26 モノクロの記憶
あの日は、七つの子供の体から容赦なく体温を奪っていくような冷たい雨が降っていた。
夜、突如鳴り響いた電話に出た母の言葉に目を覚ました少年は、ぼんやりした頭のまま黒の着慣れないジャケットに袖を通し、父に手を引かれて真っ暗な闇の中をある場所に向かって歩いた。
普段から足繁く通っている、よくよく知った建物の雰囲気に少年は違和感を覚えた。
城壁のようだと眺めていた塀を覆う白黒の幕。
むせ返るような線香の香りが敷地内から道路にまで漂っていて。
普段なら「よく来たな」と笑顔で迎えてくれる大人たちの顔には影が差していた。
入り口で挨拶を済ませ、建物に入る。
並べられたパイプ椅子に座って何かの順番を待つ。
「若頭を狙った流れ弾らしい」
「なに?どこの組のモンだっ……」
「それがよくわからねぇんだと。すでに自首してるって噂だ」
ひそひそと耳に届くその話の内容まではわからないが、物騒な空気を孕んでいることだけは理解できた。
不安げに隣の父を見上げる。
父は少年の頭を撫で、「坊っちゃんの所へ行ってこい」と言った。
少年は、父に従った方がいい気がして椅子から降り、煙の充満する大きな部屋を後にした。
白い煙の向こうで、沢山の花に囲まれた和服姿の女性が、黒い額縁の中でにっこりと微笑んでいた。
建物の裏まで来ると読経は聞こえなくなった。
いつも彼の背中を追って歩いていたから、裏庭がこんなに広く、暗いなんて知らなかった。それでも少年は無事に辿り着いた。
彼が「基地」と名付けた、大きな土蔵に。
重たい鉄の扉は閉ざされている。彼がここにいる確証はない。
でも、ここにいてくれたら……いつもと同じように言葉を交わせるかもしれない。
期待と不安が入り混じったまま力を込めて扉を引いてみた。
鍵は掛かっていなかった。
小さな白熱電球が一つだけ吊るされた蔵の中。
いつもなら埃っぽい空気に咳き込みそうになるのに、今夜は辛くない。雨のせいだろうか。
床に敷かれた板が歩く度にギシギシと音を立てる。電球の明かりとその光が届かない影のコントラストに目が慣れてきたころ、蔵の二階へ続く木製の階段に、その気配を感じた。
ほっと顔を綻ばせ、歩み寄ろうとした少年の足が止まる。
彼は真っ黒な子供用のスーツに身を包んで、三段目に腰かけていた。
その背中がいつもよりずっと小さく見える。
少年は戸惑いながらも、勇気を振り絞って後ろから近づき、声を掛けようと口を開きかけた。
「恭、よく来たな。何して遊ぶ?」
そう言っていつものように見つめ返してくれることを期待した自分の幼さに絶望した。
折り曲げた膝に片肘をついたまま、前を向いて動かない彼の目は、少年はおろか蔵の壁際に並べられた長持さえ映していなかった。
物心ついた頃には、彼の背中を追っていた。
初めて食べる菓子は、いつも彼に分け与えられて食べた。
二人でテレビゲームをする時はいつもハンデをもらうのに勝てた例がない。
細くて小柄な少年がいじめられていると、いつだろうと、どこだろうと相手が誰で、何人であろうと助けにやってきて二倍、三倍にして返してくれた。
優しくて、強い彼がいつも守ってくれた。傍にいてくれた。
だから、どうすればいいのかわからない。
『廉司くんのお母さんが亡くなったのよ』
電話を置き、涙ぐむ母から告げられた言葉の意味をすぐに理解できなかった。
亡くなったとは、死んだという事だったはずだ。
まだ身内を看取った経験のない少年は、去年の夏に死んだハムスターを思い出して少しだけ事態が呑み込めたつもりでいたけれど。
『廉司くんの傍にいてあげるのよ』
あの夏、悲しみの海に溺れていた自分がどうやって立ち直ったのか覚えていない。
母の腕の中で、父の背中で、廉司の隣で。
腹の底から込み上げてくるものを抑えきれない自分がしていたことは一つだけだ。
だから。
「廉司くん……」
「……」
小さくて弱い自分と同じやり方で、少しでも彼の痛みが和らぐのなら。
「泣いて、いいんだよ……?」
そう言って廉司の肩に手を伸ばす。
廉司が少し驚いたように視線を向けたが、先に泣き出していたのは少年の方だった。
「俺、俺、ずっといるから。傍にいるから。廉司くんが泣き止むまで、悲しくなくなるまで、ずっと。だから……っ」
伝えたい言葉が終わらぬうちに、すすり泣きが慟哭に変わる。
震える両腕をそっと廉司の首に回し、抱きつきながら声を上げた。
しばらく微動だにしなかった廉司が、静かに少年の背中に手を回した。
「バーカ」
囁きながら、夏目のジャケットを握りしめる手に力が籠る。
「なんで、お前が先に泣いてんだよ……っ」
互いの背中に回した腕に思い切り力を籠める。
蔵の白い壁に一つになった二人の影が黒く映る。その影が薄くなるまで二人は泣き続けた。
次の朝、少年は多くの参列者と共に、廉司の母、
火葬場へ向かう廉司のスーツに沢山の皺が寄っていた。
それを見て、少年は少しだけ安心できた。
彼を決して一人にしないと、傍にいると約束できた気がしたからだ。
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