(六)北浜翔
気がつけば入社して四ヶ月が経過し、ふと周りを見ると、同期入社のプランナー数名がもう退職していた。雪乃が初めて携わったゲーム『魔剣でGO!』は、紺塔の手がけたラインではないこともあってか、『週刊ゲーム通信』の名物コーナー、『ゲームレビュー』での評価は四十点満点中ギリギリで『殿堂入り』を逃す二十七点、売り上げもそこそこで終わった。
だが、やはり自分が関わったゲームが発売された時の喜びは格別なもので、次のタイトルではもっとがんばるぞと決意を新たにして、二本目の開発ライン『武器道メモリアル』に投入されることになった。
『武器道メモリアル』には途中からの参加となったが、ゲーム内容は雪乃が苦手な対戦型アクションゲームでやや気後れした。そのチームのリードプランナーとして
スタッフと話す時は明るく振る舞い、ミスをしたスタッフのフォローも行って、包容力としか形容できない器の大きさを雪乃は北浜に感じたのだった。だが、そんな彼も、実は初めてのリードプランナーというプレッシャーに
『武器道メモリアル』のべータROM提出時、普段は一室を与えられていて開発フロアと離れている紺塔が、開発フロアに足音を踏みならして入ってくると、入り口で北浜を大声で呼びつけた。紺塔生雄は年齢四十代後半、やや垂れ目で顔全体は酒と脂を思わせるゆるんだ丸みを帯び、そんな童顔をカバーするためか、顎には
「ベータROMなのに、『心眼』が入ってねーじゃねーか。どういうことなんだよ」
周囲の空気に緊張が走り、オフィスが静まり返った。
『心眼』は、二日前に紺塔の指示で急遽実装することになった仕様で、剣豪の映画や漫画に出てくる、『目をつぶった状態で、相手の動きに対応する』という状況をゲームに取り入れるというものだった。泊まり込みでプログラマーの
「すいません、僕の作業が遅くて実装が間に合いませんでした」
北浜は目の前に突き出されたROMに身じろぎもせず、努めて冷静に言った。
「何甘えたこと言ってんだよ、何が何でも間に合わせるのがプロだろ。お前やるって言ったじゃん?」
「申し訳ありません。今回は勘弁してもらえませんか」
紺塔は、じっと北浜の目の睨みつけていたが、やがて「チッ」と舌打ちすると、背を向けた。
「今度だけは見逃してやる。クライアントに謝るのは俺なんだからな」
「はい、申し訳ありませんでした」
オフィスを去る紺塔の背中に向けて、北浜は頭を下げた。その北浜に歩みよってきたのは、プログラマーの四ツ木だった。彼は入社して七年の中堅プログラマーで、プログラムを組む速さに定評があったが、流石に一日で多くの要素に関わる新規処理作成を組み込むのは無理な注文であった。
「北浜さんすいません。俺のせいで……」
「気にしなくていいよ、大変だけど引き続きよろしくお願いします」
そう言った北浜の姿に、他のスタッフも口々に彼を
雪乃もその事件を見ていた。いつの間にか二人だけになった深夜のオフィスで雪乃は北浜に話しかけた。あれは北浜の責任に属するものではなく、そもそも要望自体が無茶なのでどうしようもない事ではないのかと言ったが、彼は首を振った。
「ええかっこしいするつもりはないけど、やっぱりリードプランナーである以上、実装できなかったのは僕のミスなんだ。紺塔さんに無茶振りされる前にもっと早く気がつけなかったか。手が打てなかったか……。そういうことを考える」
でもね、と続けた北浜の声は、沈んでいた。
「やっぱり、悔しいし、キツいよ。要望が無茶なんだろ、俺のせいじゃないのにって大声で出したい気分」
そう言ってから、ヘッドフォンを付けて仕事を再開した北浜に、雪乃は自販機でホットのペットボトルの紅茶を買って、その机に置いた。北浜はヘッドフォンを外して、照れくさそうにありがとうと微笑んだ。
