19 とらが変なんだ。

 一月も下旬に差し掛かった頃、一段と冷え込みが厳しくなっていた。

 もともと寒さに弱く、加えて忙しい日が続いていた廉司は、今夜は街に出向くのを止めた。

 夏目も役目の緊張感から少し解放されて、廉司に少しでも栄養のあるものを食べさせようと台所で鍋の用意をしていた。


「おい、夏目」

「はい?」

「とらのエサ、もうやっちまったのか?」

「は?」


 振り返ると裸に黒いジャージを羽織っただけの廉司が、低い脚の生えた陶器の器を持って立っていた。


「風邪ひきますよ。もっと着てください」

「なあ、エサ」

「俺はやってません。若が自分でやるって言ったじゃないですか」

「食わねぇぞ」

「え?」

「とらが食べようとしねぇ」


 出汁を取っていた鍋の火を止め、廉司と二人でキャットタワーを置いたリビングへ向かう。いつも決まった時間になると片足を上げながら廉司の後をついて回るとらの姿が見えない。

「とら」と呼び掛けると鳴き声が聞こえた。キャットタワーの中腹に設置されたドーム型のベッドから揺れる尻尾が出ていた。


「おい、とら。メシだぞ」

「?」

「いらねぇのか?」

「変ですね。いつもは寄越せってうるさいのに」

「……どっか悪いんじゃねぇだろうな」

「えっ!」


 焦った夏目は、引っ掻かれるのを覚悟でとらをベッドから引っ張り出した。

 無理矢理外へ出されたせいかボーっとしてはいるが、調子が悪いのかどうかは分からない。二人とも猫に関しては無知なのだ。

 廉司に抱かせ、鼻先へエサを持っていってみたがそっぽを向く。やはりおかしい。


「い、医者に」

「医者?そんなに悪いのか?」

「わかりませんよっ。だから診せるんですっ」


 夏目はクローゼットの引き出しからとらの診察券を取り出し、書いてある番号に電話を掛けた。だが、流れてきたのは機械的な声だ。


「ウソだろ」

「どうした?」

「今日の夜診は休みだって」

「はあ?どうするんだよ」

「俺に聞かれても……。あの、何か変わったこととか無かったんですか?変なもの食ったとか」

「知るか。ずっと見てたわけじゃねぇ。お前だってそうだろ」

「どうするんですかっ!」

「何キレてんだよ、お前は!」


 彼らしくもなく取り乱した夏目に、廉司も声を荒げる。

 大の男二人が怒鳴りあっているのに、当のとらは呑気な顔で今にも寝そうだ。


「ゴチャゴチャ抜かしたところで、俺達じゃ何もわかんねぇだろうが!」

「だからどうしたらいいかって言ってるんですよ!もし、このまま一生食わなかったら。とらにもしものことがあったら、一花さんが」

「一花?」

「あ……」


 思わず飛び出してしまった名前を慌てて飲み込もうと夏目が口に手を当てる。

 二人の間に沈黙が流れた。


 何の連絡もしてこない彼女の事を廉司が想い続けていることを知っている。

 勇気を出して廉司の方からコンタクトを取ろうと試みていたことも。そしてそれが尽く失敗に終わっていたことも。

 傷ついているだろう廉司に何も声を掛けられずにいた夏目だったが、これならば自然に聞こえないだろうか。


「一花さんが悲しみます」

「……」

「来てもらうことは出来ませんか」

「無理だ」

「何故です」

「アイツは、忙しい。……それに」

「?」

「コイツを、とらをダシにするみてぇだ」

「いけませんか?」


 夏目の言葉に廉司が目を丸くする。


「会えるなら、理由なんてなんだっていい。会うためなら何だって利用する。俺ならそうします」


 夏目の真剣な眼差しに、しばし言葉を失っていた廉司は、やがて苦し気な息を漏らしながらのろのろとしゃがみ込み、とらを床へ下ろした。

 そのままの態勢で夏目を見上げる。夏目も視線を逸らさない。


「わかったよ」


 髪を後ろへ撫でつけながら廉司が立ち上がる。渋々といった様子で歩き出し、廊下へ続く敷居の上で立ち止まった。

 薄っすらと口元に笑みを浮かべる夏目を憎々しげに睨む。


「無視されても知らねぇからな」

「その時は俺を殴って下さって結構ですよ」

「殴られるだけで済むと思うなよ?」


 どしどしと廊下の床を踏む音が遠くなる。

 

 足元のとらをチラと見遣る。

 我関せず、といった表情で目を瞑るとらに、夏目は心の中でグッと親指を立てた。

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