下水処理場編
第60話 プロローグ
朝、いつものように流しの前に立つ。そして手を洗おうと手元を見る。
「…あ」
そこでようやく前髪を留めていない事に気付く。
最近伸びた髪が気になるようになった。以前はラベールと桂花が切ってくれていたから気にならなかったが今二人はこの街にいない。床屋という所で切って貰えるという話を聞いたが何となく踏ん切りが付かず未だ行けていない。普段は束ねたりエアリィから貰った髪留めで気にならないようにしているがまだ慣れてなくてこうして忘れてしまう事も度々ある。
「いい加減切らないとな…」
ふと頭の上に重さを感じる。
「にゃあ」
そして鳴き声がする。
「おはよう、ブチ」
「にゃあ」
ブチに話し掛けるとこうして返事が帰ってくる。人間にはモスにゃんが何を言っているのかは分からないがモスにゃん、少なくともブチには人間の言葉が分かっているようである。そう思わせる事が度々あった。
「ちょっと前髪を掻き上げててくれないか?」
「にゃあ?」
だからといってこちらの意図を全て理解してくれるわけでもなく私は観念して髪留めを取りに部屋に戻る。
「おはよう、イーレ」
階段を登った私は起きて来たセイジと会った。
「ああ、おはよう。すぐ朝食にするから待っていてくれ」
この家に住む同居人はセイジだけではない。ティレットとエアリィと洋子さん、それから私を合わせて五人だ。私はそんな中食事を作る役目を買って出ている。みんなの為にと言うよりは趣味としての意味合いが強い。私は単純に料理が好きなのだ。
「いつもすまないな。ゆっくりで良いからな」
「ああ、そうする」
なのに私は度々こうして感謝される。私はみんなに感謝してもらいたくてやっているわけでは無いので言われる度に気が引ける。
部屋に戻って鏡を見ながら前髪を掻き上げ髪留めで留める。この鏡は金属板を磨いて作られている。磨かれた金属の光沢は美しいだけでなく今私の顔と頭の上にいるブチを映し出している。
「これで、よし。さあ、戻るぞ、ブチ」
鏡の中のブチに声を掛けるとブチはどこか嬉しそうに、にゃあ、と鳴いた。
僕は今異世界にいる。この世界の名はティレナイ。ここはトイレのない世界だ。
だがそれも過去の話。僕の住むこの街、ビフィスにはトイレがある。
「おーい、勇者!ちょっとこっち来てくれ!」
大工さんに呼ばれ何事かとそちらに向かう。
「ほれ、ここ。図面よりちょっとズレてるぞ」
「あー、仕方ないですね。穴の方に合わせてもらっても良いですか?」
「ああ、分かった」
見ると下水道へと繋がる配管の位置が設計図面とズレている。ここティレナイの技術では地中にある下水道の位置を完全に把握する事は出来ず図面上の配管の位置と現物とで違ってしまっているのだ。こんなのはよくある話で問題が生じる度にその場の判断で修正する必要が出てくる。その判断を下すのは責任者である僕だ。これも僕の仕事だ。
僕が何をしているかというとこの街にトイレを作っているのである。
「にしてもこれで四十か、増えたなぁ」
「そうですね」
今作っているトイレは全て水洗だ。このトイレはこの世界で非常に好評で本来交易の要衝として栄えていたビフィスだがトイレ目当てにこの街を訪れる人も少なくない。そして作ったトイレは人が絶える事がなく増やしても増やしても混雑が緩和される事はなかった。
「便器はいつ届くんだ?」
「明後日くらいには。四日前にはレンサを出発してますので」
レンサは陶器で栄える村である。僕はその村の猫六さんとそのお孫さんに便器を作ってもらった。猫六窯は元々寂れた窯元だったのだが今では便器の量産化も目処が付いた事もあり人を雇う程に繁盛している。
「そういやあ、洋式だっけか?そっちの開発は順調かい?」
「うーん、まだまだですねぇ。何しろ形が複雑ですし今のを作る合間にしか出来ませんし」
今作って貰っているのは和式便器だ。と言っても日本の物とは形が違う。この便器では用を足している最中水を流しっぱなしにするのでそのために穴を深くして水が跳ね返る事がないように工夫してある(この水はビフィスの北にあるビフィド山から流れる水が豊富なためほぼ無尽蔵に垂れ流しにすら出来るのは本当に有り難い)。これは日本の便器のように水を溜めて臭気が上がってこないようにするという構造を再現出来ないがためのやむを得ない作りだ。そして洋式便器となるとその構造は複雑で再現は難しいしどうアレンジするのかも未だ研究段階といったところだ。それを忙しい合間にやるのだから遅々として進んでいないのである。ああ、時間が欲しい。
「じゃあ今週中にガワだけでも作っちまうか」
「ええ、お願いします。いつも有り難うございます」
「はっはっは、礼を言うのはこっちだぜ勇者!あんたのおかげで大繁盛なんだからな!」
大工さんはそう言って笑う。ちなみにこの世界には異世界人がたくさん訪れている。と言っても自由意思で来たわけではなく僕と同じように気付いたらここにいたという事なのだろうが。そしてこの世界に来た異世界人は戦士、魔法使い、賢者、そして勇者と分けられれそれぞれの力を活かせる仕事を与えられる。勇者と言うのは戦士でも魔法使いでも賢者でもない異世界人だ。つまり僕だ。特に仕事が与えられるわけでもなく待遇も悪い。こうしてトイレを作っているのは僕が自発的に始めた事で今では仕事のようになっているが別に勇者の役目というわけではない。で、作ったトイレがこの世界の人々にウケてもっと作ってくれという話になっているだけである。だがそれなりの給料も貰っているのでまぁ悪くはない立場である。
