クロック・ワークス島の少女
yakyo
クロック・ワークス島の少女
窓の方にふと顔を向けると海と空の境目の区別がつかなく無くなるほどに綺麗な星空が見えた。
机上に高く積まれた本とページが開いたままの小説には海からの乱反射で、月の光の波模様がつけられていた。私な机の前に座り、ぺらぺらと本の薄紙をめくっていた。
季節が変わる頃、この部屋にはカモメがやって来て仕事を運んできてくれる。でも、今年の夏の仕事はまだ来ないまま。
もうすぐ夏が終わるというのにいったいどうしたんだと言うのだろうか。何かトラブルでもあったのではないか? そんな妄想も目の前に積まれた小説を見てすぐに霧散してしまう。
今晩はゆっくり、読書でもしようかな!
私はコップに冷蔵庫から持ってきた紅茶を淹れて、本の目次を眺めた。美しい情景が思い浮かぶようなタイトルが四つ並んでいて、それを見ているだけでも幸せな気持ちになった。
サザ――――ン…… シャ――――
海面が揺れる度、蜜柑色の波が文字と文字の間に押し寄せては退いていく。とても贅沢な夜だった。
しばらくの間は静かで濃密な時が流れる。
だが、突然の大声が何処からともなく聞こえてくると私の意識は現実へと引き戻されてしまった。
「大変だよーーーっっ!!!」
いったいなんだっていうのさ、私の優雅なひとときを邪魔してさーっ。私は机に置いてある紅茶を一口飲む。
ああ、ストレートティーは美味しい。
「どうしたの?」
開かれたドアから流れ込む風で髪が揺れている。扉の隙間から私を呼んでいたのは昔からの仲である妖精、ピーコだった。
「今すぐ旅の支度をして! 緊急の依頼が入ったのよ」
「わかった。目的地と依頼内容は?」
「目的地は遠く離れた海上に位置する孤島、クロックワークスよ。時計島ね」
「時計島? あそこは十年前の大洪水以来、立ち入り禁止じゃなかった?」
「そうなんだけど、今回は神様からの依頼なの」
「えっ? 神様って、あの!!? なんで、それまた……」
「私もよくわからないんだけど、詳しい依頼内容は船に乗ってから説明するわ。セチア、はやいとこ準備しちゃって」
「りょうかーいっ」
私は腰に着けたポーチに読みかけの本と飲み物を入れる。あっ、ついでにアメでも入れておこうかな。引き出しを漁ったり身支度を整えたりしながら、窓下の海を眺める。
ああ、夜の海はやはり最高だなと私は思う。この静かで誰もいない場所で波音を聞きながら過ごせるなんて至福としか言いようがない。
私は念のため、書き置きをすることにした。
《 しばらく留守にします。
ご用の方はこちらまで→ xxx-xx-xxxs 》
外側の扉に光のペンで文字を残した。木製の扉に金色の文字が薄く輝いている
「お待たせ。それじゃ、出発しようー」
○
海上の波はとても穏やかで、甲板に寝転がればすぐにでも眠ることができそうだった。
「ピーコー、説明よろしくーぅ」
「はいはーい。えっとねえ、要約するとクロックワークスの大時計が止まってしまったから直してほしい、というのが依頼の内容ね」
「クロックワークスってさ、廃墟同然の島って聞いていたけどそんな海の真ん中の時計だなんて誰も見ないんじゃないのかな……」
海上にうごめく絨毯は深い藍色に染まっていて、多少の怖さも感じさせる。
自動で目的地へと誘う小舟。機械音は一切聞こえず、ただ静かな波の音に心を馳せながら目的地へと向かえる。
「その大時計はね、世界を動かすの」
「世界?」
「うん、世界。──世界といっても私たちのいるこの世界とはまた別の世界なのよ。……『パラレルワールド』って言ったら伝わるのかしら」
「何となくだけどわかる。小説とか漫画によく出てくるそれでしょ?」
「そうよ。つまり、大時計の秒針が止まるということはこの世界ではない別世界の時が止まってしまうの。どう、わかる?」
「ううーん、いまいちピンとこない!」
セチナは甲板の上に寝転がるとギシリと舟が揺れた。潮の匂いに鼻を寄せながら遠い群青色に染まっている空を見上げると、一羽の海鳥の影が地平線へと羽ばたいて行った。
ピーコは何かを考えていたらしく、私の言葉のあと、数秒黙りこんで、それからこう呟いた。
「それじゃ、ちょっとだけ会いに行ってみる? 時間の止まってる別世界の人にでも」
「えっ?」
セチアの返事を待たずして、ピーコはポケットから羽を取り出すと空に掲げた。小舟から二人の姿が消えた。夜の海には誰も乗っていない小舟が一隻、ぷかぷかと目的地へと向かう……。
セチアが目を開けるとそこは不気味な森の中だった。生い茂る木々が陽の光を遮っているせいで昼でも暗い。──って、今は昼じゃなくて夜のはずだったんだけど。どうなってんだこりゃ。
「ねえ、ピーコ、ここはどこなの?」
「ここは平行世界とも言える別の世界よ。この世界の時は今止まっているの」
「え、でも風も流れてるし夏鳥の声も聞こえるよ」
様々な鳴き声が入り交じっており、まるで森の声楽団みたい。ピーコはくるりくるりと回転しながら空中やに大きな円を描いていた。
「時が止まるっていうのは世界が動かなくなるってことじゃないのよ。うーん、説明するとややこしいから取り敢えず見てこよう! 行こ、セチア!」
ピーコはいつも宙返りを森の奥へ
「え、ちょっと待ってよーー!!」
しばらくの間、陽光の霧雨を浴びながら歩き続けると目線の向こう側に大きな建築物が見えた。
「あれってお城じゃない?」
セチアは隣でぷかぷかと浮遊しているピーコに尋ねた。
「そうよ。あのお城が目的地。まずはあのお城の持ち主、じゃなくて城の中で彷徨っている男の子に会うわよ」
「男の子?」
あの大きな城に、男の子。なんだか想像するのが難しい。
「行けば、わかるわ」
城に近づくにつれて、その大きさと迫力に圧倒されてしまうセチアであった。
朽ちて、長い歴陽の産物とでも言えそうな風貌。磨けばすぐにでも宝石のように輝きそうなお城をとても素敵だと思った。
「こっちよ」
ピーコに言われるがままお城の入り口へとたどり着いた。古びているが幾分豪華な門扉の向こうには満月明かりに照らされて幻妖な雰囲気を魅せる城がある。
「この門開くかしら」
そっと鉄柵門を両手で押す。結構な手応えを感じて今よりもっと力を込めた。
鉄の錆びた匂いが辺りに漂いはじめ、それを纏いながら二人は城の中へと入った。
月明かりの照らす廊下をセチアは歩く。その横で透明なエメラルドグリーン色の羽を微細に羽ばたかせているピーコ。
二人は長い廊下の突き当たりを右に曲がり、そこに堂々と佇んでいた階段を登った。足音はこの広い広い城の内部に木霊した。
フロアを一つ上がって変わったことは、窓から見える景色が木よりも高くなったということだけで、狼も眠れるくらいに深い森は相変わらずの神秘性を保っていた。
階段を登って、右を見てもまた長い廊下がある。でも、廊下の突き当たりは暗闇が支配しており、いくら目を凝らしてみてもその先を見ることはできなかった。
二人はさらに歩く。真っ直ぐに歩くと突き当たりの右手に檻があった。中を覗いてみるが中は空っぽ。
と、そのときだった。
「ワーーーーーーッ!」
