32 終焉
窓の外で点滅するパトランプの数が増えていく。明るい事務所の中にもその光は届く。黙ったまま時を待つ二人の男の横顔も赤く照らされる。
電話は突然鳴った。
青褪め始めた辻に銃口を突き付けたまま受話器を耳に当てた。
――もしもし
「……」
――人質は無事だろうな?
「連れてきたか?」
――あぁ、隣にいる。代わるか?
「いや。コイツと交換だ」
――なんだと?
「一人で入ってこさせろ。入る前に三回ノックさせるんだ。妙な真似はするな。出来るだけ急いでやれよ?出血多量で死にそうだ」
――鏑木っ、
受話器を元に戻す。
俯いていた辻の肩が僅かに揺れた。
「……本当は、馬鹿だったんだな」
「ん?」
「切れ者と言われた飛廉の頭が何を血迷ったんだか」
「……」
「女……女なんかに我を忘れやがって」
「自分でもそう思う」
自虐的な廉司の笑いに辻もつられる。しばらく二人で静かに笑った後、また電話が鳴る前のように黙り込んだ。
何かが始まったのか、外の喧騒が微かに遠くなった。
「全く、やってらんねぇな」
辻が呟く。
「俺達ヤクザにゃ、この世の中は生き辛ぇよ。何一つ自由に出来ねぇ。金を稼ぐのも、ケンカをするのも……好きな女を抱くのも、な」
辻の意外な言葉に廉司は何も返さなかった。
この男にもこの男なりのジレンマがあるのだ。
背負っているものの重さだろうか。下を向く辻の体が急に小さく見えた。
唐突に事務所のドアがノックされた。三度。
二人でドアの方を見遣る。ほぼ同時に電話が鳴った。
――ノックはあったか
「あぁ、聞こえたぜ。三回だ」
――ドアの前に行かせた。どうすればいい?
「そのまま入らせろ。一人だと分かったら、人質と交換する」
冷静に指示をして電話を切る。
(もうすぐだ)
この感情はなんだろう。
彼女と会っているときも、会えずにいる時も、こんな気分になったことはなかった。
まるで胸に埋め込まれた砂時計の中の冷たい砂がサラサラと落ち切るのを眺めているみたいだ。
ノブが回り、ドアが軋みながら開く。
暗闇の中から静かに入ってきた彼女は、ドアを後ろ手に閉めた。
いつものライダースとは違う黒の上下を身につけ、防弾ベストから伸びる両手を上げている。底の厚いブーツが割れたアクリルの破片を踏んだ。
ヘッドセットを備えたヘルメットは彼女の頭には大きすぎる気がした。
「そのまま部屋の中央まで来い」
廉司の言葉に素直に従う。
ストライプが倒れていたガラステーブルの残骸の上で彼女の足が止まった。
外から物音はしない。電話も沈黙している。
「一人か」
大きなヘルメットが縦に揺れた。
そう指示されているのか、それとも自分の意志なのか、廉司の顔を見ようとはしない。
「わかった。おい、歩けるか?」
「ヘッ、テメェで人の足に穴空けといて。よく言うぜ」
辻の表情が幾分和らぐ。
撃たれた足を引きずりながら歩き出し、彼女の横を通り過ぎる。
ドアノブに手を掛ける直前、まだ自分を狙っている廉司に向かってニヤリと笑う。
「いい女だ」
「……」
「そんじょそこらにゃ居ねぇ。これからだ。これからどんどん艶が出る」
「さっさと行け。手ぇ出したら殺すぞ」
低い笑い声を残し、辻が事務所を後にする。
鋭い破片と赤い光が無数に散らばった部屋に二人きりになる。
黙ったまま手を下ろそうとしない彼女を見兼ねて、廉司はようやく銃を下した。
「……知ってたんですね」
「ん?」
下を向いたままの彼女の言葉は、聞き逃しそうになるほど小さい。
「私が、警察官だって」
「……あぁ。お前の事なら何でも知りたい。そう言っただろ?……安心しろ。知ってるのは俺だけだ」
夏目が知ったら卒倒するだろうな。
そう言って笑う。一花はクスリとも笑えなかった。
「すまねぇな、一花」
名前を呼ばれ、一花がゆっくり視線を上げた。
「お前のキャリアを台無しにしちまった。全部、無茶苦茶だ」
頭を掻きながら下を向き、苦笑する。
自虐的なその姿に、一花は顔を歪める。
どうした?
