第11話 さて、正念場です

 ハルカがイベントに専念しだして五日目。ついにその日はやってきた。

 シルヴィアは、まさかこんなタイミングだったなんて、と密かに驚いていた。

 ゲームでシルヴィアがハルカに呪いを発動させるのは明日だったはずだ。だというのに、“彼”がこんなぎりぎりになって接触してくるだなんて。

 気付かぬうちに生徒会室に入り込んでいた―転移の魔法を使ったのだとと推測はできるが、それに気付けない程の腕前だということだ―黒いフードの人物を、シルヴィアは冷静に見つめた。

「何者です」

 すると、その人物から低い、しかし男か女か、いや声ともつかない音が発せられた。

「シルヴィア・クリステラ、貴女の望みを叶えよう」

 ずいぶんと遠回しな言い方だ。

「私の望み」

 本当に叶えてくれるのなら、叶えてもらいたい。が、“彼”はきっとそんなことはしないとシルヴィアは知っている。

「そうだ。あの『聖女』が憎いだろう。消してしまいたいとは思わないか?」

 シルヴィアは即答した。

「思いませんわ」

「……………何故だ? お前の人生を狂わせた、お前の全てだった婚約者の心を奪った、あの『聖女』をお前は許せると?」

「許すもなにも、彼女は何の罪も犯しておりません。

 それに、エドワード殿下が私の全てだなんて、そんな愚かな女になった覚えもありません」

 シルヴィアの返答に黒いフードの人物はしばらく黙り込んだ。そう返されるとは思っていなかったのだろう。

 しかし彼が目的を諦めることはないことも、シルヴィアは知っている。

「…………よく考えるがいい。機会は一度きり。明日、最も日が高く昇る時刻。それが『聖女』を消すことのできる唯一の時だ」

 シルヴィアの言葉を待たず、黒いフードの人物はゆらりと揺れ影が薄れるように消えた。

 いよいよだわ、と、シルヴィアは覚悟を決めた。

 ついにシルヴィアの命がかかったイベントが始まったのだ。

 助けはこない。“彼”と対峙するのはシルヴィアただ一人。

 それでもシルヴィアに怯えはなかった。

 ハルカやルシウスもきっと今頃、シルヴィアを助ける為に動いている。それがシルヴィアには確信できる。

 闘っているのは一人じゃない。そう信じられることが、こんなに心強いだなんて。

 人は一人では生きてゆけぬもの、だったか。

 シルヴィアは、自分一人だけで何とかできるなどという高慢な考えは改めなくては、と自嘲した。

 それに気付かせてくれた少女の笑顔が、シルヴィアの反省すら心地よく温かな思いに変えてくれる。

 そして、だからこそシルヴィアは自分を奮い立たせなければならなかった。

 人は支え合いながら生きていくもの。寄り掛かるだけの関係になるわけにはいかない、と。

 シルヴィアはどこまでも気高く、そして真の意味で人を信頼するということを、まだ知らないでいた。




 次の日、シルヴィアは生徒会室で静かにその時を待った。

 最も日が高く昇る、その直前。あの黒いフードの人物は現れた。

「心は決まったか?」

「ええ。とっくに」

 シルヴィアが微笑むと彼は沈黙し、そして擦れながら―独白のように―言った。

「―――――――『聖女』の存在を、許すというのか」

 シルヴィアは、はっきりと頷いた。

「そうよ。私はハルカ様を憎まない。彼女を呪わない」

「………………ならば、しかたがない」

 闇がうごめき魔法が発動する。ふわり、とフードが動いた、その瞬間。

 一陣の黒い刃がシルヴィアに迫った!

 こんなシナリオなど、シルヴィアは知らないけど! そもそもシルヴィアがシナリオ通りにしていないのだ。攻撃されることなど予想の範囲内だった。

 シルヴィアはとっさに防御壁の魔法を展開させた。これで刃など防げるはずだった。――――――――物理攻撃ならば。

 しかし次の瞬間、シルヴィアは驚愕した。

 刃は防御壁に当たるなり霧散し、しかしその霧は防御壁を通過して、シルヴィアの身体まで到達したのだ!

 これは、と、シルヴィアは思い当たったが、時はすでに遅い。

 シルヴィアを穿いた刃は。濃密なる闇、呪いの根源である呪詛だ。

「お前に『聖女』を葬り去りたいという感情が、まったくないとはいえまい」

 響くその声には諦観めいたものが含まれていた。

「そ、んな、ものなど!」

 そう叫んだシルヴィアの心に、じわりとわき立つ声。

 ――――――本当に? あの子を羨ましく思ったことはない?

 シルヴィアは必死で声に抗った。ない、わ。あるはず、ない! と。

 しかし、声はなおも囁く。

 ヒロインというだけで殿下やルースの心を容易く傾かせてしまう彼女を。シルヴィアは死ぬ運命だというのに、やすやすと助かる彼女を。妬ましく思っているんでしょう、と。

 呼吸が上手くできない。苦しい。耳鳴りが、酷い耳鳴りがシルヴィアを襲う。

 そうして、その声に、どんどん思考が侵されて。

 ―――彼女がイナクナッテくれレバ楽なのにッテ、思うデショ?