後ろから悲鳴が聞こえた! でも、振り替えってみても月明かりと遠くでざわめきたつ影だけ。
「もしかして探してる子かも! 行くわよ、セチア」
私は走り出す。暗闇に足を捕られないように慎重に。近づいていくと突き当たりに他のどの扉よりも豪華でロココ調の扉が。そしてその脇には寝間着のような粗雑な服装で裸足の少年がへたり込んでいた。少年は私たちの存在に気がついていないようだった。
「おーい」
私が声を掛けると少年は驚き、慌てて振り向いた。
「誰……?」
その問いかけにピーコが答えた。
「あなた、今変わったことが起きたりしなかった? あ、この城にどうしてあなたがいるのかは私にもわからないけど」
「変わった、こと……?」
うーん、と考えてから少年は答えた。
「実は僕、ここから動けないんだ。一歩も」
「えっ? 一歩も?」
「うん。さっきまではこの城を探検してたんだけど、急に足が動かなくなっちゃって」
時間が止まるということは、こういう意味だったのか、とセチアは思った。
ピーコは私が気づいたのを見計らって、考えの補足をし始めた。
「今回の件、『時間が止まる』っていうのは体感にも影響する出来事らしいのよ。だから、意識を持ったまま縛りつけられてしまえば、挙げ句の果てにはストレスと空腹でこの世界の人は想像を絶するような苦痛を味わうことになるの」
そういうことだったのか。動けない時間を感じながら生きて死ぬのはとんでもない苦痛だ。どうやら、私はやっと事の重大さを知ったようだった。
「さてと、わかったところで戻るわよ。」
ピーコが再び羽を掲げる。
私たちが移動する瞬間、その少年の声が聞こえた。
「よろしく、お願いします」
「うん、私たちにまかせて!」
白い光に包まれて私は目を瞑った────
──再び海上の小船に戻ってくると私はピーコに質問をした。
「ふうー、疲れたぁ! ……あのさ、一つ思ったことがあるんだけど、」
「なに?」
言いかけた私は、小船の前方にコロンと寝転がる。船は揺れてまるで海上のハンモックにでも乗っているかのようで極めて心地が良かった。
「わざわざ船でクロックワークスに行かなくても良くない? 今使った瞬間移動できる羽で目的地まで行くことは出来ないの?」
「残念だけどそれは無理ね。あの羽は高級品で使い切りなの。既に二枚も使ったからもう残っていないわ」
「ちぇーーっ!」
「まあ良いじゃないの。旅は少しの安らぎも必要だわ。それに、眠る時間も欲しいじゃない? すぐ着いたら休眠する暇が無いわ」
健康的で、良い。
そして、私たちは夜が一番深まった時間帯に眠りについた。揺らぐ波音の子守唄が耳と意識に蓋をする──。
目覚めると、船の上だった。いつもより早めに起床したおかげで、海の波と共に反射する朝焼けを見ながら遠くで鯨が跳び跳ねるのを見ることができた。
ピーコはまだピクニックバスケットの中で、すやすやと熟睡している。私は潮騒に耳を傾けながら、まだ早い朝にパンの一つをゆったりとかじっていた。そんな、大して意味のない時間が私にとっての幸せだと思う。
海鳥が鶏の代わりに朝の始まりを告げる。次第に青が深まり始めて、突き抜けるように透明な空が世界を覆った。
ピクニックバスケットがひょこっと持ち上がりピーコの顔が見えた。
「……おはよう」
「おはよう」
海鳥がもう一度鳴くまでの間、私たちはひたすらぼうっとして無駄な時間を過ごした。朝はやっぱり眠たい。
「ピーコぉ、あとどのくらいで島に着くんだろう?」
「うーん……そうだねぇ」
ピーコは飛んでいる海鳥に呼び掛けた。
「ねえ! そこの海鳥さん! クロックワークスまで、あとどのくらいかしら?」
私には聞こえないくらいの小さな声でピーコと海鳥は会話をしていた。
「ありがとう! これはお礼よ!」
海の中から一匹の魚が跳び跳ねて海鳥のクチバシがそれを捕らえた。海鳥は満足そうに海の彼方へ飛び去っていった。ピーコは振り向くと私に言った。
「クロックワークス島に着くわよ」
この島は大きな懐中時計の上に成り立っていた。
かつて、島中が繁栄したと見られる廃墟の数々がその荒廃の歴史を物語っている。いわゆる過去の島。
その巨大な時計島は広大な海の中心に位置しており、近辺には透明な膜が張られ、通常はこの島のある海域に立ち入ることはできない。
遠い昔の人々は地上を覆うガラスとその下で常に動き続ける秒針と供に生活を営み、規則的な音を耳にしながら日々と向き合っている。
しかし、この豊かで実りある島が夜明けから降り続いた雨によって滅びてしまった。この島の住人はみな知識を求めることを不義不道徳、悪だと認識していた。だからこの島の外には出たことが無いし、出ることを禁じられている。
そして、なぜ毎日のように時計の内部に入り、針に錆が付かないように整備をする理由も人々は知らない。そもそも崩壊するまではこの島に雨は降った事は無く、日々晴天晴天。錆などがつくはずもない。
ある日のことだ。この島の全てが終わった。突然の大雨により築き上げてきた文明、文化、建物、そして何も知らないままの死んでいった人。
そんな過去となった島クロックワークスに今、私たちは着船した。
「到着ぅー!! うわー、静かー……」
砂浜に立つと夏の陽射しに熱された砂粒が靴を通してその暑さが伝わってきた。
「ここはね、もう無人島なの、だから人は一人も居ない。さあ、島の中心部へと向かうわよ」
二人は砂浜に背を向けて荒れ地へと歩き出した。海辺は打ち寄せては退く波の音と海浜植物の揺れて擦れ合う音が漂い、やがて、それも遠ざかってゆく。
少々の木々を通り抜けるとそこには、とうの昔に死んだ小さな町があった。
「ここはちょうど文字盤の四の辺りね」
ピーコに渡されたクロックワークスの地図を眺める。この町を通り抜けた先に地下へと降りる階段があるようだった。
道脇には、触れるとすぐに灰になって溶けてしまいそうな建物の残骸が重なっていた。歩いても歩いても死体の山が近くにある気がする。
私たちはほとんど何も話さないまま次々と町を背にしていった。
荒れ地の上に寂しそうに建っていたのは塗装が剥げてボロボロに朽ちた扉だった。
「これが地下への入り口ね」
地下は巨大時計の内部で古人はここから時計の整備を行っていたのだと思う。
錆び付いたドアノブに手を掛けて、私たちはそこにあった螺旋階段を降りた。
「少し……怖い」
「大丈夫よ! セチア安心して、ここは何も怖い所なんかじゃないわ」
私の肩に座るピーコは私の頬をぺちんと叩いて励ましてくれた。大丈夫。怖いことなんてきっと何一つ無いんだから。
さらに二人は下る。精神的には体の酸素が薄くなるような気がしてきて、とりあえず出来るだけの深呼吸をした。廻る階段を降りる時は体も廻るので踊りを踊っているかのようで楽しかった。楽しかった。
それから。
螺旋階段の突き当たりにはまた小さな扉が。
「開けるよ」
「うん」
長年開かれていなかった扉だ。取っ手は埃だらけだった。それが怖くて、この扉は開けていいものなのだろうか? 開けた瞬間に何か、こう恐ろしくてもう二度と取り返しのつかないような「なにか」がやってきたら私はどうしたらいいのだろう?
