前世

すくなしじん

(前)


「光山くん、泳ぐのうまいね。イルカみたい」

そう言うと彼は、少し驚いたふうに

「イルカだったからね」

と答えた。

その日は6月にしてはずいぶん暑くて、日差しは痛いほどだった。

水から上がったばかりの彼の背を滴る雫は、汗みたいにみえた。光に反射してきらきらと細かく輝いた。

もう高校生だというのに、規定のダサい黄色いキャップを、彼は目深に被っていた。実際、それは光山くんらしかった。色白で眼鏡の大人しい男子。それが私の中の彼の全てだったから。そういう男の子には、たいてい真面目というレッテルが貼られるのだ。

だからそんな真面目な(スポーツとは無縁そうな)人が、広々としたプールのレーンの一角を飄々と泳ぎ回る姿は新鮮に思えた。

気がついたら、声をかけていた。

てっきり、習っていたとか、そんな感じの答えを想定してたから、思いもよらない返事に言葉に窮してしまった。冗談をいう人にも見えなかったし、本当だと思うにはばかばかしすぎた。

そうこうするうちに光山くんはそそくさと集合列に戻ってしまい、私は真由と合流して残りのプールの時間を楽しんだ。


放課後になると一通りの人が教室を出た頃を見計らって、もう一度光山くんに話かけた。

「ねえ、本当にイルカだったの?」

「え、ああ、そうだよ」

彼は私と目も合わせず、てきぱきと教科書を鞄につめた。なんでもないことを話すみたいだった。天気の話とか、先生の開きっぱなしのチャックとかの。

「イルカだったら、今もあんなに綺麗に泳げるの?来世でも?」

「そうみたいだね」

準備を終えたらしく光山くんは席を立ったので、私も急いで鞄をとって後を追いかけた。校門を出るあたりで、いい加減しぶとく後を付いてくる私が気に触ったらしい。

突然振り返って

「まだなにか?」

わずかに苛立ちの滲む語調にたじろいだ。別に怒らせるつもりはなかった。ただの私の好奇心だ。

「どうしてイルカだって思うの?」

ためらうような数秒の間があった。光山くんは、眼鏡の奥の視線を少しそらし気味に言った。

「覚えてるんだよ。イルカだった時のこと」


真っ先に思い出すのは、青だという。

濁りのない海の青。ぐんと跳ね上がったときに視界に捉える空の青。

光山くんの住処はサンゴ礁の程近い、比較的澄んだ海域だったそうだ。

「果てしない世界を、どこまでもどこまでも進んで行くんだ。泳いでいる感覚はない。ただ、進むことが気持ちよくて、どんどん行くんだよ。

小魚を探すのが仲間内での自分の仕事で、結構得意だった。人間みたいには、目はあまりよく見えなかった。だけど、それでもどこに何があるかはたいていわかってしまうんだ」

エコーロケーションというらしいね、と彼は小さく付け足した。

「小魚の群れはすごいよ。まるで嵐だ。あの独特の轟々とした水の流れには、どんな大きな生き物も怯んでしまう。だから最初に飛び込んでいくやつがとっても大事なんだ。俺もね、何回かやった。でも本当に怖いんだよね。

ああ、ただあれは美味いんだよなあ」

食べ物の話で締めくくったことがおかしくて、思わず笑った。

不思議な話だった。おとぎ話みたいだった。ただそれにしてはいまいち起承転結に欠けるし、ずっと具体的だったから、父さんの寝際の昔語りというほうが近いかもしれない。

いつの間にか、ブランコに腰掛けた私たちの影は細く長く伸びていた。砂場で遊んでいた子供もたちも、もう家へ帰ったようだ。空では橙と紺の境界線が捻れてひとつになってゆく。

「イルカってなんだか、伸び伸びして、のんきで楽しそう」

呟くと彼は

「そんなことないよ」

と否定した。

「仲間内でしょっちゅう傷つけ合うから」

「そうなの?」

「イルカは知能が高いからイジメが起きますって話、聞いたことない?そこそこ有名だと思うけど」

「ええ!なんかやだな」

「だいたいこの話は、結局知能の高い生き物は他人を傷つけずにはいられないのです、みたいにまとめられる」

水族館のアイドルにそんな陰湿な実態があるとは驚きだ。とはいえ、彼にとってそれはさほど重要ではなさそうだった。

「聞かせてくれてありがとうね」

「聞きたいって言われるとは思わなかった」

信じたの?と尋ねられて、あいまいに微笑みを返す。

正直にいえば、まるっきり信じたわけではなかった。光山くんの壮大な妄想の一端を打ち明けられただけかもしれないと思った。ただ彼の話はとてもとても魅力的だった。

こんなに胸がときめいたのはいつぶりだろうというくらいに。

「また聞かせてよ」

「うーん……」

実は、と歯切れ悪く彼は切り出した。

「イルカだった俺は結構無残に死んじゃう」

また大声で笑った。堪えられなかった。

「そんな笑うとこ?」

「いや、ごめん。だって神妙な面持ちでいうから、なんか逆におかしくて」

いいよ続けて、私は先を促す。

「だからイルカじゃなくて、もっと昔の話でよければ」

「昔の?」

「イルカの前のとき」

「前があるんだ」

「うん」

いよいよ冗談か本気か判じ難くなってきた。しかし光山くんは変わらず淡々とした調子でいる。眼鏡のレンズは夕日に照り返して、表情もわからない。

「じゃあ今度は聞かせてよ、前の話」

私はブランコから立ち上がり、砂にまみれた自分の鞄を拾い上げた。時計はいつの間にか6時を回っていた。光山くんが塾に行くというので、その日はそれで解散になった。

私は一人、車通りの少ない帰り道を歩きながら別れ際に交わした言葉を反芻した。

「イルカの前はなんだったの?」

「イルカの前は――カミツキガメ」

思い出す度に吹き出して、何度も何度もお腹をよじりながら、ようやく家にたどり着いた。


その日から、放課後光山くんの前世について話すのが、私たちの日課になった。

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