第5章 転調

22 分岐点

「アメリカ……ですか」

「そう」


 捜査一課のデスクで過去の事件資料に目を通しながら待機していた一花を主任の藤田が呼んだ。

 言われるまま後をついて廊下へ出る。突き当りの休憩スペースに何度か挨拶を交わしたことのある中年の男が立っていた。刑事部長の中嶋なかしまだ。

 自販機の前で何がいいかと問われ遠慮したが、中嶋は聞く耳を持たず硬貨を投げ入れた。頭を下げて温かいミルクティーの缶を受け取り、促されるまま長椅子に座った一花に藤田と中嶋は微笑んだ。


 だが、一花の顔に喜びの色は見えない。

 藤田は失笑した。


「なんだ、渓。嬉しくないのか」

「いえ、その……何というか」

「異国の地は不安かね?」


 幼子を安心させるように中嶋は目尻に皺を寄せる。一花は小さく首を左右に振った。


「わかりません」

「何がだね」

「……どうして私なんでしょうか?」


 ただ純粋に、自分が選ばれた理由が分からない。

 そんな一花の疑問を、中年の二人は可愛らしく思った。

 足元を見つめて考え込む一花の眼前に手をかざし、視線を自身の顔へ向けさせると、藤田は口元に笑みを湛えたまま真面目な口調で話しかけた。


「渓」

「はい」

「こないだの銀行籠城事件、覚えてるか?」

「勿論です」

「じゃあ、俺があの時言った言葉は?」

「?」

「お前を突入の先頭に立たせた時に、かけた言葉だ」


――お前には期待している。お前の持ってるもの全てを見せてやれ


 強く記憶に留めていたわけではないが、確かそんなことを言われた気がする。


「あの言葉は、その場かぎりで言ったんじゃない。……悪い意味に捉えないでほしいんだが、俺は正直、女であるお前がSITでこれほどまで頭角を現すとは思わなかった。無意識に偏見を抱いていたのかもしれないと、自分を恥じている。俺は本気でお前に期待してるんだ。ゆくゆくはSITウチを引っ張る存在になってほしい」

「……」

「渓くん。君の突入班での活躍ぶりはよくよく聞いているよ。藤田主任だけじゃない。他部署からも折り紙つきだ。だが、君はまだ若い。もっと沢山のことを吸収できる。そう信じているんだよ」


 だからアメリカのFBIで、一度本場の交渉術を学んでこないか――


 三人の間に沈黙が流れる。

 一花は知らぬ間に服の上からネックレスをなぞっていた。


 その時、天井に設置されたスピーカーが事件発生を告げた。

 話を中断せざるを得なくなり、藤田と中嶋は残念だとばかりに笑みを浮かべた。

 長椅子から立ち上がりコーヒーの缶をゴミ箱へ放った二人に、一花が背後から疑問を投げた。


「命令ですか?」


 渡米は上官命令なのか。

 ほんの少し表情を曇らせた一花が問う。

 藤田は目を丸くし、中嶋は微笑みながら振り返った。


「考える時間が欲しい。そういう事かな?」

「許していただけるなら」

「構わんよ。さっきも言ったが、君はまだ若い。いろいろと思い悩むこともあるだろう。いつまでも待てるわけではないが、納得いくまで考えなさい。ただ」


 何度もチャンスがあると思ってはいけないよ。


 そう言い残して立ち去る中嶋に二人は頭を下げた。


「意外だな」


 刑事部長の背中を見送りながら藤田が言葉を零す。


「てっきりお前なら二つ返事でアメリカに渡るかと思ったのにな」


 自分だってそう思う。理由など問わず、喜んで引き受けただろう。以前の私なら。

 指で弄る度、リングのチャームが服の中で右へ左へ移動する。

 藤田は、一花が最近見せるようになったその仕草の意味をあえて訊ねずにいた。


「まぁ、とりあえず今は目の前の事件だ。持ち場に戻ろう。指示は追って出す」

「はい」


 彼に肩を叩かれ、一花は頭の中を切り替える。

 中嶋に奢ってもらったミルクティーが、プルタブも開けられぬまま手の中で冷たくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る