(五)別れ

 代休で休んでいる間に、北浜からデートの誘いが来たが、雪乃は体調不良を理由にすべて断った。暴飲暴食を繰り返していたので半分は本当だったが、もう北浜への気持ちは完全に切れたといってよかった。

 雪乃は新能にメールをした。本当は電話で話したかったのだが、新能の声を聞いてしまうと、逢いたいと我が儘を言ってしまいそうで憚られたのだった。


『新能さんは、仕事でどう評価されるかって気にされるほうですか』


 我ながら面倒くさいことを訊く女だという自覚を抱きつつメールを送信する。新能ならば真摯に答えを返してくれるだろうという確信があり、そしてそれは正しかった。新能は丁寧に返信をくれ、雪乃はまた質問を返してと、そうしたメールを介した新能とのやり取りが、雪乃の心身に少しずつ活力を育んでくれるようだった。


「結論として評価は気にならないと言えば嘘になる。でも、結局自分の評価というものは他人が下すもので、それに自分は関与しようがない。関与しようがないものに気を煩っても仕方が無いから気にしないようにしている。何よりも、やったことが自己の権威付けや自己顕示といった自分のためでなくて、チームのため、プロジェクトのためになると心から思ってやったことならば、何ら恥じることはない」。


 いかにも新能らしいと思って雪乃はクスリと笑った。そして、彼はさらにメールで自分の考えを送ってくれた。


「プランナーの考え方に限らないけど、俺は『こんなことを言ってバカにされたらどうしよう』とか『こんなことも知らないやつだと思われたらどうしよう』という意識を完全に捨てることにしている。さっきも書いたけど、自分の評価は他人が下すものだ。他人にどう見られるかなんて考えるだけエネルギーの無駄だ。知らないことは知らないと言うし、自分で思ったことを、素直にTPOを考えながら打ち出していくだけだよ」


 そしてその新能の答えは、これから自分が生きて仕事をしていく上で、柱になりえるもののように思えた。

 そうだ、イベント班に投入されて自分がやったことに、何ら後ろ暗いところはない。反省すべきところは反省し、改善すべきところは改善していけばいいだけのことだ。それを他人がどう評価しようと、確かに自分には関係の無いことだ。

 同時に、雪乃には一つの思いがある。代休中に冷静になり、新能の言葉で活力を取り戻した今でも、耐えられない一線というものはあるのだ。新能にお礼のメールを送信して一日を経てもなお心が揺れなかった雪乃は、白紙の紙を取り出し退職届を書き始めた。



 雪乃が退職届を携えて休み明けに出勤すると、先に出勤していた椎名がおはようございますと笑顔で迎えてくれた。


「あ、私、派遣じゃ無くて、契約社員として直接契約していただけることになったんです。今後うまいくいけば正社員にしてもらえるかも」

「本当に? おめでとうございます」


 それは雪乃の本心だった。次もまたよろしくお願いしますねーと笑う椎名にこちらこそ、と返事をした。

 雪乃は資料整理をしながら、定時の二十分前に退職届を田無に提出した。彼は会議室に場所を移して留意してくれたが、それはどこまでも型通りだった。紺塔とやりあった一件から面倒なヤツだと思われていたのだろう、ほどなく分かった上に通しておくよと言って田無は退職届を受け取った。正社員のプランナーが減っていくばかりで、また派遣の人に頼らないとなあとぼやく田無に、雪乃は何も言わずに頭を下げて会議室を後にした。もう定時になっていたので人はまばらで、雪乃もすぐに退社した。正式な退職日が決まるまでは出勤しなければならないが、早く決まればと思いながらビルの入り口から外へ出ようとした時、声をかけられた。


「雪乃!」


 雪乃が振り向くと、明らかに焦りの表情を浮かべた北浜がいた。田無が主任である北浜に、退職届の事をもう知らせたのだろう。


「……はい」


 間を置いて、雪乃は答えた。


「退職ってどういう事だよ」

「どういう事って、そのままです。私はオストマルクを辞めます」

「どうして」

「この会社に居る意味を、私自身が見いだせなくなったからです」

「会社に居る意味……? もっと具体的に教えてくれよ」


 これ以上は、もう雪乃は言うつもりは無かった。言ったところで話はどこまでも平行線になるだけだと容易に想像がつく。


「ちょっと、どこかで二人で話そう」


 北浜は雪乃に歩み寄ってきて、手を握って引っ張ったが、雪乃はするりとその手を払った。


「雪乃……」


 勤めている会社のあるビルの入り口で痴話喧嘩。自分は構わないが、北浜には体裁が悪いだろうと思い、雪乃はそっと目立たない歩道の脇へと北浜を促した。


「なぜだ。どうして」


 北浜はなおも詰め寄ってきた。


「紺塔さんには紺塔さんの、北浜さんは北浜さんの、ディレクションのあり方があるでしょう。でも私の目指すゲーム開発とは違います。それがはっきりと分かったから、私はオストマルクを辞めるんです」

「雪乃の目指すゲーム開発? それは一体何なんだ。教えてくれないと分からない」

「今までそのことについてはもう充分語ってきました」


 雪乃はあえて、ですます調で声を硬くしていた。


「……ディレクションのあり方についてなら、改めて考え直すよ。頼むから、会社を辞めるなんて言わないでくれ」


 雪乃は頭を振った。


「だから、北浜さんには北浜さんのやり方があるでしょう。オストマルクのゲーム開発の進め方が間違っているとまでは私にも言えません。でもそれは、私の目指す道とは違うんです」