恐る恐る扉の向こうを見る。
少し強めの風が私たちの髪を靡かせる。
花畑だった。
地下の天井はどこまでも澄んだ蒼色で染まり、地面は足の踏み場も無いくらいに色とりどりで美しい花の海が広がっていた。太陽も無いのに何故か明るい。
「これは……」
「ふわぁ、綺麗」
ピーコは感嘆の声を漏らしていた。しかし私はとても不安に感じていた。
「この花畑の中を宛もなく歩いて、時計の故障している部分を探すとしたら、入念な準備が必要じゃない? 水と食べ物、それと体力」
花畑だからといって油断するのは禁物。ここは砂漠と同じくらいの怖さと先の見えない不確実さがある。
「そうね。このまま無闇に進んで行き先を見失うよりはちゃんと計画を立てた方がいいわね。でもまさかこんなに広いだなんて……」
私たちは再び地上へと続く長い螺旋階段を昇る。それにしても、なんで今まで止まることの無かった時計が止まってしまったのだろう? 単なる故障だったらいいけど……。
外に出るための扉を開けようと、ドアノブに手を触れる。しかし、来た時よりもその扉は重かった。一瞬、扉が閉まってしまったのかと疑ったくらいだ。風が頬を掠める。
「?」
「??」
ここは荒れ地だったはず。それなのに背丈の低い草木は青々と生い茂り、島に着いた時からずっと乾いていた風は少量の水分さえ含んでいるように感じられる。
そして一番の驚きはあれほど人の気配すら無かったはずの、廃墟と化していた町並みが沢山の人の生気によって蘇っていたこと。様々に飛び交う声や、たまに巻き起こる歓声。
「どういうことなの……」
隣にいるピーコに話しかけても唖然としたままただ蘇生した町を見渡していた。
「不思議。この時計島はとうの昔に滅びたはずなのに。これは幻? 信じられない」
小さな町を訝しげに、そして悲しそうに見る。私たちは朧気だけれど心の中ではちゃんとこの状況を理解している。時計の内部には過去が封印されていた。理不尽のようで自業自得だったこの島の歴史を恨めしいと感じていた霊が、螺旋階段のあのドアを開けてしまったことによって漏れだしてしまった。
まあ、そんなところだろう。
ピーコが私に耳打ちをしてきた。
「とりあえずこの町で一夜を明かしましょう。きっとどこかに宿があるはずよ」
「えっ、でもちょっと待って!!? この町って幻だし、人はみんな幽霊なんじゃ」
「大丈夫よ、実態のある幻だから。それに私たちが生きし者だとばれなければ良いだけの話よ」
「心配だなぁ……」
「さあ行くわよ」
幽霊の行き交う路道の真ん中を宿を探す二人は進む。
「ねえっ、なんで端っこを通らないの」
「変な勧誘されるよりマシでしょ」
「まあそうだけどさ……」
「それよりほらっ、堂々としていれば大丈夫だから。しゃんと胸を張って!」
背中に体当たりされて私は否が応にもしゃんと背筋が伸びた。
一見するとわいわいガヤガヤと賑やかな街道だが、嗅覚を研ぎ澄ましてみれば死の臭いも漂っている気がする。
夜は怖い。
夕日が沈む前までに私たちは寝床へと着かなければならない。夜は霊が活発に横行する、生きし者が歩くのは自殺に近い。
「ここはどう?」
ピーコに訪ねると「いいわね!おしゃれ」と気に入ったようだった。さっそく暖簾をくぐって中に入ると外観とは比べ物にならない程に素敵だった。
『いらっしゃいませ』
朦朧とした声質の受付嬢はお部屋のご案内もせずに『どうぞお好きな部屋へ……お代は入りません』とだけ言い残し、カウンターの奥へと姿を消した。
「変な人だったね」
「ピーコ、聞こえるわよ」
階段を登ると手すりからロビーが見える作りになっていた。部屋はその真後ろにある。
「ここで良いよね?」
「どこでもいいよ」
私はそこまで部屋に執着はしていない。そんなことよりも、これから先に芽が出るであろう不安の種が心配で仕方がなかった。
しかし、ドアを両手で閉めて部屋内を見回すとふっと肩の力が抜けた。そして深くベッドへと沈み込むと安堵のため息と一緒にあくびも飛んだ。
「もう……疲れた……」
このまま寝てしまいたかった。あ、あ。もう意識が。
でも、ピーコはまだ私を寝かせてくれなかった。
「ダメよ、明日の準備をしなきゃ」
「ええー、もう寝ようよぉー。つーかーれーたーーー!」
「ほら、起きて!」
今までは「妖精」だったピーコは魔法で「人間」に変身すると、畳の床に折り畳まれて敷かれた布団にもたれ掛かる私を一括して手を引っ張った。ちっ。
虫の音が聞こえる。そしてそのさらに奥では波の音が遠くに、微かに聞こえる気がした。私は疲れていたので何も思考に耽らずに安眠した。
安眠から覚めたのは早朝だった。といっても、まだ太陽すらも登っていない。かといって星が瞬いているわけでもない、そんな最低な時刻。
羽毛の掛け布団の上から揺さぶられた私は、寝惚けながらもその声に応答していた。
「ぐぅ……? な……あに?」
喉の機能も眠っていたので一語一語に濁音符がついている。
「夜分遅くにすみません、今すぐにこの宿屋から出ていってください……!」
「はぁ……何言ってるんですか? おかみさん」
「私、私、! あなたたちが『生きし者』で私はとうの昔に死んでいるという事は自覚しています!!」
あまりの驚きで布団から飛び上がって、しりもちを着いたまま後退り。ピーコを呼ぼうとしたが、口から出るのはパクパクという空の音だけ。
「なななななんで、そのこと知ってるの!!?」
「一部の聡明な民はこの島の違和感に気がついています。それにあなた方が何を目的としてこの島、クロックワークスにやって来たのかも」
私はちらとピーコの寝ている布団に目をやる。人間の姿のまま布団に顔を埋めながらもしっかり目を開けて、おかみさんの話を聞いていた。
「この町の長から言われたのです」
『生きし者がこの島に入り込んだという情報が入った。彼らは私達を滅ぼす悪だ。生きし者は見つけ次第、殺せ』
「匿った者は牢獄に入れられてしまいます」
私はおかみさんにおそるおそる尋ねる。
「……つまり?」
「通報しました、ごめんなさい!!」
「うわああああああああああああ!」
「うわああああああああああああ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!!」
ピーコは急いで昨日のうちに用意して置いた小さな二つのバックを鷲掴みにすると、私に向かって渡した。一瞬だけ宙に浮いたそれを私は両手でキャッチする。
「おかみさん、少しの間ですが泊めて頂きありがとうございましたっ! 私たちはもう、すぐに出発します!」
お礼を言って客間を出ようとしたその時、後ろから引き留める声が聞こえた。
「これも! これも持っていってください!」
渡されたのは美味しそうなお弁当二つ。この旅館の名物らしきロゴが確認できる。美味しそう!