それに僕には野望がある。それは温水洗浄機付きのトイレを作ることだ。もちろんこの世界には電気もモーターもプラスチックもない、洋式便器すら作れていないのだから困難である事は分かっている。だがあの素晴らしい物をこの世界にも作り出したい。僕はそのために今こうしてトイレを作っているのだ。
「そう言われましても…。どうしますか?市長」
「そうですねぇ。引き受けるのも悪くはないと思いますが、そうなると皆さんの業務が煩雑になってしまいますよね」
「そこを何とか」
役場に戻ると受付で市長と受付のお姉さん、それに見知らぬ青年が何やら揉めていた。ちなみにこの役場の一室が今の僕の職場である。
「ああ、清治君、お疲れ様です」
「どうも、戻りました。何かあったんですか⁉」
市長さんも受付のお姉さんも今ではすっかり仕事仲間だ。トイレを作るに当たっては世話になってばかりだ。もっとも役場としてはトイレが街に人を呼び込む手段であるという事で持ちつ持たれつな関係でもある。そんな人達が何やら困っている様子なので気にはなる。
「この方がね、ランスから来られたんだけど」
「ランスから?」
ランスとはビフィスの南にある海に面した港町だ。ここからだと歩いて三日はかかる。その途中にはランス湖という美しい湖がある。この湖にはビフィド山からの水が流れ込んでいる。その水量は豊富で湖に流れる川にはこの街の生活排水が流れ込んでいるにも関わらず湖の水質は綺麗だ。自浄作用が高いなら大丈夫だろうという事で今ではトイレの排水も流している。
「ええ。あのね、今ランスで豊漁が続いててね、人手が足りないんだ。干物とか加工品を作る人手がね。それで最近人が増えたっていうビフィスで手伝ってくれる人を探せないかって話してたんだ」
青年は青年と言うにはちょっと老けているように見える。猫六さんのお孫さん(通称六代目)よりも年は行っていると思う。六代目さんが三十ちょいだからこの人は四十近いように見える。だから青年?とは思う。
「ああ、硬干しとか?」
「そうそうそう。なに硬干し知ってる?」
「ええ、いい出汁でますよね」
出汁というか薄く切って煮るとまるでうどんの汁のような味が出る。レンサで出会った九ちゃんさんに作り方を習ってから我が家の料理担当であるイーレと一緒になってよく作っている。
「いやあ~嬉しいね!でね、その硬干しなんかを作る人手が足りないんだよ。なにせここんとこ豊漁で豊漁で。魚が取れるのは良いけど量が多いから仕分けするだけでいっぱいいっぱいでね。加工まで手が回せなくなっちまった。一応ここでも宣伝はしてもらってるからビフィスに来たついでって言って来てくれる人も多いんだけどね、直に来て食べて貰うのは一番なんだが元々は魚を取って加工して出荷してって商売が本道なんだ」
「そう言えば最近ランスからの荷が減ってるみたいですね」
「そうそうそう、そうなんだよお姉さん。このままじゃ獲った魚まで海に捨てなきゃなんねえ。そうするとそれに魚が集まってまた獲れちまう。まさに嬉しい悲鳴さあ」
「なんだか大変な事になってるんですね。どうしてそんな事に」
「いや、それが分かんないだけどな。一つあるとすりゃ川の水が濁ってるとかか?」
「川?」
「おう、ビフィド山から川が流れてるだろ、それがランス湖に入って、そっからランスまで流れてんだよ。それでその水がな、なんとなく濁ってるんだ」
嫌な予感がした。
「それは季節の変化とかである事なんじゃないですか?」
「ん?ああ、俺もそういうのかとも思ったんだけどなぁ」
「違うんです?」
「ランス湖も汚えんだよ」
聞いた瞬間僕は走り出していた。
まさか、そんなはずはない。
ランス湖まではビフィスからだいたい一日歩けば着ける距離にある。フルマラソンと同じくらいの距離感だ。フルマラソンの走者なら二時間、素人の僕だってその倍の四時間も走れば着けるだろう。まだ午前中だ。走れば夕方になる前に辿り着けるはずだ。
走りながら考える。ランス湖が汚い?その原因?そんなのは一つだ。
この街から流れる汚水だ。
でもそんな馬鹿な。トイレを作ったって言ったって四十に満たない場所に作っただけだ。一箇所に個室は四~六。その程度の場所から流れる汚水の量なんてたかが知れてる。
いくらトイレで用を足す人間が多いとは言え一回で出る量なんて大したものじゃない。それがどれだけ増えた所であの大きな湖、ランス湖が汚水まみれなんて事態になるわけがない。きっと僕の知らない自然現象か何かだ。たまたまだ。汚水のせいじゃない。
それにランス湖は自浄作用の高い湖だ。ビフィド山からの豊富な水量のせいだ。あれやこれやと節操なしに垂れ流しにしてるくせに綺麗なんだ。そこにちょっと汚水が混じったって大した事にはならないはずだ。きっとあの青年が大袈裟に言ったんだ。あのランス湖が汚いなんてあるわけがない。僕の聞き間違いだ。きっとこの世界に間違って伝わった言葉を口にしたんだ。行って見れば綺麗な湖がそこにある、はずだ。
走る。ただ走る。
四時間の全力疾走なんて人間に出来ることじゃない。息は切れ足は悲鳴を上げる。頭の中が沸騰でもしてるみたいに顔が熱い。
それでも走る。足が縺れて転ぶ。それでも立ち上がって、走る。
四時間、ただ馬鹿みたいに走ってランス湖に辿り着く。
「なんだ、これは…」
あの綺麗だったランス湖は汚くなっていた。まるでドブ川の水が溜まったみたいに。
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