缶コーヒー中毒者への道

稲荷田康史

缶コーヒー中毒者への道

 少し喉が渇いたな、オレはそう思った。どこかに清涼飲料の自動販売機でもないだろうか。小高い山の無人駅からてくてく歩いて二車線の国道に出てきたところだった。近くには見当たらない。遠くの逆おむすび型の青い道路標識だけが目に付く。鳥が鳴いている。国道の片側は緑の水田だ。山の道を降りて横断歩道を渡り、オレが今歩いている側だ。反対側は草原くさはらで、駅の方へ斜面が盛り上がっていき、小高い山となっている。辺りにはちらほら人家が見られるだけで、特に何もない。車の通りはごく少ない。

 ま、こんな郊外の山村部でも、国道沿いに歩いていけば、そのうち何かあるだろう。オレはそう考え、てくてく歩き続けた。そういえば、ひと頃小さなペットボトルを首からひもでぶら下げてた人達がいたみたいだけど、あれは何なんだろうな。うーん、こういう状況だとあれも悪くはないのかもしれない。おっ、あの遠くのオレンジ色の物は間違いなく自動販売機だ。やっとありつけるかな。オレは缶コーヒー「サンデー・マウンテン」の手に取ったときの重み、周りに凝集した水滴のかすかな湿り気、ひんやりとした冷たさ、パコッというタブを起こしたときの音、そして最初の一口目の喉ごし、それからあの味わいなどを想像し、うっとりとした。実は、オレは缶コーヒーが好きなのだ。かつては一日に五、六本飲んでいたこともある。なぜだろう。軽い精神的依存性か? でも飲みたいのだからしょうがない。別に体に悪いわけはあるまい。ま、最近はそこまでのことはなくなったが、時折無性にあの缶コーヒーを飲みたくなるのだ。

 自動販売機の前に立つと、オレは財布から一三〇円を取り出した。昔は百円だったのにね。一三〇円って半端だよね。何とかなんないかな。ま、別にいいんだけどね。でも結構めんどくさいのよね、などと無責任なことを考えながら、ボタンを選別しようと、自動販売機のショウケース部分を見た。

 無い。「サンデー・マウンテン」がない。ちっ、オレは舌打ちをした。なぜだ。人気銘柄のはずなのに、よりによってなぜこれがないんだよ。ったく、気が利かねぇなあ、この土地はよお。くそぉ。

 呪いの言葉を頭の中で唱え終えると、オレは気を取り直して考えた。ま、もう少し歩けばコンビニぐらいあるだろう。もうちょっと辛抱するか。オレはまた国道沿いにてくてく歩き出した。


 オレはこの町のことはよく知らない。会社の研修でこの地方に出張してきているのだ。研修は新しい分析機器の原理についての講習を受けるというものだが、まあ特にどうと言うことのないものだ。そして二週間のつまんない講習期間の中での週末の二連休が訪れ、気分転換にあてもなく鈍行列車でふらりと小旅行に出たという訳だ。でも、何でオレがこの講習にやらされなきゃならなかったのかな。なんか職場で浮いてるオレを煙たく思った上司のいたずらじゃないのだろうな? まあ、どうでもいいけど、ひょっとすると戻った時にはオレの机も席もなくなってるんじゃないだろうな。オレは結構いい加減な男だが、さすがに慣れ親しんだ職場からしばらく遠ざかっているとやはりそこはかとない不安、見捨てられたような寂寞せきばく感、といったものを感じざるを得ない。オレは苦笑した。いや、そんな大した責任感なんてものも持ってなかった筈なのに。あ~あ、このような管理社会の狭間におけるしがらみのようなことを考えるなんてオレらしくない。まったくもってオレの柄じゃない。それよりもだ、問題は缶コーヒーだ。「サンデー・マウンテン」が飲みたいんだよ、オレは。むむ、見えてきたぞ、あれはまさしくコンビニだ。やっぱりあるじゃない。よしよし、さすが現代資本主義社会の先進国だ。どこでもちょっとした欲しいものは買える時代なんだよね。それはほんとにこの国のいい面ではあるよ。良かった良かった、一時はどうなるかと思った。オレはコンビニのドアを開けて入った。

