第52話 迷宮綺譚 6
この世界に来て三ヶ月が経とうとしている。期限が迫っている。ここに泊めてもらえるのもあと少しだ。だがこれから住む場所は決めている。あんな所に雨露を凌げる場所があるなんて思わなかった。暗いし街からは少し遠いしトイレにも若干不便ではあるけれども。それでもないよりはマシだ。あそこなら誰も近付かないし住むには丁度いい空間だってある。何よりタダなのだからそれに越したことはない。
あれから私達は見てきたままを市長さんに報告した。そして何人か役場の人と、それからイーレとティレットの部下になったという元盗賊の二人も一緒にあのミイラを回収し墓地に埋葬した。
ミイラが何者だったかを知るには手掛かりは少ない。今判るのは着ていた服から男性だった事くらいだ。あとはミイラの傍らにあった日記だけが頼りだった。市長さんにその日記の解読を依頼され私はそれを引き受けた。そして今それを全部読み終わった。そこに書かれていたのはこの世界に来てからの、そして死の直前までの彼の記録だ。つまりあのミイラは私達と同じ異世界人だった。
「ふう…」
メガネを外し目頭を軽く押さえる。
日記は英語で書かれていた。読み解くのにさほど苦労はしなかった。だがその内容は私にとってストレスになっていた。別にうんこについて書かれていたわけじゃない。それがなんであれ死ぬ直前の感情など簡単に受け止め切れる物じゃない。特にこの人はとても良い環境にいたとは言えない。それでも、恨み辛みや嘆きに満ちていたわけではない。最期はむしろ穏やかだったのだろうと思う。それでも、私が彼の運命に哀しさを感じた事は否定できない。
「エアリィ様、少し休憩なさって下さい」
「…うん、ありがと」
洋子さんの持ってきた温かいお茶がなんだか優しく感じられた。この人の最期にはこんな物はなかった。でも別の物があった。それを良いとするか悪いとするかは人によって違うだろう。私にはどちらとも言えなかった。今はこのお茶の温かさがただ嬉しかった。
まったくなんて世界なんだ!戦士?賢者?魔法使い?なんだそれは⁉僕が勇者だって?一体どういう事なんだ?なぜ僕はこんな世界に来てしまったんだ?僕が何をしたって言うんだ!それになんで、トイレがないんだ⁉
翌日、報告書を作る前にその内容を口頭で市長に報告した。
「そうですか…」
「一つ聞いて良いですか?」
「ええ、どうぞ」
報告を聞くと市長は少し沈んだ表情になった。それでも私は聞いておきたい事があった。
「勇者ってなんですか?」
戦士は分かる、魔法使いも賢者も分かる。だが勇者の存在だけは分からなかった。何のためにこの世界にいるのか、この世界でどんな役割を果たすべき存在なのか。
「私にも、分かりません」
市長は椅子から立ち上がって窓の外を眺める。この世界ではガラス窓なんて存在しない。
「一つ言えるのは勇者と呼ばれる人達はこの世界に何かしらもたらしてくれる存在です。例えばあの時計。あれもかつて勇者が作ったものだそうですよ」
市長は窓から見える時計塔を見ながら言う。
「だから賛辞を与えよ、と?」
「ええ。我々の身の回りの、全部ではないですが異世界の知識や技術が活かされています。それをもたらしてくれる存在として彼らの事を勇者と呼んだのが始まりではないでしょうか」
「じゃあ、なんで厚遇しないんですか?」
私が憤っているのはそこだった。そんな存在ならもっと良い待遇で迎えても良いじゃないか。もしもそれなりの待遇を、せめて暮らす家、部屋だって良い、それがあればあのミイラはあんな所で死を迎える事はなかったのだ。
「それは貴女達が特別なだけです。貴女達のように特別な能力を我々が欲するがためにそれに見合う対価を支払っているだけのことです」
市長は私を見て言う。
「だが勇者はそんな特別な力を持たない普通の人間です。ただ異世界人であるがために勇者と呼ばれているだけ、それ以外は我々となんら変わらない人間です。であるなら特別な待遇を用意するわけにはいきません。普通の人間全てに特別な待遇を与えていては財政が破綻してしまいます。だから彼らには同じ様に働いてもらう。その中で勇者らしい何かをした時は賛辞を惜しむな、と。あの格言はそういう事だと思っています」
この世界での勇者はただの普通の人間だ。私はそれを知っている。川谷清治がそうだからだ。
「それでも…」
