子頂きましたよ。廊下にもいっぱい置いてありますよ…綺麗ですよ」看護婦はジッと空を見つめる祈之に話しかけた。

 祈之は“公演が始まったな…”と思った。いつも亜子は贈られる花束の数に悲鳴をあげ、スタッフに配り、鎌倉に送り届けてきた。病室に飾られた幾つもの花束は、まるで棄て場所のように虚飾の毒々しさでその芳香を放っていた…。


 その日、布団の中は毛布やガウンやバスタオルなどが詰められ、心電図モニターの位置が入口から見えないようにチョットずれ、そのコード、点滴の針など布団の中のタオルに突き刺さり祈之の姿は病室から消えていた。

 重く雲の立ち込めた空の下、北風の吹きすさぶ寒い昼下がり、あの森林の町は大雪の頃である。



 鎌倉はどうなってるか…祈之が「まーちゃん…まーちゃん…」と泣きながら歩いて来る夢ばかり見て、情報の手段も考え付かないまま…ただ日が過ぎていた。


 先程まで吹雪いていた風がぴたりと止んでいた。怖いような静けさの中、砲声のような雷鳴が遠くで鳴った…雷の轟く日は大雪になる日が多いと聞いていた。  

 正夫はその場に座り込み、赤々と燃え上がる火を茫んやり眺め、窓の外又雪の降りそうな空を見つめた。

 うたた寝ていたのか…「まーちゃん」と呼ぶ声で目が覚めた…。

 耳を澄ますように一点を見つめると、瞬間立ち上がり、建て付けの悪い戸を力いっぱい引き開け外に飛び出した。

 確かに聞こえるあの足音、引き摺るように歩いて来る。正夫は下る雪道に走り出た。

 住宅の点在する下の道までは除雪が行われていたが、人里離れた山道に続くこの道は、一面真っ白な雪で別世界であった。一点蠢くように祈之が手を上げ、「まーちゃん…」と叫んでる姿が目に入った…。

  祈だ…それは紛いも無く祈之だった。

「祈!…」正夫は大きな声で叫び、転げるように雪を掻いて走った。

 正夫は雪を蹴り上げ駆け寄ると蹲る祈之を抱き上げた。

「まーちゃん…来た」祈之は目を大きく潤ませて大きなマスクの下喘ぐように呟いた。

「一人でよく来れたね…」

「毎日地図見てたもの…分かるよ…目瞑ってだって来れる…」と、微かに笑った。

 正夫は胸の中で苦しげに喘ぐ祈之のマスクを外そうと手を掛けると

「まーちゃん取らないで…僕、病気になちゃったよ…」

 得も言われぬ絶望の眼差しで、正夫を見つめた。

「病気?風邪…風邪だろ?…」

「ううん…肺結核だって…まっきの」

「肺結核?お医者さんに診てもらったの?」

「僕ね…階段で…血を吐いて…気が付いたら病院だった…」

 正夫は愕然とした。

 コンコンと正夫の胸の中で抑えるように咳き込む祈之を思い出した。

「まーちゃんに言われた通り、早く…薬飲めばよかった…」 

 正夫は何故あの時病院に連れて行かなかったんだろう、何故早く気付いて やれなかったんだろうと、自責の念に囚われ、その病魔に犯された怠い身体であの一年彷徨い歩いていたのかと、居所が無いように暗い表情で 立ち尽くす祈之を思い出し、その痛ましさに胸が詰まった。

「まーちゃん…まっきって、終わりって事だよね?…」 

「…誰が言ったの?」

「ママ…友達に話しているのが…聞こえたんだ。貧乏人の病気だって恥ずかしいって…今死んでもおかしくないって」亜子の言いそうな事だ。

 その眼差しは茫んやりと熱を帯び、肩で息つく度にゼーゼーと微かな音がした。そして見つめるその目は弱々しく、深い絶望感に沈んでいた…。

「マスクしてるから余計苦しいんだよ」

「…でも…移るんだ、僕の病気…」

「僕はね、祈の身体中の血を飲んだって大丈夫だよ」正夫がマスクを外すと血が滲んで、荒い息を繰り返す祈之の口元からぷーんと血の匂いがした。

 祈之を背負い家へと向かった。悲しいほど軽い… 

 土間の上がり框のストーブの前に祈之を座らせると、その前にしゃがみ込み濡れた靴と靴下を脱がせその冷えきった素足を両手で包み込む様に擦った…。

 祈之は正夫を見つめた。その手も、眼差しも、白い歯の零れる唇も、分厚く逞しい胸も全て、ずーっとずーっと僕のものだ。でも僕は死ぬんだ…その悲しみの眼差しで限りある命を燃やし尽くすように、正夫を見つめ続けた…。