 例のチャイムのような音がしたかしなかったは気が付かなかった。雑誌のコーナーでは二、三人の学生らしき若者が立ち読みをしていた。それを横目でちらりと見ながら、とにかく今は缶コーヒー、缶コーヒーと心の中でつぶやきながら、奥のジュース類の大きな冷蔵庫の方へオレはうだうだ歩いていった。どうしても文房具だのガム類だのに目がいってしまうものだが、オレの今の目的は缶コーヒー「サンデー・マウンテン」だけだ。余計なものまで買ってる場合じゃないのだ。いやでものど飴ぐらいは、いや、いらない。でもビタミンCの、いや、いいってば。オレは強烈な誘惑の魔の手の数々をタフな神経でなんとか乗り切り冷蔵庫の前に立ち止まった。

 えーと、「サンデー・マウンテン」「サンデー・マウンテン」。オレは冷蔵庫の中を上の段から順に目で追った。これは「スウィート・ブレンド」これは「ビター・ブレンド」これは「オリジナル・ブレンド」……。あとは烏龍茶に緑茶にコーラにミネラルウォーター……。む、む、む、ないじゃん。「サンデー・マウンテン」が無いじゃん。何てことだ。オレは一瞬カッとなり目の前のガラスをぶち破ろうかと思ったが、止めた。まっとうな社会人がそんな真似をしてはいけない。はは、オレとしたことが、はは、どうかしてるね、まったく。とほほ、無いよ。何で無いの。困った。「オリジナル・ブレンド」でも飲むか。いや、そうはいかん。オレは誇り高き人間だ。妥協はできない。簡単に他の銘柄で納得したりはしない。アレでなきゃ駄目なんだよ。

 オレはしかたなくコンビニを出た。

 うーん、どうしよう。他になんかないかな。あっ、スーパーがあるんじゃない。もう少し行けば、スーパーぐらいあるんじゃないか。郊外型のスーパーがあるはずだ。まあ、うだうだ歩いていけばそのうちなんかあるだろう。


 オレは再び国道の路側帯をだらだらと歩いていた。缶コーヒーを飲みたいのだが、どうしようもないほどの喉の渇きでもない。なんとかなるだろう。左手の水田の中では目玉模様の風船やメタリック・カラーのビニールの吹き流しの様なものが風に吹かれてビラビラと揺れている。キョロキョロよそ見をしながら歩いていると道路標識にぶつかりそうになったりする。相変わらずいい天気だ。オレは上着の前をはだけた。おや、何か見えてきたぞ。あれはドライブ・インかな。ファミレスか。オレの進行方向左手にちょっとした駐車場付きの飲食店が見えてきた。郊外の国道沿いといっても色んな店があるもんだよね。自動販売機もある。オレはその店の白線で仕切られた駐車場の片隅にある販売機の前に立った。ショウケース部を見た。あるじゃん。「サンデー・マウンテン」だ。なんてこともなかったな。オレは小銭を投入し右から三番目のそのボタンを押した。ガラガラ、ガッチャという音がして、下の受け皿に缶コーヒーがボロンと出てきた。オレはそれを取り出して、缶のラベルを見た。あれぇ、違うの出てきちゃったよ。「モカ・ブレンド」などと書いてある。オレのこめかみに一筋の汗が流れた。何でこうなるの? 信じられない。ボタンの押し間違いか? いや、そんなことはない筈だ。どうする。もう一回買うか。また違ったらもったいねぇな。うーん、くそぉ、しょうがねぇか。オレはもう一度小銭を投入し、念入りに確認しながら右から三番目のボタンを押した。下に出てきた缶を取り出すと、今度は「キリマン・ブレンド」と書いてあった。この機械オレを馬鹿にしてるのかな。オレは両手に持った二本の缶を見つめて、しばらくそこにボーッと立ち尽くしていた。

「あの、すいません、いいですか?」

 後ろから女の声がした。振り向くと、頭にスカーフをかぶり黒いサングラスをした女だった。オレは少々やけくそ気味な気分だったので、細かいことを考えることもなく言った。

「ああ、これ間違って買っちゃったんだ。君にあげる」

 オレは、あっけに取られた彼女にうむを言わさず二本の缶を手渡すと、すたすた振り返りもせずにまた歩き出した。

 何故だ。なぜ「サンデー・マウンテン」がないのだ。何かの陰謀か? 寄ってたかって誰かがオレをこけにしているのか。オレは気分を害したまますたすた歩いていたが、ちょっと疲れてきたのでペースを落とし、まただらだらと国道沿いを歩いていった。

