第二話 絶滅カレーフォンデュ

 カブのエンジン音も高らかに、片側三車線の交差点に放置された車の隙間を縫って走れば、朝の通勤ラッシュに巻き込まれた社会人の気分を味わえる。でもどの車も無人だ。人間はどこにもいない。


 ちゃんと信号を守ったんだろう、停止線ぴったりに停まっている車があれば、ドアが開けっ放しになった車もある。その瞬間に何があったのか、前の車に追突してバンパーをへこませた車もあった。


 まったくの無音だ。日常のワンシーンを切り取った一枚の画像の中に閉じ込められたように、動くものは何一つとして存在しない。あたしのカブのエンジン音だけが虚しく響いている。


 嘘みたいに渋滞した交差点を抜けると、青い看板を低く掲げたコンビニを発見。よし、今日の晩ごはんはここで調達しよう。あたしはカブのギアを一段落として、放置された車の間をすり抜けて、道路を斜めに突き抜けて、そして対向車線を逆走気味に走り抜けた。


 もう人類は絶滅したんだ。そう思うと、どうせ誰も見ていないんだからってどうにも行動が大雑把になってしまう。あたし本来の性格が正体を現したか。それとも、持って生まれたヒトとしてのサガか。


 いやいや、前者だ。人類絶滅後、あたしの行動パターンはだいぶ大胆になってきている。人類絶滅って環境に慣れてきた証拠だ。楽観的? いいえ、達観的なのさ。たぶん。


 カブに立ち乗りして歩道に乗り上げて、ヘッドライトをハイビームにして電気の点いていないコンビニ店内を照らす。店の前の駐車スペースを斜めに突っ切って、ヘッドライトの明かりが斜めにくっきりとした影を作り出す店内を覗き見る。晩ごはんのメニューは何にしようかな、と。


 そしてあたしははっと息を飲んだ。レジ前に散乱するレシートやクーポンチケット類。レジ後ろのタバコがずらっと並んでいるはずの棚もすかすかの隙間だらけ。おにぎりとかサンドウィッチのコーナーもすっからかんで何も置かれていない。


 このコンビニは荒らされていた。何者かが人類消失後にやって来て、店内の物を持てるだけ持ち去ったのだ。その痕跡が無言のままあたしを迎えていた。


 どうしよう。


 ここまで荒らされたコンビニに当たったのはずいぶん久しぶりだ。そう何軒もあるもんじゃない。


 だいぶ前に商品をごっそりと持ち去られて、それ以降誰もやって来なくて荒らされたまま何ヶ月も過ぎたのか。あたしみたいに生き残った誰かが旅の途中にふらりと訪れて持てるだけ取って行ったのか。それとも、常連客みたいにちょくちょくここに来ては毎回必要な物だけを持って行ってるのか。


 あたしはカブのエンジンを切って、無意味だとわかっていても耳を澄ませてみた。


 世界はすっかり壊れてしまって、息をするのもうるさいくらいに本当に何の物音もしない。あたしの胸の中の音だけがあたしの耳を打ち、しんっと静まり返った街の空気が何も含んでいなくて気圧差で耳に痛く感じるほどだ。


 周りに人の気配も、人類文明が発する音もない。店内を確かめなくちゃ。ごはんも食べたいし。


 コンビニの入り口を見れば、電気が止まって動かなくなった自動ドアが人間一人分通れるくらい隙間を開けていた。やっぱり誰かがこじ開けたんだ。異常事態に陥って店のロックをかける前に店員が消えてしまい、そして発電所が止まって大規模停電になってから誰かがやって来た証拠だ。


 そうっと、つま先を自動ドアの隙間に差し込む。わかってはいるけど、やっぱり急に動かないかって不安になってしまう。あたしはヘルメットをかぶったままコンビニ店内ににゅうっと頭を差し込んで、ちょっと控えめに声をかけてみた。


「こんにちはー。誰か、いますかー?」


 たっぷり十秒間深呼吸する。静かに吸って、ゆっくり吐いて。その間、コンビニ店内はあたしのかすれた声にぴくりとも反応しなかった。影も動かず、何も聞こえず。完全に無人だ。