次のROM出しの際、雪乃が『やらかした』。データ設定ミスを犯してしまい、そのせいでゲーム進行がフリーズする状態となり、再度ROM作成作業をせざるをえなくなった。データを更新した際は、必ず実機で確認してからデータをアップするというルールを、焦りから怠ってしまったのが原因だった。結局、原因調査、データ修正、再度のROM作成と、作業は翌日にまたいでしまい、多くのスタッフが帰宅できない状況となった。業界ではよくあることではあるし、他のスタッフから文句を言われることこそ無かったが、雪乃は涙目で自分を責めた。
作業がやっと一段落したところで屋上に上がり、冬の寒風が吹きつける中で、間もなく夜が明けるまだ暗い空を、金網に額をつけて空虚な目で見つめた。その頬に、暖かい缶紅茶がそっと触れた。北浜だった。お疲れ様でしたと北浜は雪乃に穏やかに声をかけ、「こないだのお返し」と微笑んだ。
「今日のミスは今後気をつけてくれればいい。それに何よりも問題なのは、データ設定ミスをコンバート時点で弾けていないことだよ。プログラマーに相談して、不正な値がある場合はコンバート時に警告して弾いてもらうことにする」
「でも、私が確認を怠ってしまったから……。本当に申し訳ありませんでした」
「早見さん、僕はね、人間の注意力に頼っていてはだめだと考えてる。この会社はどうも、面倒なことを誰かに押しつけて、それで発生するミスに対して怒るだけで、フォローも何もない。正直ウンザリしてるんだ」
いわゆるヒューマンエラー。これはどうしようもないが、自動的に防げる仕組みがあるならそれは積極的に取り入れていくべきだ。そうでないと、余計なところに神経を注がないといけないし、そうなると、肝心の質の部分に対して割くべきパワーも減少してしまう。
北浜はそう言って、自分はこの会社の開発体制を変えていくことを考えていると続けた。
「紺塔さんの力を、もっと現場に直接的に活用できないかと考えてる。それから、もっとワークフローを確立して質を上げることのみに注力できる環境を構築したいんだよ」
「質を上げることのみに……?」
「そう。データ設定にミスが無いように気をつける。それはそれで仕事なんだけれど、それで得られる成果は? 普通にゲームが動く。それだけだ。だったら、その気をつけなければらないところは自動で防ぐ仕組みにしておけば、最初からどういう数値を設定すればゲームが面白くなるかっていう調整にパワーが割ける」
「確かに……」
「こういう考え方はもう他業種では当たり前になってるし、ゲーム業界でも一部ではもう最初からそういう設計思想で開発環境を構築する風潮になってきているんだ。僕はここで、そういったヒューマンエラーを防ぐ開発体制を取りながら、みんなで楽しく開発を進められるようにしたい」
自動車会社の大手の某社では、『探す、選ぶは仕事ではない』とまで言われている。『質』が形成される事以外に、労力を注入すべきではないという考え方だ。勿論、そのための事前準備は欠かせないし、浸透させるのは大変だろうが、やってみる価値は十二分にあると北浜は力強く言った。
「そうなれば、とても素敵ですね」
雪乃は涙目を指でこすって、やっと微笑できた。北浜も柔らかな表情を浮かべて、照れくさそうに雪乃を見ては視線を外してといったことを繰り返しつつ、ぽりぽりと頭をかいている。整った顔立ちの北浜のそんな照れた仕草を見て、雪乃は胸がほんのりと暖まる感触を抱いた。
それから北浜は照れ隠しの様に好きなゲームの話題を振ってきて、寒い星空の下、二人でしばらく話し込んだ。
その後、『武器道メモリアル』がマスターアップしてからの休暇中に北浜にデートに誘われ、その日の別れ際に交際を申し込まれると、その場で雪乃は彼の申し出を受けた。十二月のクリスマスのことだった。
あれから約十ヶ月。まだ互いに仕事が忙しくてデートできた回数は少ない。二人の仲は恋人というにはどこかまだ照れ臭さを残しているといったところだった。
「んーっと、じゃあここ」
雪乃はカードを複数枚テーブルの上に広げてから、ドイツの鉄道路線図が描かれたゲームボード上に自分用のコマを配置した。
「えっー、そこ勘弁してよー」