 オレが缶コーヒーを好きになったのはいつからだろうか。歩きながらオレは考えた。子供の頃は炭酸飲料が好きだったよね。ラムネとか飲んでたよね。運動会の時とか。それ以外の時も飲んでたな。ポンと上を叩くとフタのビー玉が落ちて、中からどっと泡が吹き出すのよね。今でもどこかに売ってるのかなあ。サイダーも飲んでたなあ。コーラも好きだったよね。そういえばベビーコーラってなかった? あったねぇ。なつかしいなあ。高校生の頃は乳性炭酸飲料とか飲んでたなあ。緑色のヤツ。クラブ活動の帰りに寄り道してね。そうそうホームサイズのコーラを一気飲みみたいにしてた奴がいたな。ありゃなんだろうね。今だとちょっと考えられないな。昔はペットボトルなんてなかった。全部ビンだったんだよ。そのうち缶ばっかりになっていったんだけどね。ビンをお店に返しにいくと十円とかもらえたんだよね。なつかしいなあ。ああ、ビンの王冠のうら側のゴムをめくると当たりとかがあって、キーホルダーとかヨーヨーとかもらえたんだよね。どうでもいいんだけどね。時代も変わったよなあ。今や緑茶やミネラルウォーターまで売ってるよね。色んな栄養ドリンク、サプリメントのドリンクとかもあるんだね。缶コーヒーといえば、パチンコ屋の中にしか売ってないというのもあって、あれもあれでなかなかオツなものだ。最近パチンコ行ってないなあ。パチンコしながら飲むドリンクって最高にうまいよね。どうでもいいんだけどね。

 そんなことを考えながら歩いていると、後ろからプップッーと車のクラクションが鳴った。オレが立ち止まって振り返ると、さっきの女が屋根のない白いスポーツカーの運転席から手を振っている。

「どこまで行くの? 乗ってかない?」

 女はきわめて明るい声で言った。


 オレは女の車の助手席で、運転している彼女の横顔をしげしげと眺めていた。三角形に二つ折りしたスカーフを頭にかぶり、あごのところで結んでいる。(こういうのってなんとかって言うのかな?)そして黒いサングラスを掛けている。おまけにカブリオレのスポーツカーだ。かなり大時代的な女だ。オレは少し非現実感におそわれながら訊いた。

「君、名前はなんていうの?」

「ジョディよ」女はさり気なく言った。

 おいおい、お前こてこての日本人だろ、と思いながらもオレは黙っていた。

「あのー、フルネームは?」

「ジョディ・川原っていうの」

「ハーフなのかな?」

「違うわ」

「クォーターかな」

「違うわ」

「外国生まれなんだ」

「日本生まれよ」

「外国育ち」

「日本育ちよ」

「んー、でも君の名前からすると……」

「とにかく私の名前はジョディなのよ」

 あーそうか、とにかくジョディって名前なんだ。オレは何だか分からないまま納得しかかったものの念のために訊いた。

「君のお父さんかお母さんが外国で暮らしてたとか」

「いいえ、普通の日本人よ。普通の中流サラリーマンの家庭よ。そして私の名前はジョディ」

 うんうん、そういうことなんだね。君の名前はジョディだ。分かったよ。こんな妙なことがあってもおかしくはない現代日本社会だ。そういう時代だ。深く突っ込んではいけない。

 しばらく沈黙が流れた。

「あなたの名前は教えてくれないの?」女が言った。

「ああ、オレの名前は山田純一っていうんだけど」

「コーヒーおいしかったわ」

「ああ、別にいいんだよ。気にしないで」

「気にしてないわ」女はさらりと言った。

「えーっと、そうそうこの辺にスーパーマーケットとかあるかな?」

「確かこの先にあったわね」

「そりゃ丁度よかった。そこまで乗せてってくれ。そこまででいいよ」

 オレは考えた。しまった、不用意に変な女の気を引いてしまったのかな。人間あんまり軽率な行動をとるもんじゃないな。いや、でも犬も歩けば棒に当たるとか袖振り合うも他生の縁なんて言葉もあるけど……。

