27 貴方の傍に

 ちょうど夕食を食べ終えた頃、突然一花の部屋のインターホンが鳴った。

 こんな時間に誰だろう。

 同じ課の人間であれば、まず社用携帯に連絡を寄越してくるはずだ。それ以外の誰かが訪ねてくることなどあり得ない。

 そう思って訝しんでいると、今度は三度、苛立ちを伝えるようにチャイムが鳴った。


 警戒心を保ち、足音を立てずに玄関へ向かう。スコープから外の様子を窺うと、そこには意外な人物が立っていた。

 一花は混乱しながらもドアを開けた。


「夏目さん?どうしてここが」

「若が倒れました」

「え?」

「ここじゃ何なんで。中に入れてもらえませんか」


 いつもは冷静な夏目の声が何かに急かされているように聞こえ、一花は言われるがままドアチェーンを外した。


 中に入った夏目は黙ったままドアを閉めると靴を脱ぐこともせず、三和土に突っ立ったまま乱れた前髪を搔き分けた。

 自分を落ち着かせるように深く息をつく。


 一花は夏目がこの場所を知っていることに少し焦ったが、それ以上に先程の彼の言葉が気になっていた。

 夏目が再び息を吐き切ったところで、勇気を振り絞るように彼女は口を開いた。


「れ、廉司さんは今……」

「部屋で点滴を打って寝ています。でも熱が下がらなくて。医者には過労と栄養不足だろうと言われました。確かにここ最近の若は忙しかったし、食事もろくに食べてなかった。でも」

「……」

「貴女なら本当の原因、わかってますよね?」


 小さな部屋の壁掛け時計が十時を告げる。


「一花さん。アンタ、ぶっちゃけ若の事どう思ってんの?」


 冷たい刃で刺すような夏目の言葉に、一花は追い詰められる。


「若の気持ちは知ってるんだよな?知っててその態度なのか。電話には出ない。メールもほとんど返さない。そのくせフラッと現れて心を許したような顔をする。アンタ、一体何なんだ。若の事、弄んでんのか」

「私、そんなこと」

「違うなら今から俺と一緒に屋敷に来てくれ。その部屋着のまま。今すぐ」


 鬼気迫る夏目に一花は戸惑った。

 チラと下駄箱の上の小さなカレンダーに目を遣る。

 無意識に手がネックレスに伸びる。廉司の顔が頭に浮かんだ。


 廉司の生きている世界を肯定することは、警察官という立場上、やはり出来ない。

 だからといって、廉司という人間を否定できるかと問われれば、それもまた。

 一花が直接会ったことがあるのは夏目だけだけれど、彼や、とらが廉司に接する姿を見ていれば大体わかる。多くの人間が、廉司を慕っているだろう。


 廉司は強く、志を持ち、決して仲間を見捨てない。

 大きな、大きな愛に溢れている。

 こんな自分にすら、それを注いでくれるほど。


 だからこそ思うのだ。離れなければ、と。

 廉司の隣に自分は居るべきではない、と。


「……っ」


 一花はグッと息を呑み、決心した。

 気が変わらぬうちに伝えようと視線を夏目に戻したが、そこに彼の姿がない。不思議に思って足元を見ると、冷たい三和土の上で彼女に向かって土下座する夏目がいた。


「! なつ」

「お願いします」

「夏目さんっ、何してるんですか!……やめてっ」

「貴女しかいないんです」


 必死に彼の肩を引っ張り、頭を上げさせようとした。

 しかし、彼の力は予想以上に強く、ますます体は低くなり、遂には額をタイルの床に押し付けてしまう。


「お願いです」

「夏目さん!」

「どうか、若をこれ以上……」


 秒針の音にも負けてしまいそうな夏目の哀求に、一花は先程口にしかけた決心を苦悩しながら飲み込んだ。




§





 うだるような熱の中で何度も呼んだ。

 遠ざかる意識を繋ぎとめようと、何度もその顔を思い浮かべた。

 足りない頭に必死で刻みこんだ彼女の姿が少しでもぼやけ始めると、もう不安で、堪らなくて。


「……ちか」


 熱い息と共にその名を口にする。


「いちか」


 しかし、何度呼んでも返事はない。

 当たり前か。彼女は忙しい。

 一花が自分を相手にするのは、とらがいるからだ。とらがいなければ自分と関わる理由など彼女には無いのだ。

 ほら、その証拠にメールは返ってこない。声も聞けない。


(いい加減諦めろ。格好が悪すぎる)


