心水体器:佳折と灯のはじまり

前河涼介

佳折と灯のはじまり

 吹雪の夜のことだ。降りしきる雪の粒は湿気で互いにくっつきあってコーンフレークのように巨大だった。暗い夜空を背景に雪が縦の筋になって見えるというより、両方の面積がもうほとんど半々くらいで白と黒の縞模様のようだった。その黒も完全な黒ではない。雪の明かりのせいで妙に紫がかった紺色をしていた。そして風が強いので縞模様もずいぶん斜めだった。窓を見ていると列車で移動しているような気分になるくらい斜めに降っていた。

 音楽室の中にはありとあらゆる楽器があって、オルガンや木琴、太鼓などといった大物は壁際に寄せられ、その間を埋めるようにして椅子が並べられていた。どれも背凭れの方をきっちりと壁の方へ合わせている。なんだかそこには壁という壁を塞いでやろうという意志が感じられた。その部屋に入る人間たちは壁に寄りかかることも荷物を立てかけることも等しく禁じられているのだった。何者も神聖なる壁を穢すことはできない。有孔パネルの神聖な壁、神聖な天井、虐げられた桃色のカーペット。

 今その部屋には二人の人間がいた。一人は五十くらいの男で頭が禿げかかっていた。灰色の髪の間からつるりとした頭のてっぺんが覗いていた。襟が伸び伸びになった黒のスウェットに毛玉のついたジャージの下。例の壁際の椅子で膝にギターを乗せて弦を弾いていた。音の少ない静かな曲――確かに曲のようだけど、リズムが一定ではなくて時々一つ二つ音が遅れた。そのせいで単に弦を弾いているだけのようにも、和音の練習をしているだけのようにも聞こえた。けれど最終的にそれは曲だった。かろうじて曲の体裁を保っていた。知らない曲だ。とにかく音が少なく、ゆったりとして、間延びしていると言っても過言ではなかった。それは夏の草原に吹く風を思わせた。つまり勢いがなく、太陽の熱にやられて今にも死滅しそうな風だった。

 ピアノはその部屋で唯一壁と縁を切った楽器だった。グランドピアノは部屋の真ん中に置かれていた。そしてその部屋にいるもう一人の人間はピアノを弾いていた。少女だった。歳は十歳前後に見える。肌が白く、髪の色も淡い。灰色と茶色の中間のような色。それはもともとそういう色であるというよりも何らかの不調で栄養素が足りていないみたいな少し弱々しい印象を与えた。型紙を当てて切り抜いただけのようなシンプルなスウェットの黒いワンピースを着て、そのウエストにある布地の切り替えのところまで髪が垂れていた。長い髪だ。下はやはり黒の膝下まである靴下と黒いスニーカーだった。靴には靴紐もマジックテープもない代わりに側面の切り欠きにゴム生地が当てがってあった。その靴底のゴムだけが彼女の服装の中で唯一白かった。ほとんど汚れていない。何ヶ所か擦れて黒い線が入っているだけだ。室内履きなのかもしれない。

 彼女はピアノ椅子の上に膝立ちになって、ずいぶん低いところまで手を伸ばして鍵盤を叩きながらピアノの蓋の中を熱心に覗き込んでいた。ギターの男と対照的に彼女の指は非常に滑らかに鍵盤の上を滑ったり跳ねたりしていた。弾いているのはバッハのメヌエットだった。これはわかった。何しろ滑らかなのだ。弾く方はほとんど彼女の手や指が勝手にやってくれているようだった。彼女が意識を集中しているのは鍵盤ではなくピアノの中の弦だった。そのために椅子を鍵盤の手前ぎりぎりまで近づけて、太腿で棚板に寄りかかっていると言ってもいいくらいの姿勢になっていた。

 少女は少しキツネを思わせる賢そうな顔立ちで、頬や鼻の頭に比べるといささか目の周りが赤かった。紅潮しているというよりも薄い肌の下の血色が透けていた。その赤さは眼球の周りにも及んでいるようだった。何らかの炎症なのだろうか。でもそれにしては腫れや膿みといった症状は全く見当たらなかった。少女はその目を動かしてピアノの弦の動きを追っていた。眼球の動きはどことなく機械的だった。見なければならないものの方向を向き、見なければならないものに焦点を合わせ、そして見る。それ以外の機能はない。意思も感情の揺らぎもそこには表れていない。つまり、そんなに熱心に見るのであれば好奇心や面白さや、何かしら感情が瞼に表れてもいいはずだったが、それがなかった。彼女の目は与えられた機能にただ忠実に対象を見ていた。瞬きを挟んでもそれは変わらなかった。