「遺跡の内部に島民の霊体は入れません、お気を付けて!」
そうなのか、良いこと聞いた。
『またのご宿泊をおまちしております』
慌てて旅館の玄関をくぐり、外に出るとこの島の島民こと幻街の住人が待ち構えていた。昼間とはうって変わって、島民たちの表情には一切の人間味が感じられない気がした。
彼らは人類滅亡の瞬間のような声を上げており手には武器を持つ者もいる。
「何なの、これ……」
胴体から下が透けているので人間では無いとわかった。顔は卑屈と苦しみに溺れていて表情を成していない。老若男女、誰もが同じ顔に見える。
「こっちよ!」
と、ピーコに促され、立ち並ぶ幻家に沿って走り出した。これじゃあいつかの夢で見たパニック映画だ。振り替えると旅館のおかみさんまでもが、集団に混ざって狂喜を振りかざしている。追いかけてくる既に死んでいる神官たち。どんどん増えながら、私たちを追い掛けてくる。もしかしてこれが島民全員だったり。
荒れ狂う街道、家の中はもぬけの空で島民の幽霊たちは表へ出ており、生きし者を追いかけていた。
そんな中で唯一、虚空を見つめながら物思いに耽っている老人がいた。老人はゆらゆらとロッキングチェアの上で静かに息をしていた……。
私たちは島の中心に向かって走る。次第に夜が明け始める空の下で。微かに凍りつく空気は暑くなってきた首元を這い、体と一緒に絡まった思考も冷やしてくれる。
息を切らして街道を走り抜けた先に見えたのは荒野にポツンとある地下内部への入り口。
錆び付いたドアの取っ手をピーコが引っ張り、私もそれに続いて中へと駆け込む。私がドアを閉める瞬間には多くの悲しそうな顔が見えた。
ひんやり。少しだけ寒い。白い息は出ないけど背中を這う汗が私の肌をなぞる。
「何なの、あの人たち」
ちょっと怒り気味に言ってみる。
「人じゃないわ、幽霊よ。それにしても、なんか怖かったわね」
ひとまずは安心だけど、ここからが大問題だった。明日の昼に宿を出る予定だったので、計画も何も立ててはいなかった。階段を一歩一歩を踏みしめなら降りる。目の前に広がった花畑はやっぱり広くて、遥か遠くには地平線が霞んで見えている。
さて、どこへいこう?
「とりあえず、歩きましょ」
「そうだね」
二人は足の踏み場の無い花畑を仕方なく進む。私は花が好きだから花を踏むことにとてつもない罪悪感を感じていた。
時計内部は島の広さだけある。私の予想ではどこかに歯車のような本体を動かす為の動力源があるはずだけど。
特に話すことも無いまま、私たちは歩く。ずっと続く色とりどりに咲く花々を見ているとここは天国ではないかと錯覚してしまいそうになる。
「それにしても、ここは謎だらけね」
「?」
「ほら見て? この花は既にこの世界からは絶滅した花なのよ。なぜ、こんな時計の中で生きていられるのかしら……太陽だってないし、雨だって降らないのに」
その言葉を聞いて私は天井を見上げてみる。何があるのかとピーコもつられて同じ場所を眺めていた。
「今まで気づかなかったけどさあ、この天井よーく見てみると、地上の空が透けてる」
「え、ウッソ!」
ピーコは背中からエメラルドグリーンの羽を広げて天井付近まで飛んだ。
「本当ね。これは、ガラスかしら……? でもとてつもなく丈夫なガラスよ。この上に建物があるなんて想像がつかないわね」
ピーコが降りてくる。
「あのね、今空飛んだ時、向こうの方に祠のようなものがあったの」
「そうなの? こんな時計の中の花畑の中に?」
明らかに場違いだ。
「うん、そこが巨大時計を動かす鍵になっていると思うのよ」
「それどっちの方向?」
「こっち!」
走るセチア、浮遊するピーコ。
祠の中を覗いてみるとボタンがあり、押してみると周辺の地面が揺れだした。急いで避けると現れたのはさらに地下へと続く階段だった。ここまで来たらもう迷う必要もない。
「行こう」
地下へ降りるとそこは謎の世界だった。
闇に溶けた光はぼんやりと薄暗がりと化している。空気はひんやりとしていてツンと鼻にくる位に鋭く尖っていた。
「ライト持ってる?」
「うん、持ってるわよ」
私は肩に下げたポーチから懐中電灯を一本取り出してピーコに渡した。
「ありがと。って、貴女の懐中電灯はどうしたのよ」
「電池切れちゃってたみたい」
「もー。これからは気を付けなさいよねー、一人で旅する時だって予備のライトが無きゃ危ないのよ」
「はーい、以後気をつけまーす……」
先を懐中電灯で照らしながら冷たいコンクリートの床を少し歩くと分かれ道があった。
「ねえ、これどっちに行く?」
「うーん……」
このまま直進するべきか、右に曲がるべきか。どちらとも先を照らして見たところ、すぐに突き当たりが見えることから、この先分かれ道が幾つもあるという事が予想できた。
「これさ、多分時計の中でも一番複雑な部分じゃないかと思うの。ほら、人で例えたら心臓のあたりの」
ピーコは小さな手を顎に当てて、私の言葉を咀嚼するかのように飲み込んだ。
「そうね、今まで沢山の階段を降りてきたことから推測すればそうなるわ。つまりここは島の地下に存在する大迷宮、ということね」
「「Fgm……」」
一度脳内を落ち着かせようと私たちは喉を鳴らした。と、後ろで何かが閉まる音が。しかし私とピーコにとってはこの出来事は何となく予想できていた事なので驚きはしなかった。ピーコは淡々と呟く。
「やっぱり。私たち、この島にある数多くの謎を解いて大時計を直すまで出られそうに無いわね」
私は静かに頷いた。
「さて、どっちに進めばいいのかな……」
水の滴る音すらもしないこの地下迷宮。物音一つするはずも無いのに何処からか少女がすすり泣くような声が聞こえてきた。
「ひっ……ひっ……ぅ……っ!」
「この泣き声、一体どこから……」
電灯で辺りを照らしたがピーコと私以外誰もいない。
「もしかして壁の中じゃない?」
「そんなはずは」
「だってほら、セチアも耳を近づけて? やっぱりこの中からだわ」
私は冷えきった壁に耳を当ててみる。泣き声と服が壁と擦れる音が聞こえた。
「本当だ」
私は左手にはめていたフィンガーレスグローブを脱ぐと壁を手の平で叩いた。ぺちぺちと音が鳴る。
「おーーーーーいーー!! 大丈夫!?」
「────誰、か───る──の?」
霧の中のように浅く途切れ途切れの声が壁の中から聞こえる。
「私たち島の外から来たのーーっ!! この島の時計を直しに!」
暗闇に反響し、声はこだま。自分の声が聞こえなくなって数秒後に少女の声がした。
「あっ! 私──道────っちゃったんです──真っ暗で──助けてください!! ……怖い」
「大丈夫だからね。そこで待ってて! 動いちゃだめだよ、今助けに行くからっ」
私とピーコはなるべく声がした方向を忘れないようにしながら迷宮を進んだ。たまに少女に呼びかけると、自分達の現在位置がわかった。
「どこーーっ?」
ピーコが呼びかけるとすぐ近くから高い声が聞こえた。
「ここだよーーーーっ!」
「わかった! 場所がわかったわ、こっちよ!」
私はピーコの持つ電灯の灯を追い掛ける。
「いた!」
照らされたのは膝を曲げて小さく丸まっている少女だった。
