20 一花を悩ませるもの

 寝室の襖の向こうから夏目の声がした。

 返事をせずに待っていると、静かに戸が動き、隙間から小さな影が見えた。

 外は雨が降っているのだろうか。前髪が所々束になっている。

 ライダースの下に着込んだパーカーの袖から買い物袋がぶら下がっている。俯く彼女の優しさに思わず目を細めた。


「一花」

 ベッドに座ったまま手を伸ばす。

 すると今までじっとしていたのが嘘のように、とらが廉司の膝の上からヒラリと飛び降りた。ピョコピョコと体を上下させながら、のんびりした調子で一花の足元へすり寄っていく。

 甘えた声を上げるとらに、一花の表情が少し和らいだ。小さい鼻から息を一つつき、身を屈めてとらの背中をゆっくり撫でた。


「一花」

「……とらちゃん、元気がないって」

「あぁ。エサを食べねぇんだ。どこか悪いのかもしれない」


 廉司の言葉を聞いて、一花はとらの全身を隅々まで触ってみる。リハビリ中の足に触れた時は少しビクついたが、それ以外は終始気持ち良さそうにしている。

 持っていた買い物袋からスティック状のパウチを取り出し、封を開けてとらの鼻へ近づける。

 とらは途端に目を輝かせて、パウチの口をぺろぺろと舐めた。


 一花が少し眉根に皺を寄せる。廉司は肩を竦めた。


「お前が来てくれたから元気になったのかも」

「……」

「嘘じゃねぇ。そんな顔をするな、一花」


 彼女に向かって手を伸ばしたまま、こっちへ来いと呼ぶ。

 一花は躊躇っていたが、根競べなら廉司も負ける気がしなかった。


 とらを抱き上げてグズグズとベッドに近づいてきた一花は、廉司の手が届かないギリギリの位置で立ち止まった。

 この期に及んでまだ抵抗しようとする意固地な所も可愛らしい。

 しかし、それをからかったりすれば彼女はへそを曲げてしまうかもしれない。


「何買ってきてくれたんだ?」


 一花はとらを絨毯に下ろすと、まだ残っているパウチの中身を指で押し出した。大人しく待つとらを一撫でして、廉司に背を向けたまましゃがんで与える。

 夢中で食べるその姿に安心したのか、一花の纏う空気が柔らかくなる。

 廉司はその隙に絨毯に腰を下ろし、彼女との距離を詰めた。


「ちゅーるです。猫ちゃんのオヤツみたいなもの」

「そうか。買っとけばよかったなぁ、あの時」

「!」


 微かに濡れた襟足から覗く白い項に触れる。一花の体がグッと強張る。

 その変化に気づかないフリをして細い首を撫でていると、ネックレスのチェーンが指に引っかかった。

 気を良くした廉司の手が大胆になり、背後からパーカーの胸元へ侵入しようとした時、ようやく一花が小さな声を絞り出した。


「い、やです……」

「嫌?何が」

「何って……!」


 戸惑う一花の肩を掴んで思い切り引き寄せる。

 不意を突かれたのかバランスを崩した一花は、背後で胡坐をかいていた廉司の胸に倒れこんだ。

 その弾みで一花の手から落ちたちゅーるの口を、とらは尚も必死で舐めている。

 ジャージに腕を通しただけで前を留めていない廉司の胸に一花の頬が触れる。反射的に離れようともがく体を押さえ込む。一花の白い首が赤く染まる。


「教えてくれ。何が嫌なんだ」


 俺の事か、とは聞けない。肯定されるのが怖かった。

 離れるきっかけをこちらから与えたくない。自分は卑怯だ。


「こないだした事か?」

「!」

「どう嫌だった?怖かったのか?痛かったか。昔を思い出したか?」

「……ちが」

「違うのか。じゃあ何だ」


 真一文字に結ばれた唇がぷるぷると震えている。

 だが、それが恐怖からくる震えでないことは分かっていた。

 何かに恐れて震える人間は、こんな風に頬を赤らめたりしない。

 男の直感が「逃がすな」と囁いた。


「教えてくれ、一花」


 形のいい耳に唇を寄せ、熱の籠った声を吹き込む。


「お前が好きなんだ」


 二人の間にどんな壁が立ち塞がろうとも。この気持ちに嘘はつけない。




「ごめんなさい」


 小さいが、確かに耳に届いたその言葉に廉司の腹が冷えていく。

 鼻腔から脳に届いていた一花の髪の香りが遠くなる。

 ふと、枕元に忍ばせてある黒い金属の塊が頭を過ぎって、自分が何を考えているのか分からなくなる。


「わ、私は」


 一花が全てを口にする前にいっそ。

 そんな事までイメージを膨らませてしまった廉司に、一花は彼が予想したものとはニュアンスの異なる言葉を繋げた。


「私には、どうしたらいいのか分からなくて」

「?」


 彼女の両肩を支えて体を離す。

 急に目が合ったことに驚いたのか、一花は逃げるように視線を部屋の隅へ向けた。

 なのに、口はパクパクと開いたり閉じたりしている。何かを言おうとしているのだ。廉司は一花の大きな目にかかる前髪を指でそっと流しながら、その時を待った。


 やがて、何かを決心したように一花がギュッと目を閉じた。


「怖くは、なかったです……すごく、恥ずかしかったけど」

「うん」

「……アイツにされた事とは、全然違って」

「そうか」

「でも」


 廉司が綺麗に分けた前髪を彼女の手がグシャグシャに掻き乱す。せっかくの可愛い目元が隠れてしまう。


「私、すごく困って」

「困る?」


 問いかけた廉司と目を合わせてしまった一花の顔から湯気が上がったように見えた。定まらない視点を廉司以外の何かに向けようと奮闘しながら、必死で言葉を紡ぐ。


「あ、頭から離れてくれなくて。……今まで通り普通に生活してても、急に思い出してしまって。仕事中も、休憩中も、気を抜いたら浮かんできて……考えないようにすればするほど……本当に困ってるんです」


 そう訴えて熟したトマトのように真っ赤になった一花を押し倒してしまいたい衝動に、死に物狂いで抵抗する。

 そんな廉司の血の滲むような努力を、


「それが、嫌じゃないから……困ってます」


 一花はたった一言で灰にした。


「! 廉司さんっ?」


 小さい体をベッドに放り上げ、抵抗できないように組み敷いた。

 もがく一花の両手を頭上で纏め、朱く色づいた耳たぶを噛む。


「や、わ、私の話」

「ちゃんと聞いた。嫌じゃないんだろ?」

「な、なんか違いますっ。そういう意味じゃな」


 苦情を漏らそうとする唇を強引に奪って黙らせる。しばらく口内を舌で愛撫していると、一花の体から強張りが抜けてきた。頃合いを見計らって解放する。一花の目は今にも蕩けそうだ。

 上下する彼女の肩に顔を埋める。


「一花、好きだ」

「……」

「あれからずっと会えなくて、連絡が来なくて淋しかった。お前の事ばかり考えていた。……なぁ、頼むから」


 もはや告白という格好のいいモノではなく、懇願になっていたが構わない。


「頼むから、大事にさせてくれ」


(お前が手に入るなら、俺はどんな無様な姿にも成り下がる)


 呼吸が静かになった一花から返事はない。

 だが、逃げようとする気配もなく、試しに封じていた両手を離してみたが彼女は廉司の下で大人しくしていた。


 それを了承だと受け取った廉司は、ゆっくりと一花の服に手をかけ、一枚ずつ床に落とした。


 彼女の身につけていたものが重なり落ちる絨毯の隅で、満腹になったとらが平和な寝息を立てていた。

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