異世界移転譚
現夢いつき
第一話 転生の記憶
このままでは死んでしまう、と俺は思った。
毎日毎日腰を折りながら農作業を繰り返す。昼時まで休むことは許されず、常に常に鍬を振り上げては下ろすという、上下運動を繰り返さなければならない。十六歳という若さで腰痛持ちになっては堪らない。
自分にもっと魔法の才があったなら、こうはならなかっただろう。確実に上等な教育を受けて、そして世界に貢献していただろう。こんなに汗水垂らすこともなく、莫大な富を築けていたに違いないのだ。
怒りに任せて、今日だけでどれだけ振り下ろしたのか分からない鍬を地面に叩きつけた。乱れた息を直そうと振り下ろしたままの体勢で固まっていると、後ろの方から怒鳴り声が上がった。
「おい! 休んでるんじゃねえぞ! 働かねえもんに飯はねえんだからな!」
それは父親の声であった。それを聞いた兄弟達も手を休めて俺をなじった。
彼らも限界だったのだろう。こうも暑いのに何時間も畑仕事をしているのだから。その辛さを俺にぶつけることで、ぶつけている期間身体を休めることで、体力を回復しているに違いない。
俺はそんなことを理解していた。
そして、兄弟と父親は罰と称して俺だけにここの開墾を言いつけると、そのまま農作物の収穫へと乗り出した。あそこは、緑がある分、なんの遮蔽物もないここよりは涼しくなる。噛んだ唇からは血が流れ、そのまま大地に一つの染みを作った。
クソッ! 心の中でそんな悪態を吐く。
俺は親だからという理由で、上の立場に立つ父親が憎かった。
俺は父親に気に入られているからという理由で、いい扱いを受ける兄弟を恨んでいる。
俺は魔法が使えるからという理由で、世間でもてはやされている天才達を妬んでいる。
そこまで考えた時に俺は思った。
そもそも、どうして俺はこんな所にいるのだろうかと。俺の名前はなんだ? ジョジル? ――いや、それはこの世界での話だろう? 確か、あっちの世界で生きていたころはまだ他に名前があったはずだ。
鍬を地面にさしたまま、俺は考えた。記憶の枝という枝の隅々まで思考を巡らし、記憶の深く深くへと沈んでいる。なにかが繋がりそうになっては、途切れ。途切れては繋がる。そんなことを繰り返しているとやがて俺は一つの結論へと辿り着いた。
否、結論へと辿り着いたというよりは、完璧に思い出したと言った方が正しかった。
俺ことジョジル――改め、ハルトは転生して異世界にやってきたのだ。そして、記憶を失ったまま、十六年という歳月を過ごした。何故、十六年もの間前世の記憶がなかったのかというと、それは、あっちで俺が十六歳で死んだからに他ならないだろう。
ならば、やるべきことは一つである。
俺はこの世界、《ルインストウ》から元の世界に帰る必要がある。あの世界にいた家族や、恋人を人目でもいいから探し出して、この目で見たいのである。
こんな安っぽくて着心地の悪い服ではなく、もっと上等なあの服を着たい! 魔法ではなく、純粋な能力で判断されるあの世界へ戻りたい! そして、こんな肉体労働から解放されるのだ!
そう思ったが早いか、俺は自分達の家の中へ向かった。そして、食糧や武器になる短剣をリュックに詰めると、家族に見つからないようにして家を出た。
まがりなりにも、十六年という歳月をここで過ごした手前、悲しい気分にはなったが、それもここ最近の虐げられてきた記憶を前に、灰となって荒野に消えていった。
家を出てからおよそ数週間が過ぎた。
異世界へ戻る手がかりを探すには、王都へ向かった方がいいのだろうが、あそこに入るにはそこそこの地位が必要である。異世界に転生したという俺であっても、農民上がりでは流石に地位もなにもない。だから俺は冒険者ギルドに属して、そこで名を上げることで王都へ入る許可を取ろうと思ったのだ。
単純計算で、現在の俺の歳を思うに恋人は三十二歳であり、両親に至っては五十五歳といったところである。あまり時間が残されていないのだが、王都へ行く方法がそのぐらいしかなかった。
そんなある日、俺は一人の少女と出会った。歳は五歳くらいであり、羽織っているローブはさながらボロ雑巾のようで、お世辞にも良い身分の者ではないように思えた。ただ、その肌は他の人に比べて格段に白かった。それは、彼女と会ったのが夜の暗い森の中であり、ひどくその白が映えたからかも知れない。
彼女は自らをアイビーと名乗った。
俺はどちらを名乗ろうかと逡巡したが、結局ハルトと名乗ることにした。それを聞いた少女は少し目を細めた。
「その名前……どういうこと?」
俺は一瞬、その問の意味が分からなかったが、すぐに理解した。しかし、俺の中で生まれたその仮説は少しばかり信じられないものだった。
「まさか、お前も異世界から……?」
しかし、その考えは言ってみれば別段どうってことはなかった。何せ俺は俺という前例を知っているのだから。この世界に同じような境遇の者が一人だけだということは、むしろあり得ない。
そう理解しつつ、俺はざわざわする感情を抑えつけた。
「……。ああ、そういう」
少女は頷き、少し黙った後に「質問に質問で返さないでよ」と言いつつ、口を開いた。五歳とは決して思えない発言である。
「残念ながら、私はそんな人間じゃない。むしろ逆かな?」
「逆、というと……?」
「今からあなたの言う異世界に渡ろうって言っているの」
その言葉に思わず息を呑んだ。
俺が数年、下手をすれば十数年かけて実行しようと思っていたことを、少女は今からすると言ったのだ。ここで、驚かない方がおかしい。
