六話    祈之九歳の頃 Ⅱ

 山深い四方を標高千四百メートル前後の山々に囲まれ、村域のほとんどが山林と言う村に正夫は生まれた――。

 米原から特急「しらさぎ」に乗り接いで、燥ぐ祈之の相手をしながら正夫は、流れる山々を見つめていた。母と別れるのが哀しくて泣きながら見つめた山々である。故郷を離れ、子守として引き受けられた鎌倉へと旅立つ日の事である.あの時はまだ梅雨が明けず、吹き付ける雨の向こうに霞む山を見ていた。あの時の肌寒さをはっきりと思い出すことができた。

 

「ねえ…まーちゃんの所はさあ……」祈之は一緒に連れてきた兎の顔をクイクイと傾げては「まーちゃん家でさ……」独り言のように呟き、胸を膨らませ 楽しみにする祈之に正夫は笑いながら言った。

「あまり小ちゃくて、汚いんで祈ちゃん吃驚するよ。帰りたいって泣いても直ぐに帰れないよ」

「いいよ、だってまーちゃんがいる所そこが祈のいる所だもの……」

 祈之は、確信をもって口にし、正夫に寄り掛かるように体を預けた。 

 正夫はいつもその肩を抱いてきた。人見知りが激しく正夫の後に隠れるように人前に出たがらない祈之には珍しく正夫と出かける事が決まってから歓喜しその昂ぶりは続いていた。

 祈之は正夫に凭れ、兎の縫いぐるみに語り掛けるように左右に振って躍らせては、クッククックと楽しげに笑った。祈之のこんなに表情豊かな顔を見るのは初めてだった。

 正夫が初めて祈之と引き合された時、祈之は手垢と涎で汚れた兎の縫いぐるみを大事そうに抱き締め、暗い表情をして部屋の中にポツッと立っていた。

 母と別れた寂しさの溢れる思いが祈之への愛情に移行していくのに時間は必要なかった。母の愛情に飢える祈之が愛しくて、祈之を抱き締める事で自分の寂しさも薄らいだ。祈之を愛する事が母への想いであつた。

 二人とも母の縁の薄い子供だった。二人は寄り添うように生きていた。 あの時腕いつぱいに抱かれていた兎も、今は片手で小脇に抱えるほどの大きさであれから六年の歳月が流れていた――。

 

 今日出掛けに「兎も連れて行く……」と言い出し正夫を当惑させた。

「可笑しいよ……三年生になって縫いぐるみ抱えていたら、女の子みたいだ、祈は……」

 正夫にからかわれても動ぜず、一人ぽっちで寂しかった頃の盟友のように、祈之を慰めた兎は祈之の胸に今抱かれていた。

「ねえ……まーちゃん、兎やモルモットは優しいから実験に使われて死んじゃうの?暴れたりしないからでしょ?弱いから嫌って言えないんでしょ……ねえ……優しいって弱い事?弱いって淋しいことでしょ……兎は弱いから一人ぽっちでもしょうがないんだよ、弱いから寂しいまま死んでいくんだよ……弱いからしようがないんだ」 祈之は自分の非力を準えるように兎を見つめた。 

 

 母の入院する病院は、正夫の生まれた山村から一番近い町の郊外にあり、駅前からバスに乗り西に暫く走ると木立の中、木の柵と金網で張り巡らされた大きな敷地の中に、周りと隔絶するように立つ白い建物が見えてきた。病院の名前が大きく入った門柱から、雑木林が広がり、その中を一本の舗装道路が建物まで続いていた。

 母が入院した時と祈之の家に預けられるのが決まった時に会いに来たきり病院を訪ねたのはその二回だけだったが、迷う事無く正夫は兎を抱いた祈之の手を引っ張って1階エントランスの受付のカウンターの前に立った。

 