 誰もいないとわかれば、もう人類絶滅学会としての調査は終了だ。速やかに食糧調達フェイズに移行する。


「すいませーん。非常事態ですのでー、商品お借りしまーす」


 使えるものが残っていれば、だけど。




 我々はどこから来たのか。我々は何者なのか。我々はどこへ行くのか。


 ゴーギャンが晩年に描いた絵のタイトルだ。美術の教科書で見た時は、何て意識高そうな名前の絵なんだろうか、と思った。そりゃそうだ。自分が何者なのか。どこから来てどこへ行こうとしているのか。そんな事を考えている女子高生なんている訳がない。来年の進路だって薄ぼんやりとしか思い浮かべていない華の女子高生だぞ。


 でも、今はその意識高い絵の名前もしっくりと胸に染みてくる。


 我々はどこから来たのか。あたしは北から来た。誰もいない東京をさまよっている。我々は何者なのか。あたしは父さんに生きるために必要な知識を与えられ、叔父さんに生きるために必要な技術を教わった女子高生だ。我々はどこへ行くのか。あたしはこれからどこへ行こうとしているんだろう。


 人類はどこから来て、そしてどこへ行ってしまったんだろう。


 人類は一瞬で絶滅した訳ではなさそうだ。


 最近の研究では、何かに侵食されるようにじわりじわりと絶滅したようだ。最近の研究って、研究も発表もあたし一人しか在籍してない人類絶滅学会での発表だけど。


 少なくとも一日、二十四時間くらいかけて人間がいなくなり、この無人の世界が生まれたのだ。その根拠はコンビニの新聞だ。どこのコンビニも同じ日付の新聞しか置いていない。それは翌日の新聞が発行されなかったか、コンビニまで配達されなかったからだ。その日、人類はぱったりと文明活動を続けられなくなったのだ。


 新聞の中身を隅々まで調べても、ゴシップだらけの週刊誌を立ち読み尽くしても、人類絶滅の予兆と言うか、世界滅亡のきっかけと言うか、世界規模で異常事態が発生しているといった類の記事はなかった。本当にその日は突然やってきたようだ。


 そしてそれには少なからず時間差があったようで、人類消失現象が始まってからも何かしらの行動をしたと思われる痕跡もあった。それが荒らされたコンビニだ。周囲の人間が一気に消えてしまい、何日間か、それとも何週間か、残された人が生きるためにコンビニの食べ物や水を略奪する。やがてその人も消えていなくなる。


 あるいは、あたしのように七ヶ月も誰もいない世界をさまよい続けているのか。正確には七ヶ月と四日、人類絶滅後の街を。


 そして、あたしもいつか消えてしまうのか。




 今日の収穫はレトルトのカレー、パック入りのお餅、ペットボトルのお水。後は赤ちゃん用のお尻拭き。あたし一人が今夜一晩お腹を満たせればそれでいい。十分過ぎる収穫だ。このコンビニを略奪した誰かさんみたいに欲張ってあれもこれもってバッグに詰め込んだって、どうせ食べ切れなくて文字通りの重荷になるだけだ。缶詰とかレトルト食品とか、ごっそり持っていかれてる。


 この分だと、きっとレジのお金にまで手を出してるに違いない。もうお金なんて何の役にも立たない世界になっちゃってるのに。あたしはいつもの通り、せめて形だけでもとレジに頭を下げた。


 荒れ果てたコンビニを後にして、カブのリアボックスに収穫物を収めていると、視界の端っこでちかちかってとても小さく何かが光った。


 誰もいない世界、何も動くものがない街、何かが光る訳がない。もう発電所も止まって全域停電になって数ヶ月以上経つ。あらゆる電化製品も、どんな電子機器も、完全に電気を失って機能していない。光るものなんてあるはずがない。


 荷物を整理する手を止めて、ヘルメットをかぶったままの顔を上げて、ぼんやりとどこを見ると言う事もなく視線をさまよわせる。何であろうと、見逃さないように。もう一度、光れ。


 それはすぐに再び光を放ってくれた。とても小さな、たった一粒の青い光だ。


 何かスイッチとか、パイロットランプのような光だ。コンビニ真向かいの、道路を挟んで向かい側のカフェだ。大きな窓に接した席のテーブルの上、また光った。小さな機械のランプのようだ。


 それが何であれ、あたしを突き動かすには十分な小さな光だった。もう七ヶ月も人類が絶滅した世界で生きてきたんだ。どんな刺激だって欲しい。


 カブのエンジンをかけるまでもない。手押しでカブを転がして道路を渡り、カフェの窓にタイヤをぶつける勢いで歩道に乗り上げる。陽当たりの良さそうな大きな窓ガラス側のテーブル席に、ひっそりと忘れ去られたようにそれは置かれていた。スマートフォンとコードで繋がったモバイルバッテリーだ。