 正夫はその眼差しを見つめ返し暫し無言であった。

「恐くないよ、祈…ずっと側にいるよ…もう、離れないよ…」

「本当?…これからも一緒?側にいる?」

 祈之はその弱い眼差しに嬉しそうに微かな光を湛えた…。

「もうママも邪魔できないね…」

 正夫の頷くのを見て、祈之はふーと安堵の笑みを浮かべた。

 きっと祈は遣って来ると、心のどこかでは待っていた。

 その祈之は、末期の肺結核という病気に侵されていた…。


「タイムマシーンに乗って昔のまーちゃんと祈に会いに行きたい…幸せだったあの頃…いつもまーちゃんにくっ付いてた、離れる事無く…駆けずり回ったあの頃に…この辺もいっぱい…走り回ったよね…帰りはいつも…くたびれちゃって…歩くの嫌がった僕をずーっとまーちゃん…背負って歩いたよね…今でも…あの背中…覚えてる…まーちゃんの背中…」 

 正夫はジーッと見つめ祈之の頬を擦り額に手を当てた。燃えるように熱い…もう猶予は無かった。

 その眼差しは茫んやりと遠い昔を見つめていた…。

「あの滝…。まーちゃん大好きって書いた…切り株…まだあるかな…」

「あるよ…」

「行ってみたいな…滝…切り株…見に…」

「じゃあ、行こう…これから行こう…」

「…本当?…」

 祈之は一瞬、目を輝かせたが、直ぐ光は失せた…。

「でも…もう…駄目だ…祈はもう行けない…」

 その眼差しは焦点が曖昧となり、熱を帯び、既に時間に限りがある事を思わせた…。

「大丈夫、祈は着くまで寝てれば良いよ…」

 事あるごとに、もう一度滝を見に行きたいと懐かしがった祈之に本当に見せてやりたいと思った。

 今は深い雪の中である。

 過ぎる時間に急かされる様に正夫は火の始末をし終えると、祈之をしっかりと自分の背に袢纏紐で括りつけ、毛布で二人の身体をしっかり覆うと壁に掛かったかんじきを穿いて外に出た。二人の行く手にはしんしんと粉雪が舞いだし、これで足跡は消えるだろうと思った。正夫は振り仰ぐように歩き出し、振り返り我が家を見つめると、もう戻ることの無い深い山の中へと入っていった。