何の事はない。もし清治が私と出会わなければ、私とトイレがない辛さを共感できなかったら、イーレと会わなかったら、ティレットと出会わなかったら…清治はあのミイラと同じ運命を辿っていたかも知れないのだ。私はその可能性があった事が怖いのだ。そしてそれは今後現れる勇者だって同じだ。
「そうですね。役場として勇者の扱いに対する基本的な方針は変わりませんがもっと融通を利かせても良いかも知れませんね。例えば三ヶ月経った後で路頭に迷う事のないように仕事先を見つけるとか住む場所を紹介するとか」
私に出来るのはそれくらいです、と市長は言った。
「そう、ですか…」
私はそう言うのが精一杯だった。
「それから、彼の身元ですが出来る範囲で調査しましょう。彼がいつ亡くなったのか、それは私もはっきりさせておきたい。今となってはもう遅いですがせめてこの世界の人間として彼の死に対しては出来る限り誠実でありたい」
そう言った市長の顔は真剣で私は彼が見栄や嘘で言ったわけではないと思えた。それだけが救いだった。
モスにゃんはとても可愛い。こんな世界でも来てよかったと、そう思わせてくれる。数匹が懐いてくれて僕の側を離れない。ああ、なんて可愛いんだ。それに頭もいい。僕が話した事に返事をしてくれているようだ。だからこんな暗がりでも僕は寂しさを感じない。元の世界にいた頃よりもだ。そう考えると僕はとても幸せなんじゃないかと思えるのだ。
元盗賊の二人は字を読む事は人並みに出来て、だからこの街の過去の資料を調べる事だって出来た。彼らの更生と職業訓練も兼ねてこうして役場の人達十人くらいと一緒にこの街で起こった事件についての資料を洗っているのである。
「ああああ、しんどい!しんどいよエアリィさん!」
「黙って働け、弟よ」
何せ過去百年分くらいの記録を漁っているのである。音を上げるのも無理はない。私だってその量の多さにうんざりしているのだ。
「お、これは違うかな」
プーさんもこの作業も手伝ってくれている。彼は役場の臨時バイトだ。丁度日雇い仕事を探しに来たところを受付のお姉さんに捕まったのである。と言ってもこういう作業は嫌いじゃないらしくノリノリでやってくれている。
「違うっぽいです。ほら、ここ。三ヶ月後に見つかったって」
探しているのは行方不明者の事件だ。だがそれ自体他の事件に紛れ込んでいるのでそもそも行方不明事件というだけでレアである。
「あ、ホントだ。悪ぃ悪ぃ」
そう言ってプーさんはまた記録を読む作業に戻った。
資料を九割がた見終わって結局見つかった未解決の行方不明事件は百数件だった。だがどれもこの世界の人間のものであのミイラとなった人のものは見つからなかった。
「そもそも事件化してるのが珍しいのよねぇ」
途中から受付のお姉さんも協力してくれていた。
「そうですよね…」
この世界に警察はない。代わりに自警団や役場がその役割を果たしているのだがそもそもその能力は私達の知る警察と比べて遥かに低い。これだけ資料が残っているだけで凄いことなのだ。
「エアリィ様、これを」
殆ど諦め掛けた時、洋子さんがそれを見つけた。
「あ、これ。これ、これ、これ!」
そこには一人の青年が行方不明になった事が書かれていた。しかも異世界人で勇者だった。
「何年前⁉」
「…四十三年前になりますね」
「他には何か書いてないか?誰が届け出たとか」
プーさんに言われて見る。確かにそこには名前が書いてあったが誰の事かは分からなかった。
「この人、乾物屋のお祖父さんじゃない?」
「あー、あの爺さんか」
「知ってるんですか⁉」
「ええ、今はもう代替わりして息子さんがやってるけどね」
「まだピンピンしてるよ。小言が五月蝿いのが参るけど」
私は日記の一節を思い出す。
乾物屋のおじさんと仲良くなった。彼が僕より三つくらい年上だと知って驚いた。彼の顔は老けてみてかなり年が離れてるかと思ったら違っていた。だからおじさんではないけど。
「その人は今幾つ?」
「もう七十くらいか?」
「そうね。それくらいかな」
「会いに行きましょう!」
私は手掛かりを掴んだと思った。
怪我をした。足が猛烈に痛む。頭がクラクラする。近道をしようなどと考えたのが運の尽きだった。路地裏で見つけた縦穴がここに繋がっている事に気付いてロープで降りようなんてしたのが不味かった。医者に見せなければ。そもそもこの世界に医者がいるのか?お金は足りるのか?そもそもどうやって行けば良いのだろう。
「んあ?ああ、あー…懐かしいことを聞いたな」