「大丈夫!?」
「へっ、ええ、う……えええぇぇぇ……ん!」
少女は泣きながら私の腰の辺りに抱きつく。泣き止むまでは彼女から話を聞くことができないので、私たちはその場で座り込んでこの小さな彼女が落ち着くのを待った。
「どう落ち着いた?」
「はい、もう大丈夫ですっ! ありがとうございますっ!」
涙で頬を濡らしているが実年齢よりも幾分、凛々しい顔つきをした少女だった。自分に泣きつかれた時はもう少し小さい気がしたのだけれど私のとんだ勘違いだったようだ。きっとこの少女はこの暗闇の中で縮こまり、身体が萎縮していただけなのだろう。
「えっと、お姉さん達は……」
十三才才の少女とは思えない程に純粋で無垢な瞳をこちらに向けて首を傾げる。と、すかさずピーコは、爪先を軸にクルりと一回りして自己紹介を始めた。
「あっ、私たち? 私はピーコっていう妖精よ。で、こっちが」
「セチアです、よろしくね。私とピーコはこの島の大時計を直しに来たの。貴女の名前は?」
「レナっていいます! おばあさんとこの島で二人で暮らしてるんです」
「二人? この島には人が居たの? 幽霊だけかと思ってた」
するとレナは驚いた顔をして私たちに問う。
「……幽霊って何のことですか? この島ではおばあさんと私以外には誰もいなかったはずなんですけど……?」
「え、それじゃあ元からの幽霊島じゃないのね?」
「はい。私とおばあさんは島が崩壊した時の生き残りで、それから約八年間、一緒に暮らしてきました────」
レナはこの島でおばあさんと暮らした日々の事やこの島で起こった惨劇のことなど、を話した。
「レナはライトも持たないでこんなところに来たの?」
ピーコは呆れたように言うと、レナは思い出すだけでも恐怖が鮮明に蘇るようで少し苦い顔をした。
「白い、幽霊のような影、みたいなのが襲ってきて、私、逃げたんです! そしたらこんな所まで追い詰められて、怖くて一歩も動けずに居たんです、ほんとセチアさんとピーコさんが来てくれて助かったと思っています……!」
「白い影、幽霊? ねえピーコ、そんなのには会わなかったよね?」
「ええ、私たち、外では幽霊たちに追いかけられたけど、時計の中には入って来られないみたいだったわよ」
「ということは私が追い掛けられた、あれは」
「霊ではない何かか、それともまた違う系統かもしれないわね」
ピーコが敢然と言い放つ。その言葉に私はぞくりと身震いをする。得体の知れないものが自分らを追い詰めてくるというのはとても怖い。この子、レナは一人でこの恐怖と対峙していたのだと思うと胸が張り裂けそうになる。そうだ、まだこの子は十三才。いくら心が強かろうと孤独はそれよりも残酷なものだ。この少女にとってはまだ早すぎた。
「とにかく先に進んだ方が良いんじゃないかな? 早く外に出ておばあさんを安心させてあげなきゃね!」
「うん!」
そうやって私はレナに勇気づけたものの、片手に地図も無いままこの迷宮をさ迷うことに、多少の不安を感じていた。
ピーコは長年の付き合いなので、私の内なる感情が表情に現れてしまう事を知っていたらしく、私の肩をぽんと叩くと柔らかな声で囁いた。
「私がいるよ」
「っ、ありがとう。ピーコ」
○
「それじゃ行こうか」
「うん」
「うん!」
三人は歩く。一度通った場所には目印としてピーコが持っていた紙を契り、その切れをなるべく道の端っこの方に置く。まあそれは気休めのようなもので、やがて一枚の紙が全部無くなるとやめてしまった。
「風が、吹いてるわ」
私とレナは微かに前方から吹く冷風に感覚を寄せた。
「ほんとだ」
「あっちだね」とレナは風上に右手の人差し指を向ける。「そうね」と私は答える。
「もしかしてこの風を頼りに進めば出口に辿り着けるんじゃない?」
「確かに! あっ、でもちょっと待って。セチア、私達がここに来た目的は」
「ああ、そうだったよね。ごめんごめん。ええっと、ここが時計の最下層だと考えると島の時計が止まった原因は内部の歯車に原因があるんじゃないかと私は思うわ。だから、まずはその歯車を見つけて修理をする、それから風を頼りに出口へと向かう。──こんな感じでどうかしら?」
「完ぺきね、オッケーよ」
とピーコはニコっと満足げな笑みを浮かべた。
「一番の問題は、この時計を動かす歯車がこの迷宮のどこにあるかってことなんだけど……まあ、もう少し歩いたらきっと見つかるでしょ」
そんな計画と雑談を話しながらテクテクと先をゆくライトの明かりを頼りに歩いていくと、いつの間にか、自分達でも気が付かないうちに小さな小部屋に入ってしまっていたようで。
「んー? ここって行き止まりかしら?」
ピーコが不思議そうに辺りを照らす。殺風景な石畳に囲まれた箱部屋の中には何一つ、物は置かれておらずがらんどう。この部屋は一体何のためにある?
「戻りましょう? ここでぼうっとしていても何も解決しないわ」
ピーコは後ろを向いて部屋を後にしようとする。でも私はこの何もない部屋にどこか違和感を覚えて……。
「「待って!」」
「うわっとぉーー! どしたのどしたの二人とも、何かあった?」
私とレナの声が重なってピーコは驚いた様子。もちろん当事者である私とレナも凄くビックリして、互いの丸くなった目の奥に口を半開きにした自分たちの可笑しな顔が映っていた。
「レナも、気づいた?」
「気づいた」
正面を見つめながらハッキリとした口調でレナは言うが、ピーコは今の状況を理解できずに動揺していた。
「って、え? え? どうしたの二人とも」
「あそこの壁、変じゃない?」
真っ直ぐ前を見つめ続けていたレナの瞳を覗き、ピーコはそちらに目線を動かす。私ももう一度、違和感のある壁を見つめる。壁には正方形を描くように溝が彫られていた。
三人で溝を調べていると、身体のバランスを崩したレナが壁に手をついた。その瞬間にレナの手が手首のあたりまで壁に吸い込まれたように見えた。私は慌てて叫んだ。
「レナ、大丈夫!?」
しかしよく見てみればレナの手は壁に吸い込まれたわけではなくて、溝の囲いの真ん中にあるスイッチを押しただけのだったようだ。遅れてカチリと起動音がした。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!
錆びついた、少し嫌な音をたてながは部屋の中央らへんの床が左右に開く。私たち三人は近づいて中を見た。様々な組み合わせで複雑に重なる歯車が多数あったがそれらは全て音の一つもたてずに止まっている。動いていない。
「うぉふぁ、これを動かすのね」
「何変な声だしてるのよ。でもまあ、きっとそうだと思うわ」
「よし! ピーコ、ライトで照らしてて。私が調べてみる」
「頼むわ」
私は冷たい石の地面に寝転がる。横からピーコが懐中電灯を照らし、中を覗くとまず最初に目に入ったのはややこしい歯車の中に挟まっている木の棒だった。
「時計の止まった原因はこれかあ」
私は木の棒を強く引き抜く。随分と重い手応えを感じ、両手を使って引き抜いた。すると、歯車はカラカラと音をたてて回り始め、やがて一つの大きな環となった。よし、これで時計は動くはず!