 正夫は全ての光景を覚えていた――。

 空ろに視線を彷徨わせ、伯母に手を引かれ歩く母の後ろから、入院の荷物を持って必死に歩く正夫。五歳の夏、行く夏を惜しんで狂おしいほどに鳴き続ける蝉時雨の中、伸びきった向日葵が重そうに陽に背を向けて垂れていた。

 長く続く廊下、何度も遮断された扉をくぐり、なお奥に母の部屋はあった。双方の壁に五つのベットが並び、十人部屋のその奥に母のベットが用意されていた。病室の住人達は皆無表情で全てが老人であった。

 母が一番若かったが彷徨える眼差し、無感情な白い顔は皆よく似ていた。事務的で無表情な看護婦が母の意思を無視して、荷物のようにごろんと寝かせるのを見ていた。これからの母の日々を窺わせる様な看護婦の態度であったが、既に母には自分を主張する意思など何も無く、見えぬ何かを捜す様に視線を彷徨わせていた。焦点を失った母の乾いた眼差しが、金網の張られた僅かに眺められる窓の景色を捉えているように思われた。

「外…見てる…」正夫は母が暫く暮らすだろうベットの端に手を掛けた。

「なーにも見たってわかりゃしないよ、気が違ってしまったのさ。おめぇの事見たつて素知らぬ顔だ。もう…治りゃしないよ、唯飯食うだけだ。 気違いの母ちゃんじゃ、おめぇも、もっけねぇーこっちゃの――」

 不憫な事だと伯母は呟いたが

「これからおめぇ…家に来ても少し働かねぇば、まんま食えねぇぞ、遊ばしておくほど余裕はネェ…解ったか?」

 伯母は母の姉であったが、早くに母親を無くした母の後添えでやって来た継母の連れ子で血の繋がりは無く一回り程の年の差があった。そのせいかいつも冷淡で、伯母はこれから課せられる自分の役割にうんざりとしながら溜息つくように正夫に言い渡した。正夫はこっくりと頷くと、白蝋のような母の横顔を見つめた。

 手続きの為伯母が病室を出て行くと、正夫はベットに攀じ登り母の顔に顔を押し付けた。

「母ちゃん…」母の恋しい年頃であった。

 二度目に母を訪ねたのは祈之の家に子守りとして引き取られる日に、仲介してくれた人に手を引かれ会いに行った。

 引き取られた伯母の家では、伯母夫婦の喧嘩が絶えず、それは殆ど正夫の事が原因であった。面白くない伯父の虐待は酷く、使いが遅いと言っては砂利道を耳引っ張って引きずられ、落ちていた硝子片で足をザクロのように切ったり、一杯のご飯も食べ過ぎだと熱湯を浴びせられたり、それは凄まじいものだった。道端に栄養不足で蹲る正夫を邪魔だと蹴り上げ、何針も縫う大怪我を負った正夫を診た医者が警察に通報する騒ぎになった。

 しかし正夫は自分で転んだと言い張り事件に為らなかったが、生傷の絶えない正夫を見るに見かねて、その町からは少し離れた遠縁の家が引き取ったが、何処も貧しく翌年になると違う親戚に預けられた。

 結局たらい回しで、四月に入っても住居が安定せず学校に通わないまま数ヶ月が経ち、施設に入る寸前紹介する人がいて祈之の家に子守りとして引き取られた。

 しかし、正夫にとって母との別れは伯父に叩かれるよりも辛い事で、伯父の暴力は歯を食い縛って堪えられたが、母から離れる寂しさは堪えようの無い辛さに思えた。しかし近くにいても会う事はままならず母と別れるその日、久し振りに会う母の手を撫でながら、流れる涙を拭おうともせず、堪えよう堪えようとするその唇が震え嗚咽が漏れた。