 凍りついた根雪の上に、又新雪が吹き付ける。

 微かな雪明りを頼りに、正夫は一歩、又一歩と、なお深く足を進ませた。

 重い雪を受け、弓なりに反った竹がビシッと音を立て雪をはねのけると雪煙を上げた。

 暫く時間が経過し、背中で荒い呼吸を繰り返す祈之は掠れた声で「まーちゃん…大好きだった…」と呟いた  

「知ってるよ…分ってるよ…」

 正夫は降り続く雪の中、重みを乗せて一歩、一歩、歩いて行く。

「もう、ママは追ってこない…ママの来れない所に行くんだ…まーちゃんと…祈だけ…二人だけ…いっし…ょ…」息つくように、熱い吐息で呟いた。

「…日向と…枯れ草の匂いがする…まーちゃんの匂い…幸せの匂いだ……」

 しんしんと降り続く雪、木の枝から垂雪がバサッと落ちると、呼吸音が途切れ、首に巻きつかれた祈之の手から力がふーっと抜けていった…。

 身体の重みが正夫の背中に掛かかった…正夫は視線を前に当てたまま歩き続ける。

 唇が微かに震え、一筋の涙が溢れるように頬を伝った。

「向こうに着いたら起きるんだよ…祈…まだ行かないんだよ、一緒に行くんだよ…一人で行くな!…もう…絶対離れない……」

 正夫は尚、雪深く歩みを進める…降りかかる雪は重みを増し、深さも増した、一面雪の中、正夫は唯ひたすら滝を目指した。 


 正夫は「まーちゃん…」と呼ぶ声を聞いた。

 一人の少年が正夫を追い越すように走っていく…それは鬱蒼とした森の陽盛りの頃、後ろを振り向いて

「早く行こ!こっちだよまーちゃん…」

 少年はその淫靡な愛らしさで笑った。

 帽子を被って真っ黒に日焼けした少年の頃の愛らしい祈之で“早く早く!”と手を振った。

「危ないよ!祈、そんなに走っちゃ…」正夫は思わず声を掛ける…

 少年の頃の正夫が追うように横を走り抜けた。燥ぎ回る祈之に手を焼くように追いかける。滑って転ぶ祈之に走り寄ると抱き上げて泥を払った。

「僕ね、大きくなったらまーちゃんのお嫁さんになるよ…」

 甘える祈之に

「ああ、そお…」

 と取り合わない正夫は、祈之が転ばないように抱き寄せ

「それでね…そしてね」

 と盛んに話し掛ける祈之に頷きながら森閑とした森の道へと消えていった…。


 あの頃…二人はどれほど慈しみ合って過しただろうか。

 二人の消えた道を深い雪が閉ざすのをジーッと見つめた。

 雪は益々深くなり行く手を阻んだ…気が遠くなるような疲労感で膝が折れた…。

 その時…天から轟くような滝の流れる音を聞いた

 水飛沫を上げ、絶える事無くその水は流れ落ちていた…。

「祈…滝だ…祈!ほら起きて…」

 その横には祈之が永遠の二人の愛の証のように事あるごとに口にした、相合傘に囲まれた…まーちゃん、大好き…祈、大好きと書かれた切り株が、雪から顔を出していた。


 その頃、病院は警察に通報し大変な騒ぎになっていた。病院の管理体制が問題になったが呼吸困難に陥って末期状態の患者が一歩たりとて、とても一人で歩けるわけがなく、近くに行き倒れているのではないかと近辺の捜索が念入りに行われていた。

 しかし、正夫の所に行った…との亜子の一言で、医師たちは有り得ないと首を振ったが「いいえ…あの子は行ったわ、正夫のとこへ行った」と確信に満ちた声で呟いた。正夫の故郷に連絡が入り、連絡を受けて消防団などの村人が山に入り、村人により二人の遺体は発見された。

 雪深くその奥に“もし、来たとしても、まさか…ここまでは来れないだろう…”と村人が引き返し掛けた時、新雪に吹き付けられ、不自然に隆起した場所を遅れを取った一人の男が、急ぎながらかんじきの足で押し、行きかけてそして、足を止めた…。

 胸の中に毛布で包んだ祈之を掻き抱くように抱きしめ座った正夫と、抱き守られた祈之の遺体が消防団の手で数時間後掘り起こされた。

 正夫のその顔は、眉毛からも睫からもそして顎先からも氷柱が下がり壮絶な死顔であったが、その伏せられた眼差しは優しく胸の中の祈之を見つめていた。

 正夫に守られた祈之は、穏やかな死顔を胸に埋め安らかに幸せそうであった。

 雪から守るように祈之を掻き抱き、命絶えたその姿は慈愛に満ち、まるでキリストを抱く聖母マリア像のようだった。

 そこは登山道より少し逸れた大木の下で、目指した滝からはだいぶ離れ、滝は凍り付いてその流れを止めていた。

 発見の知らせを受けた病院の医師たちはどうしてあそこまで行けたか分からないと、一様に首を傾げ、有り得ない不思議な話と、後々…噂された。


 

 亜子が連絡を受けたのは、楽屋で顔を造ってる真っ最中で、眉尻を上げる黒ずみを引く手を一瞬止め、その隈取られた目の奥から得も言われぬ光がスーッと射したが

「見つかった…そう……正夫も…そう…」と呟くと、顔を仕上げ大袈裟なほど裾の拡がった、中世の王女の出で立ちで、前を見据えると舞台へと向かった…。

 自分の出生の由来について抱いた未生怨に悩まされた息子に、刺し殺される母親役が好評を博し、今日も息子役の少年が母親役の亜子に詰め寄り、刺し殺すクライマックスシーンが始まろうとしていた。

 「何故、貴方は僕を身篭ったのだ…貴方のその手で掻き出して汚物入れに棄ててしまえばよかったのに…お母さん…貴方は何故僕を産んだんだ!…」

 少年役の役者の絶叫が大きく、劇場の隅々まで響き渡った…。



                おわり


 








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未生怨(みしょうおん) miyabiko @misyouon

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