しかし。
「特に変わったことは起きないわね……」
ピーコは辺りを見回しているが、辺りは何も変化していないようで、私とレナの近くまで来て静かに座った。歯車は動き島の時計は動いたはずだ。しかし、秒針の音が一切聞こえないとなると、まだやり残した事があるのではないかと不安に思う。
そんなこんなで考えを巡らせていると、歯車の絡回りをじっと見ていたレナが私の膝をぽんぽんっと手で叩いてきた。
「ん? どうしたの?」
「なんか、歯車の上に小さな筒があるよ」
「筒? ピーコ! ちょっとライト貸して!」
「ほいほーい」
「どこ?」
「ほら、あそこの小さな歯車と大きな歯車の上!」
目を最大限に凝らして見ると小指程に丸まった紙の筒が歯車の上でダンスをしていた。
「何だろう?取ってみる、持ってて。落とさないようにね」
「うん。セチアさんも手、巻き込まれないように気をつけてね」
「わかった。ありがとう」
レナが照らしてくれる仄かな明かりで視界は良好。お腹を冷たい床につけ、筒に肩から手を伸ばす。しかし、あとちょっとのところで、不規則に跳ねる紙の筒が私を弄ぶ。
「あぁん、もうっ!!」
グシャッ。
思いきって何も考えないで手を握ったらその中に自然と入ってきた。やった! だが手の中にあるはずの紙の筒は握り潰してしまったせいで紙の屑となってしまっていたので、急いでシワを取りながら紙を広げた。
「見せてー」
ピーコとレナが両脇から覗く。
『歯車の数:4 出口の数:2』
この時計の簡易地図のようだ。複雑だと思われていたこの迷宮も道案内があれば安心。
「ええー、歯車あと三つもあるのー?」
「ピーコ、地図も見つかったんだし、あとはもう楽だよ」
「はぁ、頭を使うのはとても疲れるわ」
小部屋を出た後、私たちはその小さな地図に示された残り三つの歯車を目指していた。地図の右半分は長年放置されていた腐食のせいで破けてしまっていたが、その破けた部分はきっと出口の方だと思うから地図としてのしっかりと果たせている。
三人で雑談を交わしながら歩いていると後ろから妙に冷たい風が吹き始めた。
「寒くなってきたわね……」
ピーコが体を震わせる。
「そんなに寒がりだったっけ?」
「そうよ!! 私にだって苦手なものはあるわ!」
煽ったり笑ったり。
レナも会話に混じらせようと私たちは声をかけようとした。しかし、レナの顔は真っ青で今にも吐瀉物を散らしてしてしまうような顔で、声をかけるのが一瞬だけ遅れた。
「レナ、顔真っ青だけど大丈夫?」
私はおでこに手を当てたが冷えた柔らかな感触があるだけだった。
「──る」
「え、なに?」
「──くる!!! あの白い幽霊がくる!! 逃げよう??????????????????????」
白い幽霊、レナが追いかけられていた謎の霊だ。霊体は時計の中には入って来られないはずなのに、どういうわけだかそいつは居る、らしい。
レナに手を掴まれて私たちは慌てて走り出してしまった。突然の出来事に対して何が起こるのか理解できてはいなかった。それでも今の状況を確認したかったので、私は後方をバッと振り替えると、暗闇の中に白くぼんやりとした影が浮かんでいた。
曲がり角を曲がっても、曲がっても、その先には白い影が待ち構えている。脳裏には無意識的に嫌な雰囲気が映像として流れ込む。
一体何なんだ、この不気味な予感は?
「ピーコ! その懐中電灯であいつを照らして!!」
「!? わかったわ!」
咄嗟の思いつきで私はピーコに指示をする。
だが、白い幽霊に光を向けようとすると突然懐中電灯が切れてしまったのだ。
「あれ? おっかしいな電池は昨日取りかえたばかりなのに!」
ピーコはポケットに電灯をしまう。
「レナ、どこに行くつもり!?」
私は暗闇を無我夢中で突き進むレナに問う。正気を取り戻したかのようにレナは、はっとする。急に止まったので勢いがついたまま後ろに引っ張られた。
「こっち!」
通りすぎようとしていた壁をレナは開ける。どうやら扉になっていたようで、ドアノブの代わりにリングが付いている。
「入ってドア閉めてっ」
バタン。
先ほどまでの喧騒から一転して、辺りにはたちまち静寂が訪れる。
「ふぅーうっ」
一呼吸置くと、心臓の破裂音が少しずつ沈んでいく感じがする。しばらく三人は無言でいるとレナが言葉を発した。
「ごめんなさい、勝手に引っ張ったりして……。あれ、私が追いかけられた影なの。怖かったの」
今にも泣きそうな声をセチアが優しく包む。
「大丈夫、レナが謝る必要なんてないのよ。大きく深呼吸してーー、すぅーーーーー、ふぁあーーーーー」
「すうぅ、ふぁあぁー」
「大丈夫、大丈夫」
「落ち着いた。ありがとう」
「うん、どういたしまして」
私はピーコの方に顔だけ向けた。
「この部屋、勢いで入ったけど歯車のある部屋だよ」
ほら、と地図を見せる。
「そうね、多分そこにあるのがそうじゃないかしら?」
電灯が無いので明かりはなく、暗くてよく見えない。立ち上がってその姿を確認しに行く。
壁の四角いくぼみの中に歯車はあった。
「やっぱり、止まってる」
「そうね、でもこれは錆ついているだけに見えるわ。私の魔法ならすぐに」
ピーコがパッと手をかざすと、古く痛んだ歯車が新しさを取り戻した。
「どう?すごいでしょぉー!」
レナは「すごいすごい!どうやったの?」と無邪気にはしゃぐ。「これは私だけが使える魔法でねー」と多少の脚色を加えながら、大げさに楽しく二人は話していた。
せめて、カンテラの魔法とか攻撃魔法が使えたらどんなにこの旅が楽になったか。なんてことを口滑らせてしまえば私はこの島で野垂れ死にしてしまうので気をつけなければならない。
ピーコはとても遠回しな魔法を使う。例えば、攻撃の代わりに物を瞬時に出す魔法を使えるし、回復魔法ではなく食べ物をたくさん出す魔法を使う。まあ、でもそこがピーコの可愛いところだし、魅力でもあるから好きなんだと思う。
歯車はゆっくりと動き出した。そして、カラカラカラカラと音を出し、それから大きな歯車へと動力は還元されていった。
「歯車は残りあと一つね」
「でもあの白い影が追ってくる。次の歯車の場所だって、確実にわからないのにどうすれば……」
小さな地図は右半分がちぎれている。右半分のフロアをでたらめに歩くのは、白い影に出会ってしまう危険がある。
そもそも、あの影はなぜ私たちを追ってくるのだろうか。私たちがこの場所に入ってしまったから、それとも時計を再び動かそうとしているから?
思えばレナに会って一つ目の歯車を動かした時から、この迷宮の雰囲気が変わった気がする。もしかして、レナと何か関係があるのかな。どうなんだろう?