「有名な女優さんの家で施設に入るよりうんと大事にしてくれるよ、学校も行けるし、その家で正夫ちゃんが一生懸命働けば、母ちゃんはゆっくり入院できるんだよ」 

 母の為になる…それだけを胸に六歳の正夫は、母のいる病院を後にしたのである。山々は雨に霞み、色の無い寒々とした出発であつた。


 六年ぶりの病室は別病棟に変わっていた。教えられた階段を上りながら、逸る胸の鼓動を押さえるように繋ぐ祈之の手をしっかりと握った。

 その正夫の思いが伝わるのか祈之は緊張して縋るように正夫に従った。

 部屋の奥のベットの上にふっくらと菩薩のように母は座っていた。正夫を見て柔らかく笑った…。

「正夫は可愛いね、可愛い……可愛い」と抱き締めてくれた優しい母がそこにいた。

「母ちゃん!」

 正夫が走り寄ると、その笑顔はなお優しく微笑んだ。しかしその眼差しはあやふやで漫然とし、常人でない事は直ぐにわかった。

「正夫だよ!母ちゃん正夫だよ!……ずっと来れなくてごめんね。見て!母ちゃん…こんなに大きくなったよ。母ちゃんの正夫がこんなに大きくなったよ、六歳の正夫が十二歳に為ったよ。学校もちゃんと行ってるよ。来年はね、中学生になるよ」

 母の手を取り、爪先立つように母の顔に顔を寄せ、正夫は母を見つめた。

 別れたあの時よりふっくらとし、暗く絶望の淵を漂い続けたあの眼差しとは違っていた。童女の様に笑う、仏様だ……母ちゃんは仏様のようになっている。

「まーちゃんの事、解らないの?……」 

 祈之は不思議なものを見る様に正夫の腕にしがみ付いた。

「今はね、頭がね、お休みしているんだよ……」

 正夫は祈之を引き寄せ

「母ちゃん、祈之君だよ。僕の大事な人なんだ」

「祈…って、祈って言って」

「僕の大好きな祈だよ」

 祈之は満足げに、そして一寸恥ずかしげに正夫を見つめ、母を見つめた。

 正夫は左手で祈之を抱き寄せたまま、右手で母の髪を掻き上げ、布団から食み出した手を擦るように重ね暫くの間ジーッと見つめていた。

 面会時間が終わって引き上げてくる時正夫は少し無口に為った。

 母親の意識がまだ確かな頃、足元に纏わり付く正夫を抱き上げては頬ずりをし抱き締めてくれた母を切なく思い出していた。その頃の母は健康的で若く美しく輝くような笑顔で笑っていた。


 正夫と祈之は伯母の家に世話になることになっていた。

 その家に向かう時幼い記憶がまざまざと蘇り、伯父に蹴り上げられた砂利道も、夜、雪の中を家から放り出され、飢えと寒さに震えていた納屋も何一つ変わる事無く、そのままその家はあつた。

 祈之の母から過分な世話代が既に振り込まれてあり、そのせいか久し振りに会う伯父も伯母も妙に愛想がよく、正夫も丁寧に頭を下げた。が、その目つきの賤しさは隠しおうも無く、値踏みするようにじろっと祈之を眺め下ろすと

「坊ちゃん暑かったでしょ、さあ……どうぞ、どうぞ」 と猫撫で声で招き入れた。自分たちは忙しくて世話は焼けないと初めから釘をさされ、

「坊ちゃんの面倒はおめぇが見ろ」

 と奥の小部屋を与えられ、伯父伯母とは余り接触する事も無かった。夕飯だけは呼んでくれたが、大きく野球中継が掛かり、二人とも酒を飲み、訳の解らない事で直ぐ喧嘩になったので、正夫と祈之は食事が終わると汚れた食器を持って台所に行き、洗い終わると直ぐ奥の小部屋に戻った。

 汚く貧しい部屋であったが、祈之は正夫とじゃれ合い上機嫌で布団をマットのように敷いて戯けあった。

 近くに盆踊りがあると、出かけて行って射的をやったり、花火大会で夜空いっぱいに開く大きな菊の花に感動したり、いか焼きや冷たく冷やした李飴を食べたり、小さな仕立てられた舞台の見たことも無い芸人のマジックを見たりして、祈之は目をキラキラと輝かせた。