北浜が天を仰いでとほほな声を上げるのを聞いて雪乃はクスリと笑った。こんなに穏やかで暖かな空気に包まれるのは久しぶりだ。休日出勤の無い日曜日。久々に二人でデートをすることとなり、駅での待ち合わせに雪乃は白のニットワンピ―スに黒いストッキングにショートブーツにマフラーという格好で出かけた。普段、オフィス内では脚を露出する服装は意識して避けているが、恋人とのデートではやはり自分を女性として見て欲しくて、雪乃はがんばってしまう。北浜も普段はラフな服装ばかりなのが、雪乃とのデートの時にはパンツはツータックのオフホワイトのスラックスにグレーのVネックTシャツに紺のジャケットを羽織り、靴も茶色の革靴で、明らかに彼女とのデートを意識したファッションでまとめている。普段の延長で会うわけではないということを服装で主張してくれている様で、彼の服装を見るだけで、雪乃はなんとも言えない幸福感を味わえるのだった。
映画を見てからレストランで夕食をして、雪乃のマンションでとっておきの赤ワインを飲みながら、『トレイン・トレイン』という鉄道旅行をテーマにしたドイツのボードゲームを楽しんでいる。ボードゲームなんて、オセロ、麻雀、囲碁、将棋程度で、それ以外ではせいぜい人生ゲームくらいしか知らなかった雪乃に、海外のボードゲームを教えてくれたのが北浜だった。海外、特にドイツでは昔からずっとボードゲームが盛んで、毎年数多くのボードゲームが発売される。中でも、大衆向けゲームで年間でもっとも優れたタイトルには、"Spiel des Jahres"という栄誉ある賞が授与され、メディアにも多数取り上げられる。北浜は、スーパーや図書館にすらボードゲームが置いてあることが珍しくないというボードゲーム大国であるドイツゲームのファンで、雪乃にもその存在を丁寧に教えてくれた。
多様なテーマや美しいボードに駒、シンプルだがわかりやすいルールは、デジタルゲームとはまた違った魅力でたちまち雪乃をも魅了して、二人でよく遊ぶうちに、自分で買うようになるまで大して時間はかからなかった。『トレイン・トレイン』は三人以上が適正なプレイ人数なのだが、これを北浜と二人で遊ぶのが、雪乃は好きだった。
「むむむー。しょうがない、遠回りになるけど」
北浜はしばらく腕組みして考えた後、カードをオープンしてからボード上に駒を置いた。次は自分の番だとカードの山札に手を伸ばそうとした雪乃だったが、山札は残り一枚になっていた。その一枚を脇に置いてから、捨て札をシャッフルしようと手を伸ばした時に、北浜も同じことをしようとしていたのか、二人の手が重なった。
「あっ、ごめんなさい」
といった雪乃だったが、北浜はそのまま下になっている雪乃の手を握った。
「……」
どちらも、何も言わないままで二人は捨て札の上で手を重ね合って、互いの目を見つめ合う。
「雪乃」
「はい」
「俺、もっと頑張って上へ行くから」
「私もがんばって、翔さんに追いつきます」
「……仕様書の精度ではもう抜かれそうだけど」
北浜は苦笑しながら、顔を雪乃に伸ばし、雪乃も自然にそれに合わせた。互いの息づかいが聞こえるほど顔と顔が近づいて、雪乃はそっと目を閉じた。北浜の唇が優しく重ねられ、その一瞬だけ雪乃は身体を振るわせたが、後はそのまま恋人と唇を重ねている温もりに身を委ねた。これまでにも何度かキスはしたことがあったが、それ以上の関係には至っていない。かつて一度、「そういう空気」になり、雪乃は大学時代の恋人が彼女の身体を求めて来た時、それがあまりに性急すぎて拒み続けて結局別れる事になった経験があったが、北浜に対しては拒む気はなかった。だが彼は遠慮がちに優しく彼女の胸に触れただけで、それ以上踏み込んではこなかった。
この日も北浜はキス以上を求めてはこず、『トレイン・トレイン』が雪乃の勝利に終わってから彼女のマンションを辞した。別れ際、再度雪乃を抱き寄せて、早くディレクターになるから待っていてくれと言った。
北浜翔とはそういう人なのだと、彼を笑顔で見送りながら、雪乃は恋人がいることの幸福を感じていた。
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