 スマホは人類絶滅前によくテレビコマーシャルで見かけた最新機種だ。モバイルバッテリーの方は折り畳み式のソーラーパネルが広げられていて、どうやらこいつが弱い光を放っていたんだろう、充電残量を示す小さな青いランプが間隔を置いて瞬いている。


 これはいいものが落ちていた。ぜひともあたしが拾って預かっておかなくては。


 カブを歩道に停めて、早速入店。からんころんとドアにつけられた小さなカウベルがあたしを迎えてくれる。当たり前のようにカフェは無人だ。


「ごめんくださーい」


 念のため声をかける。万が一誰かがいた時のためじゃなくて、不法侵入ではありませんよってあたし自身への心の免罪符のようなものだ。


「非常事態ですのでー、お邪魔しまーす」


 店内はまったくの無音だ。返事がないのは了承の証。あたしが人類絶滅後に得た教訓。入店オーケーね。


 店内は文学的な香りがする小洒落たアイテムが其処彼処にディスプレイされた意識高い系カフェか。なるほど、大きな窓からは歩道と道路が一面に見渡せてまるでオープンテラスのようで、キャンプ用品を満載にしたあたしのカブも場違いなインテリアのようにガラス越しに飾られて見えた。


 スマホとモバイルバッテリーが置き去りにされた問題のテーブルに、見れば飲みかけのカフェオレだったカップもそのまま放置されていた。完全に乾き切ってしまってさらっとした粉状の何かがカップの底に溜まっている。テーブルの上には他にアルコールランプがあり、椅子の足元にはこのスマホの持ち主が置いていったであろう帆布生地のトートバッグが落ちていた。


 こう言う意識高い系カフェにはいろいろ使える道具が眠っているものだ。横になるのにいい感じのソファ席もあるし、今夜はここで夜ごはん、そして一晩の宿としよう。




 一面のガラスに映るアルコールランプの光。外はもう真っ暗だ。いや、真っ黒だ。月も星も覆い隠してしまう真っ黒い闇に完全に包囲されている。ガラス戸のすぐ側に停めていたカブさえぼんやりと輪郭しか見えないほどの濃い暗闇だ。そのおかげでガラスは鏡のようにアルコールランプの光を反射させてくれて、カフェ店内は思いのほか明るい。朝までアルコール燃料も持つだろう。


 店内で一番大きなテーブルにアルコールランプを三つ集合させて、厨房のガスコンロから外した五徳をセットする。火の高さは缶飲料でちょうどよく調節。そこへこれまた厨房で見つけたチーズフォンデュの小さな鍋を置いてやる。鍋の中身はペットボトルのお水とレトルトカレー。カレーフォンデュセッティング完了。


 アルコールランプの小さな炎でも、三つ合わされば鍋にお湯を沸かせる火力となる。チーズフォンデュのお鍋がちょっと小さめってのもあるけど、レトルトカレーのパッケージを湯煎で温めるにはこれで十分だ。


 レトルトパッケージの口を切り開けて、割り箸で支えるようにしてお鍋に自立させる。後はことこと、ことこととゆっくり温めてやればいい。そもそもレトルトカレーは賞味期限なんて気にせずそのままでも食べられるし。美味しいかどうかは別として。


 カレーが温まるまで、あたしは拾ったスマホをいじり回す事にした。世代こそ違うけど、あたしの持ってる機種と同タイプだ。たぶん使い方もそう変わってないだろう。


 放置されていたスマホは画面ロックされていなかった。不用心だ事。持ち主さんには申し訳ないが、おかげであたしはスマホの中身を見放題だ。


 バッテリー残量は三割くらい。さすがにずっとバッテリーが生き残ってたはずもなく、たぶん、バッテリー切れを起こしてはソーラー充電のモバイルバッテリーが起動して補充電を繰り返していたんだろう。陽当たりさえ良ければ、なかなか使えそうじゃないか、このソーラー充電モバイルバッテリー。


 まずはミュージックプレーヤーとして働いてもらおうか。どこの誰の物かもわからないスマホの音楽データ。興味深いじゃないか。もしもあたしと音楽の趣味が違えば、生涯を通じて絶対に聴かなかったであろう一曲に出逢えるかもしれない。