 もう数えきれないほど、己の中に住む冷めたプライドがそう言い聞かせているのに、いつまでたっても納得できないのは、やはり自分の頭が悪いからか。


「……っ」


 苦しい。息が出来ない。

 暗い夜の海に沈められたかのように、思考は光を求めて暴れだす。

 気づけば手が勝手にスマホを探し始める。

 メールボックスに保護してある一花からの返信が、ほんの一瞬苦しみを和らげてくれる。

 そしてまた、すぐに飢餓状態に陥る。


(これじゃまるでヤク中だ)


 いっそ浜岡たちの捌くシャブにでも手を染めてハイになれたら、お前の事を忘れられるんだろうか。


「いちか」

「……廉司さん」


 宙をさまよっていた右手が柔らかな温もりに包まれて、重い瞼を薄っすらと持ち上げた。間接照明だけが灯された暗い室内に小さな影が浮かぶ。

 しかし、まだその姿ははっきりせず、輪郭も定かでない。不安だ。


「一花……?」

「はい」

「ほんとうか?よく、見えねぇ。もっと」


 もっと傍に来てくれ、と引き寄せたいのに力が出ない。

 すると小さな影は静かに動き出し、廉司の枕元まで近づいてきた。

 ようやく闇の中から、その顔が浮かび上がる。


 潤いを帯びた、光る大きな瞳。

 小さいのにぽってりと厚みのある唇から、何度も何度も頭の中でリプレイさせてきた声で自分の名前を呼ばれて。

 熱ですっかり自制心を失った廉司は一気に破顔した。


「!」

「一花?」


 なんでそんなに驚いた顔をしている?

 そう問いかけようとしたが上手く唇が動かない。


「廉司さん、私……」


 一花の方も何か言いかけたが、続く言葉を上手く見つけられずにいるようだ。


(いい。もういいんだ)


 頭の悪い自分と、不器用な一花の事だ。

 キレイな言葉なんて見つけられるわけがない。


 握っていた手を離して、胸まで掛けられた布団をめくる。

 一花は躊躇いもせず、廉司の目を見つめたまま布擦れの音だけを静かに響かせて小さな体を潜り込ませた。

 廉司は力の入らない体を叱咤して彼女を抱きしめた。二人の間に僅かな隙間も出来ぬよう。植物の蔓がそうするように彼女の足に自分の足を絡ませた。


 目の前にある一花の丸い額に何度も口付ける。

 そっと顎を上向かせ、瞼にキスすると重なった薄い皮膚が濡れている。小さく鼻をすする音がして、彼女が泣いているのだと分かった。


 それでももう「嫌か」と尋ねることは出来なかった。

 拒絶されるかもしれない恐怖を押し殺して、平静を装う余裕が今の廉司には残っていない。


 一花の小さな頭を引き寄せて、桜の花が散る自身の肩へ押し付ける。

 もし願いが叶うなら、このままお前と一つになって此処に根を下ろしたい。


「そばにいてくれ」

「……」

「一花、俺のそばに。死ぬまで……死んでも。ずっと」


 どこまで廉司が意識を保っていたのか分からない。

 それでも腕の中の一花が何度も頷いたような、そんな気配が彼に伝わって。

 長く張り詰めていた神経が一気に緩んで、溺死しそうなほど分厚く全身を覆っていた熱の膜が柔らかく溶けていく。


 廉司はようやく心の底から安心して眠りについた。

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