 オレは再びしげしげと女を見た。なかなか美人っぽい女だ。オレよりちょっと年下かな。短めのスカートを穿いている。形のいい脚が伸びている。白くてむっちりした太股。オレは不意に女のスカートの中へ手を突っ込みそうになったが、止めた。まっとうな社会人がいきなりそんな真似をしてはいけない。オレはラジオをいじくる振りをした。「ニュースかなんかやってないかな」

 彼女は横目でちらりとオレを見ながら、手を伸ばしラジオのスイッチを入れた。アナウンサーの声が流れ始めた。

「……えー、では次のニュース。国内の数ヶ所で小規模の暴動・掠奪が発生しました。発売終了となった缶コーヒー『サンデー・マウンテン』を求めて、数十人の市民がスーパーマーケットなどで破壊行為・掠奪行為に及ぶという事態が発生しております。国内の三ヶ所で同時発生的に起こった模様です。缶コーヒー『サンデー・マウンテン』が店内に置いていないことに腹を立てた客が店員と口論になり、騒ぎが大きくなっていったのが発端とされています……」ニュースは続いた。

 なんてことだ。「サンデー・マウンテン」は発売終了なんだ。通りで無いわけだ。いつからだろう。もう残ってないのだろうか。オレは何かの禁断症状にも似た焦燥感におそわれ始め、ひざもとに置いたこぶしをワナワナとふるわせた。そりゃ暴動が起こっても不思議ではない。無理もない。

「あら、あなたも缶コーヒー・ジャンキーの一人なのかしら?」女が言った。

「缶コーヒー・ジャンキーって何?」

「知らないの。最近増えてるのよ。お気に入りの銘柄がないと暴れ出すんですって」

「フン、そんなの新感覚社会派SFにしかない話だ」

「いいえ、違うわ。この現代社会ではそんなことが起こっても全然不思議ではないのよ。そうでしょ? 現にあなたも顔付きが変になってきたわよ」

「大人をからかっちゃいけない。そんなことあるもんか」オレの手の顫えは止まらなかった。

「あなた、さっき『サンデー・マウンテン』を買おうとしてたでしょ」

「いや別に……」オレは腕組みをして言った。

「ちゃんと見てたのよ。正直に言いなさいよ」

「それがどうしたんだい」

「あら、なぜ隠すのかしら?」

「別に隠してないよ」

「怪しいわね。やっぱり、ジャンキーだわ」

「そんな言いがかりはやめろよ」

「言いがかりじゃないわ。ただ『サンデー・マウンテン』を買おうとしてたんじゃないって訊いてるだけよ」

「ああ、そうだよ! 買おうとしてたんだよ」

「そして、買えなかったから、スーパーまで行くんだ」

「その通りだよ。それがどうした」

「ふふふっ」女はいかにも愉快そうに笑った。「ふふふっ、やっぱりジャンキーだわ」

「馬鹿なことを言うんじゃない!」オレはイライラして言った。そういうことを言われれば言われるほど焦燥感が高まるような気がしたからだ。

「ふふふっ。ふふふっ」女はまだ笑っていた。「ふふふっ」

 オレはカッとして女の首を絞めてやろうかと思ったが、止めた。まっとうな社会人がこんなことでいきなり人殺しをしてはいけない。

「停めてくれ。降りる」オレは言った。

「あら、スーパーはもうすぐなのに。やっぱりあなたおかしいわ」

 オレは黙っていた。確かに言われてみれば、さっきから少しおかしいのかもしれないと考えたからだ。しかし、それが何だというのか。オレは缶コーヒーが飲みたいだけだ。ただそれだけじゃないか。

「オレは缶コーヒーが飲みたいだけだ。君には関係ない」オレはぼそっと言った。

 今度は女がしばらく黙っていた。そして言った。「甘味依存性って知ってる?」

「甘味依存性? 聞いたことないな」オレは答えた。

「じゃ、ひと頃パチンコ依存性って話題になってたのは知ってる?」

「ああ、それは聞いたことあるな」

「現代人は様々なストレスにさらされているのよ。多かれ少なかれ人は誰でも神経症予備軍といっても過言ではないわ。そして、溜まりに溜まったストレスや心の不安を特定の何かでしか解消できない、さらには、それに社会生活を放棄してまでのめり込んでしまう、そうなってしまったのが依存性よ」