 そして彼女がもう一度瞬きをした時ちょうど部屋の灯りが消えた。そして「あっ」という小さな悲鳴とともに二人の演奏も停止した。部屋の中には一切明かりがなかった。ドアのところに非常口の微かな緑色の光が残っているだけだった。部屋の中のあらゆる物体の輪郭を照らし出すにはあまりに弱すぎる光だった。せいぜい半径五十センチの壁や床がほんのり照らされているだけだ。カーペットのパイルのひとつひとつが上空から見た森の木々ように立体的に照らされていた。

 音楽室には大きな窓があった。窓は病院の中庭に面して、左手と向かいにも大きなビルが見える。左手の建物の窓は全て暗く、向かいの建物はほんの何ヶ所かの窓に青白い光が残っているだけだった。集中治療室や手術室は補助電源が挟んであるのでしばらくは電気が生きているはずだ。しかしそれも煌々と外界を照らすほどのものではない。病院の外側には街の灯りもあるはずだったが今はそれも沈黙していた。

「これが停電ですか?」暗闇の中から少女が訊いた。「あの、お兄さんそこにいらっしゃいますか?」

 部屋には少女と中年の男しかいない。もしかしてどこかにもう一人隠れているのだろうか。けれど少女の質問には誰も答えを返さなかった。

「あの……」

「俺のことを呼んでいるのかい?」暗闇の中で中年の男は恐る恐る口を開いた。

「ああ、そこでしたか。ギターを弾いていらっしゃいましたね?」少女の声が揺れる。中年の男の声が聞こえた方へ顔を向けたようだ。

「そうだよ。お兄さんって、俺のことを呼んだのかい?」

「はい」

「お兄さんはやめてほしいな。もうそんな歳じゃないんだから」

「ではなんとお呼びすればいいでしょうか」

「おじさんでいいよ」

「名前を知らない大人の男の人におじさんと呼びかけてはいけないと母に教えられましたので」

「お嬢さんはとても礼儀正しいんだね」

「礼儀正しいことはいいことだと思いますの」

「じゃあ、トオルでいいよ」

「トオルさん」

「なに?」

「これが停電なのですね」

「そうだね。吹雪で変電所か電線でもやられたのかもしれない。遭遇したのは初めてかい?」

「ええ、実質的には初めてですわ」

 中年の男はしばらく黙った。次に何を訊けばいいか悩んだのか、あるいは少女が「実質的に」と言った意味を考えたのかもしれない。確かに停電には遭ったことがあるけど、昼間だったから暗闇にはならなかった、そんな事情なのだろうか?

 二人が静かにしているとガラスが風でがたがたと震える音が確かに聞こえた。その音に切れ目はない。切れ目がないせいで少しずつ大きくなっているような気がしてくる。そのうちガラスが耐えられないほどの震えになっていくような。

「しかし困ったね」中年の男が言った。沈黙に耐えられなかったのかもしれない。

「トオルさんは暗闇はお嫌いなのですね。もし、扉の近くにランタンがありませんでしたか」

「確か」

「取ってきます。私にやらせてください」

 少女は椅子から下りてカーペットの上を静かに歩いた。

「お嬢ちゃんは暗いのは怖くないの? どうやら楽しんでいるみたいだけど」

「はい。この方がむしろ落ち着くくらいです。トオルさんはさっきギターを弾いてらっしゃいましたけど、なんて曲ですの? 知らない曲でした」

「武満徹のなんとかって曲なんだけどね。憶えてないし、恥ずかしいな、弾いて聞かせるレベルじゃないから」

「ああ、その方なら知ってます。トオルさんのトオルは武満さんの徹なのですか?」

「まあそんなところだね」

 少女はランタンを取って側面のボタンを押し込んだ。シリコンの覆いの中でバネが鈍く響いて明かりが灯る。蝋燭のような色。レンズを通った縞模様の光が壁に映る。天井には同心円の輪が映る。少女の後ろに彼女の形をした大きな影が伸びている。少女はランタンを胸の前に掲げて目を瞑った。その顎や鼻の回りに濃い影が集まっていた。まるで宇宙の始まりの火を取り出したような。