「知ってるんです?」
「ああ、知っとるよ。一緒にな、クラゲ捕りに行ったりなぁ。カバシシを、今はもう死んでしまったけど肉屋の先代の大将と捌いたりな」
「他に何か覚えてる事は?」
「そう言えばいっつもモスにゃんを連れてたな。おお、思い出した思い出した。トムとニックとブッチだ。このブッチってのが真っ白いヤツでな顔の右っ側に黒い斑模様があってな」
ゾクリとした。もちろんブチはとは違う。ブチは顔の左側に斑模様がある。それにモスにゃんの寿命は長生きしたとして精々七年とか八年らしい。ただ妙な共通点が不気味だった。
「でもな、ある日突然来なくなっちまったんだ。いっつも一緒に仕事してたんだけどなぁ…」
老人は寂しそうに言う。
「気の合う奴だったんだがなぁ」
「その人の名前は分かりますか?」
「ん?あー…、何だったかな。忘れちまったなぁ…」
私は一瞬迷ってその彼がミイラとなって見つかった事は言わなかった。もちろん墓参りくらいは出来ただろう。それでもこれ以上この老人の平静を奪いたくはなかった。
動けなくなって何日が経つだろう。腹が減った。もうまともな飯は食べれていない。口に出来るのはトム達が運んでくれる木の実だけだ。酸っぱくて渋いけど少し甘い。それでも水分が取れるのは有り難い。ああ、水が飲みたい。この街には綺麗な水がいっぱいあるのになんでこの近くにはないのだろう。這ってでも動けたうちに外に出れば良かったと思う。もう手遅れだ。
多分僕はここで死ぬのだろう。それでも、不思議と寂しさは感じない。トムとニックとブッチがいる。彼らは交代で食べ物を運んできてくれる。木の実とカエルとトカゲとバッタみたいな虫だ。でも生き物の死骸を食べるのは怖くて出来なかった。
僕が木の実しか口にしないのが分かるのか彼らは木の実ばかりを持ってくるようになった。たまにトカゲを持ってくるのはそれも食べなきゃダメだと言っているのだろうか。
トムとニックとブッチがいてくれて嬉しい。僕は幸せだ。
トム、ニック、ブッチ───
墓地に花を供える。それから大量に水も用意した。それから食べ物も、串焼き肉とパン。それから果物、とにかく思いつく限りの物を持ってきた。
「これだけあれば喜んでくれるかな」
飢えて死ぬ心境はどんな物なのかなんて想像も付かない。こうやって供えたって彼の霊が満足するのか疑問だ。それでも私は、私達はこうしようと思った。イーレとティレットに分かった事の全てを話した。それで墓参りに行こうという話になった。誰が言い出したかは覚えていない。
「ねえ、この前から私気になってる事があるんだけど」
口を開いたのはティレットだった。
「なに?」
「セイジは今どうしてるのかしら」
便器を作ると言って歩いて一週間はかかる村に行った清治。便りがないのは元気な証拠、とは思える距離じゃない。
「ああ、心配だな。この人の話を聞いた後だと、特に」
「にゃあ…」
イーレが気落ちしているのが分かるのかブチの鳴き声も元気がない。
結局モスにゃん達はこの人が死んだ後も食料を持って行き続けたのだ。それが死んだ事が分からなかったのかそれとも分かった上でお供えとして持って行っていたのかは分からない。こうして埋葬した今彼らはもうあの場所には行っていないそうだ。これはイーレとティレットが確かめて来てくれた。場所ではなくちゃんと彼に持って行っていたのだ。それも何代にも渡って。まるで思いを受け継いでいるかのように。
「…行こう」
「どこに?」
「決まってるだろう。セイジの所にだ」
「行くってどうやって行くのよ」
「飛んでいけばいい。歩けば一週間でも飛べばすぐだ」
そうか、イーレは飛んでいけるのか、と私はそんな事を思った。
「今から行くの?」
「ああ!今すぐだ!」
「場所は分かるの?」
「…分からない」
「取り敢えず家に帰ろう。洋子さん、帰ったら場所を教えてあげて」
「はい。分かりました」
「エアリィは行かないのか?四人くらいなら一緒に飛べるぞ」
「私は良いよ。高い所苦手なの」
嘘でもなんでもない。飛行機とかは絶対に乗りたくないくらいには恐怖症だ。
「エアリィ様が行かれないのでしたら私も行きません」
洋子さんは平常運転だ。
「…ティレットは付いてきてくれるか?」
「私も行く!」
そう言ったティレットの手にはいつの間にか酒瓶が握られていた。
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