「オレがその依存性だっていうのか」オレはうすうす心当たりあるだけに、なおさらムキになって反論した。「そういうこともあるのかもしれないけど、何でも病気扱いするってのはどうなのかな。人間はある程度好きなものに依存して生きてるんじゃないのかい? 何とか依存性だの何とか症候群だの怪しげな疑似科学的センセーショナリズム的無責任な社会評論家的なマスコミ言論だろ?」

「そうかしら? そんな兆候をいち早く指摘するからこそ評論家なのじゃないかしら」

「確かにそうかもしれないけど、近頃はそんなのが多過ぎるよ」

「でも逆に言えばそんな神経症気味の人達が本当に増えてるんじゃないのかしら」

「そんなことは専門家じゃないからオレには分からないよ。まさか君がその社会評論家ってやつじゃないだろうな」

「いいえ、そうじゃないけど。ただその手のことに興味があって勉強してるだけ」

「ほお、そのお勉強の成果をオレに披露してくれるのは有難いけど、生憎オレは今君と時事放談をやる気はない」

「あら、つまんない人ね。ちょっとは面白い人かと思ったのに」

「君は面白がってオレをモルモットにしようとしてるんじゃないのかい?」

「どういうことかしら」

「君は君の知ってるそんな症例に勝手にオレを当てはめてジャンキー呼ばわりしてるだけだ。そんな生意気な学生みたいな知ったかぶりをするんじゃない」

「そうね、悪かったわ。あなたはまだまともな方かもしれないわ」

「まだまともな方かよ」

「だってさっきのニュース聞いたでしょ。現に異常な事件が起こり始めてるじゃない。現に缶コーヒー・ジャンキーがいるのよ」

「それもそうだが……」

「ふふ、あなたも気を付けてね。ああ、スーパーが見えてきたわ」

 車の前方右手に大きなスーパーマーケットの看板が近付いてきた。対向車線の側に入口が見える。

「よし、そこの信号のところで停めてくれ」

 女は車の速度を落とし、左側に寄せ、停車させた。オレはドアを開け車を降りた。

「とにかく、お礼を言うよ」オレはそう言ってドアを閉めた。

「いいのよ、私が誘ったんだし。お話できて楽しかったわ。それじゃ、缶コーヒー・ジャンキーさん、またいつかね、バイバイ」

 女は片手を振ると、車を発進させ、風のように遠ざかっていった。

 おかしな女だ。それともオレがおかしかったのだろうか。おかしなことをするとおかしな人間が寄ってくるのかもしれないな。オレはそんなことを考えながら、歩行者用信号機のボタンを押した。信号が青に替わると、オレはスーパーの入口を目指して横断歩道を渡っていった。


 オレはスーパーの入口の自動ドアを通り抜けながら考えていた。「サンデー・マウンテン」は発売終了だといっても、まだここには残ったものが売っているかもしれない。ニュースで聞いた騒ぎにしても、まだ売れ残ったものがあればこその話なのだろう。うん、きっとここには売っているような気がする。そんな気がする。いや、でもひょっとするとオレはどうしても「サンデー・マウンテン」をもう手に入れることが出来ないのかもしれない。うう、どうしても飲みたいのに。もしなかったらどうしよう。オレも暴れだすのかな。暴れてどうなる。しかし自分を抑えられるのだろうか。何を考えてるのだ、これではあの女が言ってたジャンキーそのものではないか。だが、この焦燥感は何だ。オレはちょっと変なのだろうか。いや、違う、というよりは世の中全体が変なのだ。オレは理由のない焦りに突き動かされ、足早に食品売場の中へ入っていった。

 オレの目の中に売場の一画へ連なる長い人の行列の様子が飛び込んできた。主婦や若者に混じってサラリーマンらしき男性の姿もある。オレは何か嫌な予感がした。オレは行列の先頭の方へ行ってみた。オレはそこの看板に書かれているものを見て愕然とした。

〈「サンデー・マウンテン」限定発売中。お一人様一本限り〉

 縁日やイベント会場でよく見かける大きなスチール張りの水槽があり、氷水の中に缶コーヒーが漬かっている。店員がそれを取り出してタオルで拭き、並んでいた客が順番に一本ずつ受け取ってはもう一人の店員に金を払い、立ち去っていく。オレが見たところではまだ結構数はあるようだ。奥には中身の詰まった段ボール箱が置いてある。それにしても何といまいましいことなんだ。これが最後の試練なのだろうか。オレは仕方なく行列の最後尾に立った。