 シルヴィアは叫んだ。

「違う! 私はそんなこと思わない!!」

 だが声は、よりいっそう強く心の中で叫ぶのだ。

 私ハ貴女ヨ? 心ノ奥底ノ貴女。私ハアノ子ヲ、憎ンデるじゃナイ!

 黒い黒い闇の声がシルヴィアを暴く! 凶暴なまでに!!

「嫌、こんなの、は………………嫌、よ」

 シルヴィアはついに蹲った。苦しくて苦しくて、そうするしかなかった。

 シルヴィアは今までずっと、一人でも大丈夫だと思ってきた。

 ハルカと協力関係になってからも、助けてほしいだなんて、思わなかった。

 でもこの時、シルヴィアは恐怖した。

 逆らえない、勝てない、と思った。心を犯していく、この闇に!

 だがシルヴィアの心が折れそうになる寸前。

「どうやら、今回は諦めるしかないようだ」

 フードの人物の呟きが聞こえて。シルヴィアは心底ほっとした。おそらくハルカ達が呪具を無効化してくれたのだ。

 これでこの悪夢のような状況から開放される、と安堵したシルヴィアだったが。その考えは甘かった。

 確かに呪いは発動前に阻止することができた。しかし、シルヴィアに打ち込まれた呪詛は、その効力を失いはしなかったのだ!!

「お前はそれから逃れることはできない。

 闇の種はお前を苗床にして、じきに目覚める。その時に、役に立ってもらおう」

 まるで地獄への手引きのよう。闇は不吉な予言を残して掻き消えた。

 残されたのは、呪詛を胸に植え付けられたシルヴィアだけ。

 その誰もいなくなった――ただ一人になった生徒会室で、シルヴィアは床に倒れ付した。

 嫉妬、羨望、憎しみ。そんなものがシルヴィアの頭を埋め尽くし、容赦なく身体にまでも苦痛をもらたしていた。

 なにより堪らなかったのは、こんな苦痛の真っ只中に一人きりで、惨めにも床に身体を擦り付けていなくてはいけないことだった。

 ――――ホラ、誰モ助ケナイ、誰モ守ラナイ、アノ子ダケガ、幸セ

 頭の中は闇の声に侵食されていく。

 違う! 違う! 違う!! 私はハルカ様を憎んだりなど…………。

 闇を振り払おうとするシルヴィアだったけれど、その意識もだんだんと薄れて。

 黒々とした感情だけが増幅され、その他はすり削られていく。

 その時、シルヴィアは初めて。

 助けて、と、思った。

 シルヴィアは生まれて初めて、すがるように思った。

 誰もいない、希望もない、闇の中で。誰か助けて、と。

 そんなものがあるはずない、と理性は言っていた。

 けれど―――――ほら、やっぱり。

「シルヴィア!!」

 突然、開け放たれた扉から飛び込んできた、その声に。その姿に。

「ハル、カ」

 光が射した。いいや、彼女は、光そのものだった。

「大丈夫!?」

 走り寄って自分を支える、少女の腕に、その必死な顔に。

「ハルカ………………ハルカ!」

 シルヴィアの闇が吹き飛ばされた!

 そうだ! 彼女だ!!

『彼女は私を見捨てない!』

 何があろうと、絶対に。絶対に!!

 シルヴィアの思考が、呪詛から解放されていく。温かな光がどんどんと闇を祓う。これが穢れない『聖女』の力なのだろうか?

 シルヴィアには分かった。違う。これはハルカだから、彼女だからこそ救われるのだと。

「何があったの? このシナリオなら呪いは発動しないんじゃなかったの!?」

 泣きそうになっているハルカにシルヴィアは「もう大丈夫よ」と微笑んだ。同時に涙が出た。

「大丈夫そうに見えないよ!?」

「そうね。でも、本当に大丈夫なの。

 貴女が―――――――ハルカがきてくれたから」

 シルヴィアはハルカを抱き締めた。

「ありがとう、ハルカ……………助けにきてくれて」

 ハルカは戸惑いながらも、シルヴィアの背中に手を回した。

「当たり前だよ。言ったでしょ、シルヴィア………様とは、一蓮托生だって」

シルヴィアは思わず、くすっと笑ってしまった。

「シルヴィアでいいわ。さっき、そう呼んでくれたわよね?」

「あ、う、とっさに、ですね」

「私も、ハルカって呼びたいの。ダメかしら?」

「…………………………くぅ、ズルい! 断れないじゃん!!」

 シルヴィアが身体を離すと、赤くなっているハルカの顔が見えた。

 それでシルヴィアは実感する。ああ、生きているんだ、と。私達は二人ともまだ生きていて、こうして話ていられることを。

 そのありがたさをシルヴィアは胸に刻んだ。こうして二人、手を取り合えるなんて、本来ならばありえない未来のはずだったのだ。

 シルヴィアは強くハルカの手を握り締めた。

 たとえ世界のシナリオの中にいるのだとしても、未来がないわけじゃない。そう彼女は信じた。

 こうして悪役令嬢とヒロインは、死の未来を一つ、回避したのだった。





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