 もう、紺塔や北浜とはどこまでも相容れないだろう。そして、その進め方を是とする会社で自分はこれ以上働けない。だが、そのことを北浜に告げたところで、何がどうなるわけでもない。北浜が今からディレクションのやり方を変えると言ってくれても、それはどこまでも形だけであることが雪乃にはもう分かっている。

 北浜はうなだれた。


「……会社を辞めても、僕の傍にはまだ居てくれるんだろう?」


 来た。北浜には後日直接会って、きちんと言うつもりだったが、今がその丁度良い機会であるように雪乃には思われた。


「ごめんなさい」


 雪乃は北浜に丁寧に頭を下げ、そのまま続ける。


「北浜さんとはもうおつきあいできません。別れてください」

「どうしてだよ。仕事上での考えの違いが、そのまま僕らの別れにどう繋がるんだ」


 仕事上での考え方の違い。だがそれは、雪乃にとって人としての生き方の違いだということを北浜にはっきりと告げるべきだろうか。だから別れるのだと。だが、それは事実であるのと同時に卑怯である気がする。なぜなら、北浜の仕事への考え方と自分のそれとの相違が明確になる前に、自分はもう新能荒也という男に惹かれ、好きになってしまっていたのだから。

 もうはっきりと言おう。自分の気持ちを正直に伝えるしかない。

 雪乃は頭を上げて告げた。


「他に、好きな人ができました」

「な……」


 北浜は嘘だと言わんばかりの表情で、二の句を告げない。だが、すぐに強がるように声を絞った。


「嘘だろう、雪乃、僕と仕事に対する考え方が合わないから、だから僕に腹を立てて別れるなんて言ってるんだろう」

「いいえ」


 雪乃はきっぱりと否定した。そうだ、自分は最初に会った時から新能に惹かれていた。だがそれは漠然とした憧憬の念でしか無かった。それが胸を引き締める想いへと変わっていったのは、新能の仕事に対する姿勢、ひいてはその根底にある生き方に接したからだった。


「誰だ、そいつは」


 雪乃は答えなかった。だが北浜は思い当たる人物のデータベースを探り、最も思い当たるフシがあるらしい人物の名前を挙げた。


「新能か……! くそ、あいついつの間に……」

「誤解しないで。私が一方的に新能さんを好きになっただけ。あの人との間には何も無いです」

「なぜだ、僕よりあんな暴力男のどこが優れているっていうんだ、あいつに何を吹き込まれた」


 明らかな狼狽を見せながら、北浜は雪乃に詰め寄る。その姿は、北浜が雪乃に初めて見せた本当の心の中であるかもしれない。ああ、最初からそうして触れあっていれば、私たちにはもっと違う恋人としてのあり方があったのかもしれないと思いながら、雪乃は頭を振った。理屈で説明できるものでも、するべきものでもない。


「北浜さん」


 雪乃はできるだけ穏やかに優しい口調で言おうと思ったが、どこからかくる感情が、その声を震わせていた。


「あなたのことが、本当に好きでした」

「おい……」

「あなたと恋人としておつきあいできたことは、私にとっても大事な、かけがえの無い時間でした」

「止めてくれ」


 北浜は吐き捨てるように叫ぶと、不意に雪乃を抱きしめた。


「雪乃、好きだ。愛してる」


 雪乃を抱きしめる両手に力がこもる。幾たびもこの腕に抱きしめられ、暖かく甘い時を過ごした。だが今は、それは雪乃を縛ろうとする鎖でしかなかった。


「もう、会社を辞めるなとは言わない。でも僕と別れるなんて言わないでくれ。僕を捨てないでくれ」


 懇願に近いその北浜の声は震え、雪乃の目に涙を溢れさせた。


「結婚してくれ、雪乃。僕の傍にいて僕を支えてくれ。僕には君が必要なんだ」


 なりふり構っていられないという北浜の言動は、だが、初めて雪乃の心を動かした。計算でも何でも無く、ただ己の心を吐露して、必死に自分を繋ぎ止めようとしてくれている。雪乃は両手でそっと北浜の頬を包んだ。


「素敵だよ、北浜さん。そうやって計算も何も無くて私を好きだって言ってくれてる姿、とても素敵だし、やっぱり嬉しい」


 雪乃は両手をそっと北浜の頬から胸へと移して、ゆっくりと北浜の体を押し離していく。


「これからはそうやって、本当の自分の心に沿って動いてみて」


 雪乃は溢れる涙を流れるに任せて続けた。


「そして、他の人にも、そういう心があるのだということを胸に留めて仕事をして。そうすれば、あなたは絶対素晴らしいディレクターに、本物のクリエイターになれると思う」

「雪乃……」


 最後に雪乃は、自分からそっと北浜を抱きしめて、彼の頬に自分の頬を寄せて言った。


「さようなら、北浜さん。今まで本当にありがとう」


 別れを告げてそっと北浜から体を離していく。北浜はなおも雪乃を抱きしめようとしたが、雪乃はするりとその手を拒んだ。あっけないほどに北浜の両手は虚空を抱きしめた。

 雪乃は改めて北浜に深々と頭を下げると、彼に背を向けて歩き出した。


「雪乃!」


 北浜の叫びが聞こえる。だがもう雪乃は振り返らない。

 ガンッ、という音が響いた。北浜が横の壁に拳を叩きつけたらしい。だが雪乃は振り返ることも立ち止まることもなく、北浜に背を向けて歩き続けた。共に過ごした時間の記憶が背中に流れていく。涙はこぼれるままに歩き続け、やがて角を曲がってから雪乃はしゃがみこんで両手で顔を覆い、声を殺して泣いた。

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