「ああ、見えるようになったよ。ありがとう」中年の男はギターを置いて立ち上がった。松葉杖を突いて少女の方へ何歩か進んだ。

「あら、トオルさんは足が悪いのですか。どうぞそこに座っていてください」

「そうかい」中年の男はそう言って手近な椅子の背凭れを掴んだ。やっぱりそこにも椅子があるのだ。腰を下ろして松葉杖を足元に寝かせる。

 少女もランタンを抱えて歩み寄り、薄目を開けて相手との距離を確認してから隣の椅子に座った。ぴたりと合わせた膝の上にランタンを置き、U字の取っ手を両手で上から押さえる。

「見てごらん」と男はズボンの裾を捲る。

「この光はこの闇の中では強すぎます」少女はまた瞑っていた目を薄く開けてそれを見た。

 彼は右足が義足だった。生身は太腿で途切れ、それを支える受け皿の下に杖のようなまっすぐな棒がくっついている。

「病院にいるのは、なにも近々義足にしたんじゃなくて、歩きすぎて骨が悪くなってしまったんで治療を受けているからなんだよ」

「骨って、どっちの足の骨を悪くされましたの?」

「義足の方だよ。ここの、一番体重を受けるところがね、ちょっとばかし欠けてしまったんだ。どうやら昔より肉が削げたようでね、このカーボンの部分がきちんと上の方まで嵌らなくなっていたんだな。今は新しいのを作ってもらって、直しながら試しているところさ」中年の男はスウェットの襟を首の方へ引っ張りながら言った。

「それは新しい義足なの?」

「いや、下の部分は昔から使っているものだよ。あまりローテクだからびっくりしているんだろう。わかるよ。今時こんな義足、海賊の映画くらいでしか見かけないものな」

「もっといい義足や再生治療を受けないのには理由があるのですね」

「うん。昔からこいつを使っているからね。今更変えても体に合わないし、そう、実際色々試されてね、でも合わないんだ。勝手にがくがく曲がったり、下に足の裏があったりなんかするともう歩きにくいくらいなんだ。だからこれで十分。移植だとかっていうのも、やっぱり嫌だね。免疫を下げたりだとか、周りのことで色々準備しなければならないのも面倒くさいし、なにしろ自分のものではないからね。いいんだよ。とにかく長いことこれでやっているから、何が不自由とか、とっくにそんなふうには感じなくなっているのさ」

「移植というのは自分の細胞から培養したものを移植することもできるのですよ」

「うん。確かにそうなんだけど、なんというかね、そうすると大昔にちょん切れたほうの足に立場がないじゃないか」

「立場?」

「そうだな。人間というのはだね、生まれた時と死ぬ時でできるだけ同じであるべきだと思うんだ。人間というのは失っていくものだよ。それは肉体の一部かもしれないし、心や精神の一部であるかもしれない。喜びによって得られるものの代わりに、悲しみによって失われるものもある。その二つは同じではない。つまり、一度失ったものがそっくりそのまま帰ってくるということはないし、失ったもののせいでぽっかりと空いてしまった穴にぴったりと嵌る大きさや形のものがちょうど手に入るということもほとんどない。だから人間は失っていく。失われたものは先に向こう側へ行って、我々が死ぬときになって残ったものの全てが向こう側へ行くと、そこで生まれた時のように元通りになる。得られたものもそこで返さなければいけない。そしてまた生まれてくる。いや、これはまったくおじさんの勝手な考えだけどね、そういうふうに考えるからこそ、自分のものを、自分のものと同じものを、この一生の間にもう一度手に入れるというのは、なんだかいけない気がするんだ。それはおじさんが昔の人間だからそう思うのか、ただの気のせいということもあるだろうけど、だから、再生というのは気が進まないんだ。たぶん他人のものを移植してもらうより気が進まないな。こういう話、わかるかな?」

「わかるわ。神様に貰ったものを大切にしたくて、贅沢を言うのも駄目だと思うのでしょう?」

「そう、そんなところだよ」中年の男はまた襟を直した。少女が近くにいるせいで自分の身だしなみが気になっているみたいだ。

「トオルさんはなぜ義足になったの?」

「バイクの事故だよ。横から出てきた車がこっちを見ていなくてね、横からぶつけられて、飛んでいった先でガードレールにぶつかって切れてしまったんだ」

「大変な怪我をされたのね」

「想像して気持ち悪くならない?」

「平気。私想像って得意なの。得意ということは調節できるということだから、心配なさらないで」

「相手がこっちを見ていないのは見えていたから、俺の方もなんとかブレーキをかけるべきだったんだ。それでも治療や面倒なんかの費用はほとんど相手持ちだったから、そういうのが申し訳ないというのもあるかもしれないね」

