五話 祈之九歳の頃 Ⅰ
正夫の小学校最後の夏休みが始まろうとしていた――。
祈之の私学校は既に三日前から休みに入り、正夫の夏休みを心待ちにし、家と学校の間にある公園まで時間が来ると迎えに行った。押さえ付ける様に凄まじい夏の陽射しの中、公園の入り口の近くに咲き誇っていた大輪の紫陽花も緑に茂った葉の中に朽ちてその残骸を晒していた。
終業式を終えた生徒達の姿が二人三人と見え始め、やがて、引っ切り無しに生徒たちが現れ、塊のような一郡が大きな声を響かせ通り過ぎていくと、その後から俯くように正夫が家庭通信やら夏休みの宿題やらを抱えて、学校側の公園の入り口の階段を上ってくるのが見えた。
クラスでも顔一つ出るぐらい背丈が伸び、一層大人びた正夫に祈之は眩しげに笑いかけ、手に一杯荷物を抱えている正夫の腰に手を回した。
正夫は手の荷物から家庭通信の束をゴミ箱にぽいと捨てると、祈之の肩に手を回し家へと歩いて行った。小動物のようだった祈之も、だいぶ少年の面影を見せ始め、正夫に甘えようとしながらも外ではちらと周りの気配を気にしたりした。
小学校の六年間、父兄参観日も父兄懇談会も正夫には無縁のものだった。六年間の通信簿も自分で判を押して学校に戻した。まして、夏休み過ごす注意事項など何十冊来ようが持っていく先などあろう筈が無かった。
学校側は正夫の事情はよく把握していて、そのあたりは至って寛大であった。正夫は何時も公園を突っ切りながら、家庭通信はこのゴミ箱に捨てた。
正夫が祈之の手を引いて二階に上がろうとすると、応接間が開いて機嫌の良い亜子の声がした。
「正夫ちゃん一寸いらっしゃい!」
「はい!……祈ちゃん二階に行ってて……」
大きく返事をすると、その場に荷物を置き、祈之の手を離した。
しかし、祈之はそのまま正夫にくっ付いて母の待つ応接室に入って行った。亜子は数人の仲間に取り巻かれ、和やかな空気が流れていた。
「あら……祈之も一緒?……たまにはママの所にいらっちゃい!」
亜子は機嫌が良く、幼児に話しかけるような口調で気まぐれに祈之に手を差し伸べた。
後ろに隠れるように立つ祈之を、正夫は身体を交わし前に押し出すように背中を押した。一瞬正夫を見つめ、おずおずと請われるままに母の側に行った。亜子は悪戯に抱き締め、
「あら……だいぶ大きくなったわね、今何年生になったの?」
顔を覗き込みながら、その戸惑う表情を楽しむように聞いた。
「あら!凄い母親ね、子供の学年知らないなんて……」
取り巻きの一人が甲高な声を上げると、皆一斉に笑い声を立てた。
「だから言ったでしょ、母親なんかになれないのよ。男の為に生きられても、子供の為になんか絶対生きられない……」
「あら、男の為なんか生きたことおありなの?」
吹き出す様に皆笑った。
「あら!間違えた……自分の為に……かしら」
亜子は機嫌よく笑い転げ、皆の爆笑の中祈之はぼんやりと佇んでいた。 自分を抱く亜子の手から早く逃れたいように正夫を見つめ、正夫はその視線を受けてジーつと見つめ返した。
「この子だって私に抱かれて緊張しているのよ……正夫ばかり見て、祈之は正夫の方が良いんでしょ?……」
亜子は身を固くする祈之の頬に無理やり口づけると、正夫の方に押しやった。祈之は押されるまま正夫の背に体を寄せた。
母はチラッとその様子を一瞥すると、
「正夫ちゃん、ここの家に何時来たんだったかしら……」正夫に視線を向けた。
「六歳の時です……」
「小学校一年の時?」誰かが聞いた。正夫はこっくりと頷いた。
「この子ね、小学校はじめ親戚にたらい回しにされてね、学校に行ってないのよ……ね?……」
俯く正夫に、亜子は穿った言い方で得意げに話した。
「ここに来てやつと落ち着いた生活になったのよ……初めここに来た時、真っ黒で痩せてね何処に目鼻が付いてるか分からないほどばばっちかったのよ、親に逸れた小猿みたいだった……」
亜子は卑しめるように変な笑い方をした。
「小学校に行けないなんて……今時そんな事あるの?」
「あるのよ、母親は入院しているのよ……後はいなくていい様な親戚ばかり、私が全部面倒見たのよ」
「あら、入院費も?」
「入院費は福祉よ、身寄りはこの子だもの でもね、ほかの経費が結構かかるのよ、それはうちの支払いよ」
「あなた、偉いじゃない、正夫ちゃん恩返ししなくちゃね……」
正夫は頷いて俯いた。
六歳の少年が自我を押さえて他人の家で使える事は過酷な事で、狂おしいほどに会えぬ母を思い続け、それから六年の歳月が流れていた。
「この間は何時帰ったんだっけ……何時だったかしら」
亜子は、六歳でここに来て一度も母の元に正夫が帰っていなかった事等気にも止めていなかった。
母が恋しくて布団に潜り込んで泣いた事など知る由も無かった。
「まだ……まだ、一度も……」
「一度も?そんな事は無いでしょ……」
亜子は一寸考えて、合点がいった様に
「夏ね……夏はたくさん人が訪ねてくるから、用事が多かったのよね、それじゃあしょうがないわね」
いとも簡単に納得をした。
「じゃあ…今年はお里帰りをしていらっしゃい」
信じられない言葉が正夫を包んだ。始めきょとんと聞いていたが、震えるような昂揚とした表情へと変わった。
テレビのドキュメント番組で「ある女優の半生記」と言う長期密着取材が組まれる事になり、このサロンのような家が撮影の現場の中心になりそうだった。女優に子供は邪魔だった――あくまでも女として自分の半生を描きたかった。女優人生に必要なのは、きら星の如く浮名を流した男達と、有無を言わせぬ自分の美貌だけだった。
「祈之も一緒に連れて行ってね」と正夫に言いつけ
「このお家が暫くの間、お仕事の場所になるから正夫ちゃんと行ってらっしゃい」
と祈之に告げた。二人は突然の信じられない事に顔を見合わせた。
テレビのニュースでは、今年は記録的な暑さになると伝えていた。
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