そう廉司が尋ねるより早く、ヘッドセットのスイッチを切り、ヘルメットを脱ぎ捨てて赤い光の差す窓に駆け寄った。
永らく使われていない埃の溜まったブラインドを端から端まで下ろしていく。
意図が読めず、呆然と眺めていた廉司を振り返る。
こんなに余裕のない一花は初めて見た。
「撃ったんですか?」
「ん?」
「拳銃、撃ったんですかっ?」
「あぁ」
「何発?」
「多分三発。天井、椅子、それとここにもな」
右足で辻の座っていた椅子を蹴る。血の付いた座面がクルリと回転した。
一花は愕然とした後、一瞬考え込み、何かを思い立ったように廉司のもとへ走ってきた。机の上に座る彼の前に立ち、ポケットから白いハンカチを取り出した。
「下さい」
「?」
「貸して下さいっ!」
廉司の手から拳銃を奪い、自分の手が触れないように銃身を拭く。
手際よく残った三発の弾を取り出すと、何を思い立ったのか給湯スペースまで駆けていき、流しにそれを放り込んだ。
勢いよく水を流したまま部屋を見渡し、壁に空けられた通気口を見つけた。
金属の蓋を開けようと躍起になる。唇から漏れる息が必死さを物語る。
僅かに空いた隙間から、無理矢理拳銃を押し込もうとする。
一花が懸命にしていることが何なのか分かった廉司は、彼女とは対照的に妙に冷静だった。
「一花」
「……」
「おい、一花。もうやめろ。流しが詰まってるぞ」
「!?」
彼女らしくもなくバタバタと足音を立てて流しに戻り、排水口に手を突っ込む。
食べ残し、吸殻、人の血。
何が流されたかも分からない汚れた口に躊躇なく腕を入れる。
見ているだけで痛々しかった。
「一花、やめろ」
「……ゃ」
「もういい」
「よくないっ!」
「一花っ!」
一花の肩がびくりと上下する。初めて廉司に怒鳴られた。
恐る恐る振り返る。思わず身が縮むほど険しい目つきが向けられている。
しかし、すぐに柔らかい表情になり、一花を手招いた。
一花は零れ落ちそうになる感情を抑えながら大人しく廉司の傍へ歩み寄った。
「ほら、あそこ。見えるか?」
彼の指さす方向へ目を遣る。ドアの真上。小型の監視カメラ。言葉を失った。
「それにな、俺は三発も撃ったんだぜ?必ず腕から硝煙反応が出る。しかも一発は人を撃った。返り血も浴びてるよ。絶対バレる。日本の警察をナメんなよ。なぁ?」
一花の頭を優しく撫でる。
一花の目から大きな涙の粒が零れた。
「すまねぇな」
彼女の両手が頭上に伸びる。
氷のように冷たいのに、汗ばんだ細い指が廉司の手に触れた。
「これでもう、全部終いだ」
廉司の大きな手で顔を隠し、一花が咽び泣く。
つられて滲みそうになった視界をごまかすように、廉司はもう一方の手で一花の頭をガシガシと撫でまわした。
中の様子が分からないことに焦れた警察がそろそろ動き出す頃だ。
どうせ捕まるなら一花の手で。
そう望む廉司に宥められて、一花はノロノロと脱ぎ捨てたヘルメットを拾って戻ってきた。
廉司の座る机上にそれを置き、ポケットから手錠を取り出す。
どうぞとばかりに差し出された両手首に金属の輪を当てる。
カチン、という無機質な音が全てを終わらせる。
まだ止まらない涙を流しながら、一花がヘルメットに手を伸ばす。
「待ってくれ」
ヘルメットを被ろうとした一花が不思議そうに見上げる。
何かと問いかけようとした彼女の短い髪に廉司が鼻を埋めた。
「あぁ。お前の匂いだ」
廉司の言葉に、一花も嗅覚を研ぎ澄ませる。
一花の髪を嗅ぐ廉司の首元からは、普段よりずっと香水の香りが弱くなった、彼の温かな匂いがする。
煙草と汗が混ざっていても、はっきりわかる。
忘れようにも、忘れられない。
「抱きてぇな……」
溜息のように漏らされた言葉に、一花の胸が痛む。
返事をする代わりに彼の手に手を重ねる。
手錠で自由を奪われた骨ばった手を、ぎゅっと握った。
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