 その日も、飽きる事無く戯れ付いてくる祈之を押さえ付けてくすぐると仰け反って声を押し殺して笑った。プロレスの技を掛け合って、引くと又戯れついてくる。

 正夫は祈之のしたい様に任せていると、正夫を組み敷いて上に乗っかって首に巻き付いて来る。年の割りに正夫は大柄で大人びた表情を見せるようになっていたが、祈之は年の割に小柄で幼年期のような幼さを残していた。祈之が好きなように正夫を攻め立て、後先考えず無謀に戯れ付いていられるのも祈之を怪我をさせないように守る正夫の強い力があったからで、祈之の戦闘意欲を剥き出しにして燥いでは正夫に戯れ付いた。

 その日も、眠くなってきたのか、やたら顔を押し付け鼻と鼻をこすり付けたり、噛み付いたりして戯ざけて、涎でぐちゅぐちゅになった口で唇に噛み付いてきた。

 正夫は顔を右に左に背けてると、剥きになって唇に口を押しつけてくる

「キスした、キスした……まーちゃんとキスした!」

 祈之は興奮して燥いだ

「もう……祈は……汚いなあ、唾でべちょべちょだ……それに口にキスなんかしないの」

「どうして?……」

「口と口のキスはね、男の人と女の人が好きになった時にするものなの」

「何で?……何で男と女じゃなくちゃいけないの?……」

「世の中はそうやって決まってるの」

「いいの……祈とまーちゃんは好き同志だから良いんだよ、だってね祈とまーちゃんは大きくなったら結婚するんだよ」

「ええっ!男同士は結婚なんてできないよ、祈は男だからお嫁さんを貰うの!」

「嫌だ!まーちゃんと結婚する。どうして…結婚できないの?」

「昔から決まっているの。結婚は男と女がするものなの」

「結婚て好き同志がするんでしょ?祈とまーちゃんは好き同志だから結婚しても良いんだよ……」

「そお言う……好き同志とは違うんだよ」

 祈之は二人が結婚できないと拒否されると、大きな涙をぽろぽろ流した。

「祈が誰かと結婚してもずっと側にいて祈を守っていく。ずっと側にいるから大丈夫だよ」

「嫌だ!まーちゃんとしか結婚しない……キスしてもいいの、祈とまーちゃんは好き同志だから……」

 祈之は譲らず、ぐずぐずと泣き出し眠いせいか、祈之は妙に感情を昂ぶらせ、ああでもないこうでもないと、ひと愚図りすると正夫にしがみ付いて落ちるように眠りへと入って行った。身体中の愛情を一身にぶつけてくる祈之に戸惑い、込み上げるような愛しさにこの感情は何なんだろうと思う事があった。

 朝起きると二人は一時間程の道程を歩いて病院に出掛けて行くのが日課になっていた。昨日の結婚問題をしっかり覚えていて、その問題が尾を引いて「絶対まーちゃんと結婚する」と起きた途端に宣言をし「解ったよ」と、正夫の言葉を取り付け機嫌よく、正夫に手を引かれて家を出た。

 雑木林の中を抜けて歩いて行くと川にぶつかり、土手っ淵を暫く行くと不揃いの境界線で区切られた畑が山の頂上まで続いていた。鳥脅しの風車が乱立し、からからと音を立てて回っていた。爪先でつんのめる様な急な傾斜、小さな隆起を繰り返す坂を下りると「奉納南無阿弥陀仏」と翻る幾本もの旗が見えてくる。ここまで来ると一気に下り、病院の張り巡らされた金網に辿り付いた。

 これは山と病院の境界線で、少しの隙間を見つけて二人は病院の敷地に入り込んだ。雑木林を走り抜け表門から外に出ると、数軒の店が軒を並べていた。

 二人は毎日同じ店で牛乳とパンを買い、面会時間まで建物の外を探検して時間を過ごした。




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