この部屋を見回してみる。至って普通の小部屋。何か仕掛けが無いかと歯車の動き出した壁の周辺を叩いたり弄ってみたりした。都合よく何かがある訳でもなかったけど、レナが私が壁をペタペタと触る動きが面白かったようで大笑いしてくれたのが、なんだか良かった気もする。ちょっと、恥ずかしいけど。
「ペタペター」
自分で言って、大笑い。私の変な動きを真似して壁をパントマイムをするように触る。また、笑う。私もそれを見ていたピーコもつられて大笑い。あの白い影のことなんか忘れて楽しい時間だ。
「あっ」
レナの動きが止まった。
「あっははっ、は、どうした?」
「壁に輪っかがある!」
「えっ」
私とピーコは近寄ってそれを確認する。この部屋に入ってきた時のドアノブと同じリングだった。この小部屋の扉は入口も出口も両方とも壁に擬態していた、ということになる。
「また見つけたのーー! すごいねぇーーっ!」
私はレナの頭を撫でた。小さな頭はとても可愛く守ってあげたいと思えた。
「レナ偉いっ!」
ピーコが子供さながらの笑顔で誉める。
「今からこの扉を開けるけど、もしあの幽霊にまた出会ったら必ず、地図で言えば右の方向に逃げること。はぐれてもすぐに合流できる可能性が高まる、いい?」
「うん」
「わかりました」
ピーコはそっと扉の隙間から顔を出して左右前に霊の気配が無いことを察知すると、小声で「行くわよ」と言った。
再び迷宮の通路へと戻ってきた私たち三人。
歩き出そうとした時、床にポツポツと青白い光こ点があるのに気がついた。
「ねえこれって」
その光の点はまるで私たちを導くかのごとく、一定の感覚で床に設置してあってそれは曲がり角の先にまであるようだった。
「今までの経験からすると、のよ床の光を辿っていけば最後の歯車まですぐに着けるんじゃないかしら?」
「うん、私もピーコとは同意見ね。白い影に気をつけながら進も」
暗い床に青白い光。一匹の蛍に導かれるように私たちはその光を追った。
白い影に出会すことは無く、順調に最後の歯車の場所までたどり着くことができた。
「これ、ね」
見上げた先には、先ほどの二つの歯車よりも大きな歯車が停止した状態でそこにあった。
「届かないわ」
「ピーコが飛んで直せば良いじゃない?」
「それもそうね」
ピーコが天井の歯車を修理している間に私とレナは二人で辺りを探索していた。するとなんと、歯車の近くにはこの迷宮の出口だと思われる鉄格子を発見した。しかしその檻のような柵は硬く閉ざされていて私たちの力では開けることができない。一旦、ピーコの所へ戻り歯車を直してから考えようと思う。
「ピーコー、歯車は直せそう?」
「うん。今ちょうど直したところよ。──ほら時計が動き出すわ!」
天井付近で話していたピーコが急いで降りてくる。軋んだ音色と供に壮大なカラクリが数十年の時を経て再び稼働するような感覚。
そして。
コッ。
最初の針の音が鳴り響くと、その震動は時計の地下迷宮の隅々から染み渡り、この島にある草木、土、カラカラに枯れ果てた廃墟までもに震えを与えてゆく。已然として生命の気配は無いがそれでもこの音色は別の世界にまで届くはずだろう。
コッ。コッ。コッ。コッ。コッ。コッ。コ……
一定感覚で鳴る音の音はうるさい程。ここは時計の内部だからより大きく聞こえるのだろう。
「うわぁー、うるさいね!」
レナも時計が動作している様子を見るのは初めてのことだそう。不思議そうに、そして懐かしそうな顔をしている。うるさい、とも思ってるみたいだけど。
「あっ、ピーコ。そういえばさっき出口みたいな所を見つけたよ」
「それじゃあ早いところここから出ましょう? あの白い霊に追い回されるのはもうごめんだわ」
「だね」
私とレナがピーコを案内して数歩あるけば、出口と思われる鉄格子の前に着いた。先ほどまでは行く手を阻んでいた鉄格子も今は左右に引っ込んで私たちを歓迎している。そして、その奥に見え隠れしている光景に衝撃が走った。
「あれは────何?」
絶句。
「──花?」
私を先頭に三人は近づく。
「でも、これは……」
「花の壁!」
そう。レナが言ったように今、私たちの目の前には床から天井まで高くそびえる花の壁だった。床は壁から垂れた水滴が水溜まりにたまるかのごとく花に侵食されており、その光景は美しいというよりも遥かに不気味だと思えるくらいに。
「光も差さないこの場所で一体、どうやって育ったのかしら」
ピーコは色彩の入り混じる花の壁を見上げると、恐る恐る赤い花弁の縁を触った。
「……!? この花、古い魔法にかかってる!」
「一輪だけじゃない、花の壁全体!」
ぽんんっ。と妖精の姿に変身すると、この広い長部屋の壁の奥まで飛んでまた戻ってきた。
「何の魔法なの?」
「これは、カンテラの永久魔法ね。花に明かりを灯すことができるの。見てて──……!」
威勢の良いピーコの掛け声で花の壁が近くから遠くまでもやっと、もやもやっと灯り始めた。一輪一輪、丁寧な光はまるでお祭りでよくみるような桃燈みたい。
全ての花が点灯すると長部屋は優しい色に染まった。懐かしいような、少し哀しいような、そんな色。
「私、カンテラの魔法は使えないけれど着火することはできるのよ。ほら、自分では光れないけど電灯のスイッチは押せる、みたいな?」
ピーコは寂しそうな顔をしたので私はいつもと同じくフォローしておいた。
この壁の向こうから冷たさに囲まれた暖かな風が流れてくるのを肌で感じる。そう、この壁の向こうにはきっと出口がある。でも、まずはこの花と壁は何故あるのかを調べなければいけないような気がした。
でも、私達には何一つ理解することができなかった。ただの『不思議なもの』として通りすぎてしまうのこともできなかった。
ただ茫然と立ち尽くすピーコと私。
「あれ、そういえばレナは?」
「うっそ、そこら辺にいなかった?」
「いないよ!」
キョロキョロと辺りを見回してみるがレナの姿は無い。
もしかして、私たちの知らないうちに白い影に連れ去られてしまったのかもと考えてしまい瞬時に焦燥に心が支配されかけようとしていた。
──と、花の壁の向こう側で声がした。
「セチアー、出口を見つけたよー!」
「レナ、どこから入ったの?」
私は色とりどりの花に向かって尋ねる。
「ここだよ──ばあ!!」
私の足元から急に出てきたので思わず小さく跳び跳ねたあとに後ずさり。
「んもー、驚かさないでよ! レナ」
「へへへへー」
再び顔を引っ込めたレナ。
ピーコは笑いながら私の方を見ている。ちょっとむかってするけど、レナとピーコの笑う顔にはつられて笑ってしまう。
「レナを眺めてると子供ってすごいって思うわ……私たちが考えてる難しいことの答えを意図も簡単に見つけちゃうんだから」
「……そうね。だけど、レナはもしかすると他の子とは違って少し特別なのかも」
「──え、その理由は?」
「可愛いから」
「理由になってないわよ」
冷えた床に膝をついて小さな花のトンネルを四つん這いになりながらくぐり抜ける。ピーコは私の後ろから少し遅れてくぐってきた。
レナが待っていた。
嬉しそうに私の手を強く握る。
花の壁の後ろにあたるこの空間には、またしても上へと続く長い螺旋階段があった。そしてその先に辛うじて見えたのは古びた扉。
──出口だ。
「行こっ!」
そう、彼女はまだ何も知らない。
それは子供だからこそ許される純粋で無垢な世界。知ってしまえば純粋でいられなくなってしまうのだろうか。汚れた大人になってしまうのだろうか。
ううん、きっと違う。
たくさんの感情の起伏こそが無垢の証であり、子供で大人な、ただひとつの証明なんだと思うの。これから先も、その理はずっと変わらないはずだから。