「神様に贅沢をお願いしない理由?」

「そう。お嬢ちゃんはどうしてこの病院にいるの?」

 少女は両手の指先を揃えて目の下に当てた。「目を治したの。この目は義眼なのよ。つまり、私は贅沢を頼んだの。私は生まれつき目が見えなくて、光の強弱も全く感じられない目だったの。それがついこの間から見えるようになったのよ。ねえ、トオルさんは自分が初めてものを見た時のことをを憶えている?」

「いいや。なにしろ大昔のことだ。生まれる前のことかもしれない」

「それをこの年で知ることができるって、何も見えない世界から人並みに見える世界への移動を知るって、数奇なことだと思いますの。でも私は赤ん坊が世界の見方を知っていくようにはできないのですって。視覚野が発達していないまま、頭の構造がある程度固まってしまっているから、そんなに新しいことを柔軟に受け入れることは難しいの。だから本当に少しずつ慣れていかなければならないんです」

 中年の男は何かに気づいたようにちょっと口を開けた。それから少女の膝の上に置いてあるランタンの取っ手に手をかける。少女は「あっ」と小さな声で漏らした。驚きとも怯えともつかない調子だった。

「ああ、ごめんよ。でもこれはおじさんが持っておいた方がいいんじゃないかな。この光は強すぎるってさっき言っていたのに、気づけなくて悪いね」

 少女はランタンから手を離した。中年の男はそれを一度自分の膝に置き、でもそこで自立しないので隣の椅子の上に移した。光の縞模様が壁と天井の上を動く。二人の影が入口の方の壁に一緒に映るようになった。

「気になさらないでください。きっと他の人にはわからないものですし、あえて知らせるものでもないですから」少女は首を振った。一度律儀に膝の上に重ねた手をそれぞれ太腿の下に敷き込む。ちょと寒かったのだろう。確かに暖房も弱くなっていた。

「暗い方が落ち着くっていうのはそういうことだったんだね」

「ええ。見えるというのも時に難儀なものですのね。瞼を開けていれば常に何かが見えていて、見えてしまうから疲れるし、手術前よりずっと瞼を閉じている時間が長くなったのよ、でも瞼を閉じているからといって何も見えなくなるわけではないもの。瞼を透けてくる明るさや、瞼の血の色や、放射線の光や、そういったものが途切れることはないの。だから本当の暗闇というものを私はもう死ぬまで、あるいは再び失明するまで知ることはないのね」

「そうか、なるほど、君は暗闇を失ったわけだ」

「ええ、そういう言い方もいいですね」

「お嬢ちゃんはお医者さんみたいに詳しいんだね」

「もっと知ってますのよ。この目は私の目を培養したものでも、他人のものをそっくり移植したわけでもありませんの。ヒトの目やカメラの構造を有機物で再現した人工義眼なんです。金属もプラスチックも使っていないけれど、いわばナマモノの機械なのです。機械だけれど、生きているから本物の目と同じように勝手にピントや光の調節をして、私の体がひとりでに手入れをして、病気をしなければ死ぬまでこのまま使えるのですって。物を見る仕組みは人間の技術が再現できる範囲で、それを視神経に送るのにここの会社の……」

 その時部屋に灯りが戻った。少女は咄嗟に目を瞑った。瞼に皺が寄る。

「君の話はおじさんの方が頭がこんがらがっちゃうくらいだね」

「もうやめておきます。シンプルなものにプライドを持っている方にするお話じゃありませんでした」

「気にすることはない」

 少女はしばらく明るさに目を慣れさせてから瞼を開けた。「すっかり明るくなりましたね」

「思いの外早かった」中年の男はランタンのボタンを押して灯りを切った。

「あ、トオルさん、ひとつ頼みごとをしてもいいですか?」

「なにかな?」

「実は、あの、ピアノってペダルを踏むと中の棒が全部の弦を押さえるでしょう。それを見てみたいんだけど、自分で踏んでいるとどうしても中が見えなくて」

 男は頷くと生身の左足だけで立ち上がった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心水体器:佳折と灯のはじまり 前河涼介 @R-Maekawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