塊について

さとつぐ

そもそもホラーって何だろうと考えた

 去年にしばらくぶりに小説なんて書いてみようと思ったのが発端となって

 十代の頃、ノートの端に書きなぐっては捨てていたいろんなプロットなどをそろそろ纏めないと忘れてしまって、二度と戻らないんじゃないかと考えてしまった。

 大抵はSFチックなものとか何かの二次創作的なものとか明らかに独りよがりな青春モノとかであったわけで。

 それはどうでもいいわけなんだけど。

 なんというか意外と書いてないものがホラーとか、まあそういう感じのモノがなかったことに気づいてしまった。

 どうせだから自分に起きたことを書いていこうと思ったんだけど

「果たしてあの経験は自分にとって恐ろしい体験であったのか?」という問いかけに

「書いてみたら意外と怖くないもんだなあ」と思ったんで。

 実際おそらく数少ない読者は身の毛もよだつ恐怖体験とか何とかというものを期待していたんだろうと考えたんですが、案の定読者数も伸びず、ま、そんなもんだろうととっとと終了した小説が

「普通のことだと思うけど…」というタイトルになったわけなんですが。

 実は私はオカルト大好き人間で、ガキの頃から恐怖新聞とかうしろの百太郎とかなんか知らないんですが「怖い」と思いつつ読んでいたんですね。

 で、夜なんかトイレに行けなくなったりするんですよ。

 当時ぼっとん便所と言われる汲み取り式の和式トイレが私の周辺では当たり前で、その汚物の溜まっているその「闇」は恐怖の対象であったわけですよ。

 ウチは貧乏で家は平屋建ての二件長屋、夏暑く冬寒い。蚊が入ってくるので夏は蚊帳を張り、冬は隙間風が入る中、炬燵と火鉢で暖をとる。天井は鼠の住処になっていて小学生の時の大晦日なんかテレビを見ていたら灯油等を置いている物置から「バン!」と大きな音がしたので何事かと見に行ったら体長だけで三十センチもある鼠がトムとジェリーに出てくるようなネズミ捕りに頭を砕かれてそれでもジュージューと声を出していたりして。

 私も子供なもんで、「これどうすんの?」とかいったら炬燵に入って出てこない祖母が「外の水桶につけときな」とか言ったりするわけで。

 まあ、新年あけても祖母と二人きりでお年玉が出るわけでもなく、なんとなく寂しい気持ちで氷の張った水桶からネズミ捕りを引っ張り出して死骸を捨て、また仕掛けるという作業をするという。

 日野日出志の漫画に出てくるシチュエーションで祖母とふたり暮らしの男の子の話で二人とも鼠に食べられてしまう話があるのですがまさにそういう感じ。

 こちらはネズミ捕りで撃退してますがいつか逆襲されるんじゃないかとかあの漫画を読んで怖くなったり。

 そんな家の便所なので電灯はほぼ和式の蛍光灯の豆球のような明るさしかなく、いくら家の中にある便所といえど、ちょっと知恵のついた小学生には勇気の必要な場所の一つなのです。

 そんな私でしたが、同じ市内に住んでいたちょっと遠い親戚が週刊漫画雑誌を買っていたのでよく読ませていただいてそういう知識を得たわけで。

 今から考えると子供ということで結構優しくしていただいたなあとか思ったりするわけですが。


 それはさておき、そういう知識を得て、「××は怖い」という知識は蓄えられていくのですがそれって根源的な怖いものであって「ホラー」なのかというと、違うものじゃないかと思うようになったのが三十代後半になってから。

 そして数年前からいわゆるネット小説などのホラーな話は「作りものだよな」と思って楽しむようになってしまったのですが。

 その一つの契機となったのがいわゆる「洒落怖」というやつで「如月駅」の話でして。

 実は私は当時その鉄道をたまに使っていたので、親近感からつい読んでしまったら、もうなんというかツッコミどころが多すぎて笑ってしまったのです。

 二分毎に駅に到着するのでその都度すぐに放送が入る電車で「何分経っても駅に着かない」という時点で「ないわ」と思うのとその路線は単線で急行や快速もない路線で「急行か」「乗り間違え」とか、その時点でお前その土地の人間じゃないだろと。