三人は長い長い螺旋階段を登り、扉の取っ手に手をかけた。この扉はもう長いこと開かれておらず、錆び付いてボロボロになっていた。
セチアよりも先にピーコが扉に触れた。
「っ!?」
慌てて手を引っ込めた。
「どうしたの? ピーコ」
ピーコは身体全体が震えだし、その場にへたり込んだ。
「ダメよ、この扉を開けたら──」
「開けたら?」
レナは私の台詞を繰り返した。
「開けたら?」
ピーコは動揺しきっているようで、目の焦点があっていない。口をぱくぱくとしながら、おわあわしている。言葉が出ない。
「あっ、ああ……あ」
こんなに怯えているピーコを初めて見た。ピーコはきっと、この扉を触るときに危険な魔法がかかっていないかどうかを確かめてくれたのだろう。
私はピーコをぎゅっと抱きしめる。
「落ち着いて……ほら、ゆっくり息を吸って──吐いてー……」
「っ、すー、はー。すーーー、はーーーっ……」
「あり、がとう。もう大丈夫」
私はピーコの背中をさするのを止めると、レナを呼び寄せた。
「あの扉を開けてしまったら」
「うん」
「この時計島が海に沈むわ」
時計島はとても水に弱い。少しの雨でさえも時計を狂わせてしまう。
「この島には、レナのおばあさんもいる。それに、この大時計が海に潜ってしまったら水に弱いこの島の時計が止まってしまうわ。もう一生別世界の時を動かすことができなくなる。何か、対策を考えましょう」
「対策って?」
レナが尋ねる。
「私にできることは一つしか無いわ。この島を永遠に水から守る魔法を島全体にかける」
「ダメ」
「どうして?」
「環魔法、昔図書館の本で読んだことがあるの。環魔法を使うと他の魔法がもう二度と使えなくなる、って。そんなこと、絶対にいけない」
「大丈夫よ。私、普段そこまで凄い魔法を使えるわけじゃないし。こういう時にこそ役に立たなくちゃ」
「……いいの?」
「うん。もう決めたことよ」
「そっか」
無言の時が重なった。私は一から十までもう一度会話を反芻させていた。それはきっとピーコも同様だろう。レナは……ちょっとまだわからないけど。
頃合いを見計らってピーコは口を開いた。
「でも、私一人ではできないわ。セチア、レナも手伝って欲しいことがあるの」
「「??」」
「準備はいい?」
「いいよ! こっちはいつでも行けるよ」
「レナも大丈夫っ!」
「時間は約二十分。それまでにおばあさんを見つけ出して、私たちの船に乗せる。砂浜についた頃に私に連絡して。すぐ船に向かうから」
「了解! なるべく早く連絡するわ!」
「ピーコさん、よろしくお願いします!」
「まかせて!」
そして、私とレナは扉を開けて街の中へと紛れた。
ピーコは扉を魔法の力で押さえつけて時間稼ぎをしてくれている。リミットは二十分。それまでに私たちはこの広い街からおばあさんを見つけ出さなければならなかった。宛はあるのか。
「ねえレナ、あなたのおばあさんが居る場所はわかる?」
「わかる──こっち!」
右へ、左へ。背の低い建物の並ぶ市街地を滑走する。今さらながら、島の幽霊が全て消えていることに私は気がつく。これは時計が再び動き出した影響なのだろうか? 島中には私の心を急がせるようにカチ、コチというような音が鳴り響いていた。その音は一定にもかかわらず、速くなったり遅くなったりしているような
時間にして約十分程だろうか。たどり着いたおばあさんと暮らす家は、廃墟というよりかは手入れを怠ってから一ヶ月、というような印象だった。まあもっとも、レナが家を開けてから二日しか経っていないが。
「かなちゃん!!」
レナはドアの無い家に飛び込んでいった。私も後に続く。
おばあさんは床に倒れていた。
「かなちゃん!!? 大丈夫!? しっかりして」
レナはなーちゃんと呼ばれているおばあさんを抱き起こそうとしているが、重くて持ち上がらない。慌てて私は手伝った。
「レナ、久しぶりね」
弱々しい口調ながらもしっかりと聞き取れる声でレナの頬を撫でた。
「今までどこに行ってたの……心配したのよ」
「あ、の、日、木の実を取りに行った帰りに雨が降ってきたの。雨宿、りの為に入ったドアから出られなくなっちゃって。──ご、ご……めんな……さいい……ふっ、うええ……ぇ、え」
レナは泣きながらおばあさんに抱きついた。おばあさんは何かを呟きながら優しく髪を撫でた。
そんななか、私はあることを考えていた。私はこの人の顔に見覚えがある。
「あの、もしかしてあなたはカナエさんではありませんか?」
「あら、どうして私の名前を」
「私は『ウミドリ依頼所』から来ましたセチアと言います。あなたは十年前、依頼(クエスト)の途中、海上で行方不明になったと聞いています」
「ウミドリ依頼所……。懐かしい名前を聞いたわね。そう、私はあの海上事件の時、船は沈み、船員は全員は瓦礫と伴に海へと沈んだ。でも、私は運が良く助かった。……あの大事故は一瞬のことで他人のことなんか心配する余裕も無かった……」
遠い目は虚ろで感情の欠片すらも見えない。
「私たちとこの島から出ましょう、もう少しでこの島は海底に沈みます。さあ、私の背中に乗ってください、海岸に船があるんです」
私はしゃがんだ。腰のポーチについているストラップがチラチラと揺れる。
「ごめんなさいね、セチアさん。私は、もう人では無いの」
「幽霊がこの島に出現した時、私は死と生の狭間で微睡んでいたの。私は突如現れた死人を生者だと思い込んだ。その結果、私は霊の世界へと引き込まれてしまった」
「たぶん、もう少しで私も他の幽霊と同じように消えて無くなるわ」
「え……?」
レナは戸惑いで声が裏返る。おばあさん、いや香苗さんはレナの肩に両手を置いて静かに言う。
「いい? レナ、よく聞いて。私たち大人は──セチアさんやこの世界にいるほぼ全ての生き物は、みんなこうやって生きてきたのよ。
だから、今私が居なくなっても必ず、セチアさんや周りの大人が助けてくれるわ。大丈夫、あなたはつよいこ。」
サラサラと砂粉に紛れて消えていくその姿に彼女、レナは涙で喉が詰まり何も言えないままお別れをした。
「バイバイ」
私は泣き叫ぶレナを抱き抱えながら船へと向かった。砂浜にたどり着くとすぐさまピーコに連絡をして、ピーコも逃げるように、と告げた。
ピーコは迷宮の扉の魔法を解除すると、すぐに島が海中に沈み始めた。
「おまたせー」
ピーコは船に乗り込むや否や、島に環魔法である『永遠防水魔法』をかける為の準備をする。
「これが私が最後に使う魔法よ」
両手を顔の前で結び、静かで心地の良い呪文を唱えた。
「────……」
島全体が海水の膜で覆われると、その水のベールがキラリと輝いた。泡が弾けるみたいに爽やかに永久の魔法がかかった。
ピーコはこの瞬間から生涯、魔法が使えなくなってしまった。私は沈んでゆく時計島を見ながらそのことばかりを考えてしまった。
「おつかれさま、ピーコ」
「はぁ、はぁ……これで、もう、時計が、止まること、は無い、わ。別世界も半永久、的に、時は動、き続けると、思うわ……。──ふうっ!」
私はレナの方を見る。強い眼差しで故郷が沈むのを見ており、しかし、涙を堪えることもなく、流れては袖で拭きを、幾度も繰り返していた。
それでも、彼女はぐっと前を向いて海底に沈んでゆく時計島、クロック・ワークス島を見つめている。
彼女の瞳には、海と空の青が微かに映っていた。
おわり
クロック・ワークス島の少女 yakyo @Sleep_cat
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