だが、冷静になって考えてみると、それはいささかおかしな話であった。この少女はいったいどうやって異世界に渡ろうとしているのだろうか。いくら世間に疎い俺であっても、異世界というものが認知されていないと言うことくらいは知っている。
百歩譲って誰かがそれを知っていたとしても、それは間違いなく目の前の少女ではないはずだ。俺はこの世界の厳しさを知っている。ゆえに、物事はそんな簡単には進まないことを身を以て知っている。
だから少女の言葉は妄言に近いなにかであるに違いないのだ。
だと思うのに。しかし。
俺は少女の言葉が正しいという可能性を捨てきることができなかった。タイムリミットは着実に迫っている。そんな中で、下手したら十数年もかかる工程をわずかな時間でスキップできるかも知れない方法が見つかったのだ。容易に無視できるものではない。
結局俺は、彼女にかけてみることにした。それで失う時間があったとしても、彼女の言い分を信じればそう多くはないはずだ。なにせ『今から』と言ったのだから。
「じゃあ、悪いが俺も一緒に連れて行ってくれないだろうか?」
「一緒にって……」
少女は少し困ったように俺から視線を外した。視線の先には、鬱蒼とした森の闇に混ざって黒い池があった。そんなところを見てどうするというのだろうと思った次の瞬間。夜(よ)雲(ぐも)の隙間を縫って月の光がそこに降り注いだ。池の中にもう一つ付きがあるのではないかと思えてくる光景である。
少女はそんな、ともすれば幻想的な光景を見つめたまま言った。そして俺はと言えば、月光によって見えた彼女の赤い髪が少し気になった。
「昔、水の中には強力な魔物がいたらしい。それは他の水棲の魔物達を蹂躙した。ねえ、あなたがか弱い魔物だったら、どこに逃げる?」
まだ暑さが引かない季節だというのに、その言葉は俺の頬を涼しく撫でた。背筋がブツブツと粟立っていく。だが、その問に答えなければ少女についていくことは叶わない、と感じた俺は必死に頭を動かした。
数秒かけてはじき出した答を、さも自分が常から掲げている信条のように語った。できるだけ、余裕がある大人に見えるように。
「そんなの、陸地に逃げればいいじゃないか」
それはおよそ百点満点の答だったと思う。どうしても勝てない相手がいるのならば、そこから抜け出してしまえばいいに違いない。無理にそこで戦おうとするから敗北するのだ。活路はそこ以外にも広がっているはずなのだから。
少女はそれを黙って聞いていた。
「おい、なにをやっているんだ」
「なにって……異世界へ行くための準備だけど?」
俺との会話のあと、少ししてから少女はなにやらこそこそと池を囲むようになにかを書き始めた。おそらくは魔方陣であろう。
「やっぱり、魔法で行くものなのか? というか、お前、魔法はちゃんとできんのか?」
少し小馬鹿にするような口調で俺は聞いた。
「私の心配はする必要ないから。そんなことよりあなたは暇なら、池の周りを散歩してくればどう?」
「はあ? 散歩だぁ?」
「そう。少しは冷静になって夜風に当たってくれば? と言っているんだ」
俺を突き放すような言葉に少しだけムッとしたが、席を外すことを暗に促しているのだろうと思い、少女の言うとおりに、池の周りを回った。とはいえ、一周当たりの長さはそんなにない。すぐに戻ってこれるだろう。
そう思ってしばらく歩いていると、ふと魚の魔物が陸に上がっているのが見えた。それはあまり強力なものではなく、しかも陸に上がってからかなりの時間が経過しているらしく瀕死だった。
こういうことは多々見受けられることだ。この池には主と呼ばれる強力な魔物が棲んでいると言うこともあって、小さな水棲魔物は跳ねることで宙へ逃げることができる。とはいえ、それでは呼吸ができないらしく、勢い余って出てきてしまうと、このように死んでしまう。
少しばかり可哀想だという感想を抱きながらも、自分の割に合わないことをするから悪いのだと思った。
その次の瞬間だった。突如として、遠くの少女の周りが光に満たされた。
光が徐々に彼女の前に集まっていき、やがて大きな歪みを形成した。どこにつながっているのか、すぐに直感できた。
俺はその光景を見た瞬間、走り出していた。動き出してから、どうしてこんなことをしたのか理解した。俺は、少女において行かれると思ったのだ。
事実、少女は俺のことなど全く気にせず、その歪みの方へと近づいていった。
不幸なことに(いや、おそらく少女の想定通りなのだろうが)、走り出したとき俺は少女から一番遠いところを歩いていた。全力で走っているが、はたして間に合うのかは分からない。
少女のところを見ると、もう彼女は存在していなかった。ただポツリと歪みが存在しているだけだ。それが徐々に徐々に小さくなっているのに気がつく。あれが閉じてしまったらもう一生異世界に行けなくなると、俺の勘が告げていた。
なりふり構わず、あの距離を走りきればもう死んでもいい、と思うほどの必死さで俺は数十メートルを走破し、その勢いを殺すことなく歪みの中に飛び込んだ――!
直後、後ろで何かが閉じてしまったような気配があった。
俺は笑う。息も絶え絶え、呼吸をしなければ苦しいにもかかわらず笑った。次の瞬間に広がる理想郷を思えば、こんな苦しみなど苦しみではない。
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