 でもそれを見て怖がる人間がどれだけいるのかと。

 知らないことがイメージを膨らませ恐怖感を増幅するんだということを思い知らされたわけです。

 つまり恐怖感は何で構成されているのかを分解し解析できれば「怖いこと」ではなく「当たり前で普通のこと」になってしまうということに気づいたわけです。

 でもやはり「なぜ幽霊が怖いのか」というのがぼっとん便所の闇の根源的な恐怖に私にとっては行きついたわけです。

 もちろん、幽霊とかそういったものが科学的に解明されているわけではないのでそれがどんなものであろうと別に構わないのです。

 あくまでも私にとって「こういうものであろう」ということの解答が「塊=カイ」という概念な訳です。


 さて、この「塊=カイ」とつけたのは「カタマリ」ではなく、水族館の水槽の水を「水塊」というそうですが、それをイメージしております。

 透明で、人によっては光の加減などで見えたり見えなかったりするもの。

 ジャンプ漫画的表現でいえば「オーラ」とか「波紋」とかでもいいのですが、あれも人によって見えたり見えなかったりするもので近い感じです。

 ただ、私が「塊」と書いたのは「そういう風に見えた」という部分で透明の風船のようなものがゆらゆらと風に流されて言ったのを目撃したところからそう思った次第で、実はこれは3年ほど前に仕事場から駐車場に向かう道すがら二十から三十メートルほどの高さを南西から北東に向けて浮かんでかがされていくのを目撃したことから始まっています。

 一瞬誰か一緒に見てもらおうと周りを見回すと計ったかのように周辺にはだれも居ない。

 近くのマンションなら上から見下ろすことのできる高度なのに大声を出すのもちょっと憚れるタイミング。車に乗って追いかけようにも一応仕事中の身でそれを放り出すこともできず、ぐぬぬと苦虫をかみつぶした顔をするしかないという顛末。

 だれか同じものを見た人はいないのかなと悔しく思ったものです。

 その透明なものを始めは透明なビニールと考えてそんな強風が上空であったと思いたいのです。

 しかし、逆にも考えてみて「これがもしかして幽霊の招待か」とも思ったのです。

 よく言われる「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということばですが見る角度でそう見えたりそう見えなかったりというのはありますが、誰彼は見えるけどそれ以外の人は見えない「モノ」があるんじゃないかと思ったのです。

 つまり「残留思念」だとか「オーラ」だとかいろいろ言い方がありますが、「見える瞬間がとらえやすい状態」があるんじゃないかと。

 例えばこの六十年程度でホラーとか幽霊ものと言われるお話を思い返してみると

 昔の幽霊は「うらめしやー」とか言いながら三角の布を頭につけた足のない白装束の幽霊だったりするのですが、今の幽霊はいわゆる「貞子」的な状態になっている。最近では目が全部黒目の青白い肌の少年とかね。

 いわゆる「おわかりいただけただろうか」的な動画や写真もそんな感じで年々変化している。

 つまり「飽きられないようにしているのではないか」と思しき工夫が凝らされているのですよ。

 もちろんそれらが全部本当のモノであろうと嘘のモノであろうと別にどっちでもよくて、何が重要なのかというと「根源的な恐怖」はいわゆる「異質なモノ」「異質な体験」そのものが多く含まれているということでそのストレスが怖いということではないか、そしてそれを感じるのはあくまでも「脳」なので脳が何かしらのストレスを受けることで錯覚、または見えないものを見せる、あるいは「本来存在してはいるものの一般的に見えにくい状態のモノ」を見えるようにしてしまうという事なのではないかと仮説を立てた訳です。

 それを表現的にわかりやすいのはおそらくは波紋とかオーラとか残留思念とかというものではないかと。

 でも、それらの表現だとどうしてもその漫画のストーリーに引き込まれてそういう風にとらえられてしまい、幽霊と同じように「そういうモノ」を脳が見せてしまうと考えているのでつまりはそれを「塊=カイ」と名付けました。

 この「カイ」は「怪」にも通じる部分もあるので個人的にアリかなと思ったりもします。


 で、これに当てはめて自分が経験した不思議な体験や他の心霊体験者の話をある程度説明できないかと考えてみることにしたいと思います。

 ということでその話はまたいずれ。

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