 恐らく買えることは買えるだろう。しかし何が起こるか分からない。オレはまた焦り始めた。本当にオレの順番は回ってくるのだろうか。しかも驚いたことにはオレの後にもどんどん人が並んでくるではないか。いやはや恐れ入ったね。日本人は一般的に行列するのが好きみたいだが、オレは好きではない。だが「サンデー・マウンテン」のためならしょうがない。オレは背伸びをして前の方を見た。なかなか順番は回ってこない。なんでオレがスーパーで行列の順番待ちをしなきゃいけないのかな。だいたい今日オレは何をしようとしてたんだっけ。もうどうでもいいや。はて、行列するのっていつ以来かな。数年前のパチンコの新装開店の時が最後だな。パチンコの新装開店ってドキドキするよね。パチンコ屋って行くだけでもドキドキするよね。でも最近の新装開店って昔ほど大したことなくなったよね。昔は本当に熱かったのにね。古き良き時代ってやつかな。今はそれほど熱くなるものが何かあるだろうか。時代も人の心持ちも変わっていくのかな。ああ、そうそう今はゲーム・ソフトの新作の売り出しの時なんかに人が行列してるね。うんうんあれもあれでなかなかすごいよね。ああ、正月の初売りの時なんかは並んでるのかもね。福袋とか。何が入ってるんだろ、なんて。オレは買ったことないけどね。昔はデパートなんかに買い物に行くのが楽しみだったんだよね。食堂でミルクセーキとかホットケーキとか食べるのも楽しみだったよね。今はここみたいに郊外型のスーパーマーケットの方が主流なのかなあ。まあ、よく分かんないけど、たまにちょっとお洒落して買い物に行く、なんてのも悪くないよね。世の中、景気の良い時もあれば悪い時もあるんだろうけどね。皆がんばって幸せになってくださいね。はは、経済ってよく分かんないんだけどね。結局さあ、人類にしてもひとつの国民にしても、オレが思うに、やる気があるかないかってことだけに懸かってるような気がするのね。もういいやって思えばそれまでだし、いやいやまだまだって感じでやる気があれば存続すると思うのね。まあ、どうでもいいんだけどね。

 とりとめもないことを考えている内に、オレの前の人の列が大部さばけてきた。オレは財布から一三〇円を取り出した。今日これで何回目かな。オレの前の前の人間が去っていく。オレの直前の人間が去っていく。オレの順番が来た。店員がオレに「サンデー・マウンテン」を手渡した。やった、ついに手に入れたぞ。オレが一三〇円払うと、もう一人の店員が缶にテープを貼った。オレは歩いていきながら手に持った缶コーヒーをじっくりと見つめた。ああ、「サンデー・マウンテン」だ。オレは感激で目が潤んだ。どんなにお前に会いたかったことか。もう会えないかと思ったよお。うーん、これが最後になるかもしれないんだなあ。ゆっくりよく味わって飲まなきゃなあ。

 突然、後ろの方が騒がしくなってきた。オレは足を止め振り返った。客と店員が何やらめているようだ。オレが缶コーヒーを買ったまさしくその売り場だ。行列の後ろからは「早くしろよ」などという声がしている。何かヤバいな、とオレは思った。行列が後ろからどんどん押されて売り場の方へ人が詰まってくる。そしてついに飛び出してきた一人の茶髪の若者が缶コーヒーを掴むとオレの横をすごい速さで駆け抜けていった。

「あっ、お客さん! 待ってください!」店員が叫んだ。

 それが引き金となって行列していた人々は暴徒と化し、売り場へ押し寄せた。水槽の周りに見る見る人が群がってきた。制止しようとした店員は客達にもみくちゃにされながら彼方へ消えていった。何人もの人間が数本の缶コーヒーを掴んでは逃げていった。レジスターが床にガシャーンと落とされた。レジの看板や台も滅茶苦茶に破壊されていった。そして、とうとう、大勢の人間の恐るべき力によって、あの大きな水槽が一気に横倒しにされた。グァララジャバーンという音響がして、大量の水、氷、そして缶コーヒーが辺りの床一面にぶちまけられ拡散していった。

 客達の間では「サンデー・マウンテン」の奪い合いも始まっていた。押競おしくらまんじゅう状態になった人間達の上に伸ばされた複数の手の上で缶コーヒーが踊っている。別な場所では殴り合いを始めるやつらもいる。オレは呆気あっけにとられてそれを見ていた。

 オレの足許に一本の「サンデー・マウンテン」が転がってきた。オレがおやっと思う間もなく二人の男がそれ目がけてヘッドスライディングしてきた。オレは泡を食って横っ飛びに逃げた。男二人は豆腐類を売っているチルドの下部に激しく頭をぶっつけて伸びてしまった。まったく浅ましいやつらだ、オレはそう思い、とにかくこの場から離れるために駆け出そうとした。と、その時、派手なTシャツの若者がオレの手から「サンデー・マウンテン」をひったくり逃げていった。「あっ、このヤロー、何をする!」オレはとっさに近くに積んであった缶ビールをTシャツ目がけて投げた。缶ビールはヤツの後頭部に見事に命中した。缶が弾けTシャツは頭を白い泡だらけにして大の字にその場に倒れた。オレは両手をはたき、「フン、馬鹿めが」と言った。そしてTシャツの右手の先に転がった缶コーヒーをゆっくりと拾い上げた。「中堅サラリーマンをなめるんじゃない」オレはそう言い捨て歩き出した。すると、今度はひとりのオバはんがオレの手の缶コーヒーを狙って突進してきた。オレがひらりと身をかわすと、彼女はバランスを崩し体をひねりながらすぐ先にあったショッピング・ワゴンの中に飛び込んだ。ショッピング・ワゴンは、凹の字型に体を折り曲げてはまり込み両手両足をバタバタさせている彼女を乗せて、はるか彼方へ滑るように消えていった。「お前はイノシシか」とオレは言った。

 ともかくオレは一刻も早くここから脱出すべく出入口へ急いだ。

 スーパーの出入口付近にはオレンジやジャガイモが散乱している。オレはそれらに足を取られそうになりながらも、外へ出ようとさらに足を進めた。カップラーメンがオレの頭の上から五、六個降ってきた。入口からは通報を受けて来たらしい警察官が数人ドヤドヤと走り込んでくる。やれやれえらいことになったな。さっきのニュースのまんまだね。オレの目の前を切り身の魚のパックがブーメランのように飛んでいった。奥の方ではガシャン、ガタンという騒音や怒号や悲鳴が渦巻いている。相変わらず色んな物も飛び交っている。まさに修羅場だ。人間の恐ろしい本性を見せられた思いだ。騒ぎの中心部に居なかったのが何よりだった。危ないところだった。あのサングラスの女が主張したとおり、缶コーヒー・ジャンキーの群れとしか言いようがない。そして彼女風に言えばそれにヒステリックな集団心理も加わって異常事態が起こったというところだろうか。もしオレが缶コーヒーを手に入れられず行列の中間に居たままだったらどういう行動を取っていたのだろうな。オレも暴徒と化していたに違いない。まったく恐ろしいことだ。やれやれ。


 ほうほうのていでオレはスーパーマーケットの外に出ることができた。出入口付近には何台ものパトカーがいて、赤いランプをチカチカ点滅させている。青黒い色のトラックも停まっていて、ヘルメットに盾を装備した機動隊員が整列、待機している。

 オレはその物々しい光景を横目で見ながら、少し離れた街路樹の木陰にあるベンチのところまで行き、どっかと腰を下ろした。

 まったく大変な一日だった。しかし、苦労の甲斐あって、ようやくこの「サンデー・マウンテン」を味わうことができる。オレは缶のラベルをにっこりして眺めた。そして、オレがタブを開けようと手をかけた時、一人の警官がこちらに近付いてきた。

「それは『サンデー・マウンテン』?」警官はごく軽くオレに話し掛けてきた。

「ああ、そうです。騒ぎが起こる直前に買ったんですよ。ほら」オレは缶に貼ってあるテープを警官に見せた。警官は頷いた。「もう少しで騒ぎに巻き込まれるところでした」オレは屈託のない笑顔で言った。

「最近はどこでもあんな連中ばっかりなんだよ」警官は言った。「まったくおかしな世の中になったもんだ。ところで」

 警官は腕時計をさり気なく一瞥した後、さらに言った。

「つい今しがた発効した条例によって、そのコーヒーはもう飲むことができません。おとなしく回収に応じていただきます」


                  (了)

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缶コーヒー中毒者への道 稲荷田康史 @y-i-2018

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