 ミュージックプレーヤーモードでランダム再生。早速一曲目から聴いた事のないイントロが流れ出した。どこの誰の何て曲なのか、英語のタイトルでさっぱりわかんない。アルバムジャケットも表示されているようだけど、やっぱり見た事もない顔だ。


 インターネットは大規模停電とともに機能停止になっている。人類絶滅から一週間も持たなかったんじゃないかな。おかげであたしのスマホもただの時計とカレンダーだ。現在が何年の何月何日、何時何分かわかるだけの音楽再生機に成り下がっている。


 このソーラー充電機能付きモバイルバッテリーを手に入れたのは幸運だった。カブのUSB充電ソケット以外にもスマホの充電が出来るのは大きい。あちらこちらに放置されている持ち主を失ったスマホ達。バッテリーもとっくの昔に切れてしまい、ただのガラス板同然だ。それらを復帰できれば、これからいろんな音楽が聴けるだろう。画像データも見れたりするかも。自分とまったく接点のない人達の写真だ。後何年あたしが消えないでいられるかわかんないけど、退屈はしなくて済みそう。


 カレーのいい匂いがカフェ店内に満たされてきた。いい具合にお腹も空いてきたし、今夜は手抜きのレトルトだけど、人類絶滅カレーフォンデュをいただきましょう。


 個別パックのお餅を、固いけど、頑張って賽の目状にカットする。個別パックのお餅はカビさえ生えてなければ賞味期限なんて気にならないくらい保存が効く。それをチーズフォンデュのピックに突き刺してやって、これまた賞味期限の切れかかったレトルトカレーのパックに沈める。真空パックのレトルトなら賞味期限が一年二年過ぎてても気にしない気にしない。カレーの熱でお餅が少し柔らかくなったら食べ頃だ。


 お餅はもともとお米だ。やっぱりカレーとの相性は最高最強で、たっぷりカレーを絡めて食べよう。人類絶滅後、スーパーの野菜売り場は速攻で腐り落ちて、からっからに枯れ果てて、もう緑色の野菜なんて見かける事もなくなった。なのでレトルトパックに入っている野菜は貴重な栄養源なのだ。口の周りをカレーまみれにしてでも摂取しよう。


 赤ちゃん用のお尻拭きはかなり有能なアイテムで、とても柔らかい素材でできている。消毒用の薬材みたいなケミカルな物質は含まれてなくて、ほぼピュアな水分だけのウェットティッシュみたいなものだ。持ってる水の量が限られて、洗剤を使えないキャンプ場ではかなり重宝する。汚れた手を拭ったり、食後のお皿を拭いたり、顔を洗ったり、大活躍する。


 でも、今日一つ気が付いた。カレーを食べた後の口を拭いた赤ちゃん用お尻拭きは、もうそのまんまアレみたいだった。せっかくのカレーフォンデュ後の幸福感がちょっと萎んでしまう。お尻拭きでカレーを拭くのは禁止ね。次回から気を付けなきゃ。




 拾ったスマホの画像データをぼんやりと眺めていたら、他人の思い出の追体験と言うか、まるでこのスマホの持ち主だった人と一緒に旅をして、実体験を共有してる気がしてきた。スマホを使った記憶の移植再生だろうか。限定的ヴァーチャルな体験記だろうか。それはとても奇妙な感覚だった。


 スマホの持ち主は二十代後半くらいの、前髪ぱっつんがよく似合う小顔の女の人だった。セルフィーが好きなのか、インスタ映えしそうにないほどいつも自分をメインに画像を撮っていたようだ。


 どこかのカフェのパンケーキに被り気味に前髪ぱっつんが映り込み、観光地の看板を隠すようににっこりと歯を見せた笑顔が真ん中に居座っている。はっきりと丸く見える虹を撮りたかったんだろうけど、くるっとしたまつ毛が可愛い目元が見切れていたり。そんな画像データばかりだ。


 もうどこにもいないこの女の人が、かなりの時間を経て、どこの誰かも知らないあたしににこやかに語りかけてくる。このパンケーキかわいいでしょ? 美味しいかどうかはまだ食べてないからわかんないけど。いい景色でしょ? 誰と来たかって? さあ、それは内緒。この虹見た? まん丸い虹だったよね。何色見えた?


 あたし達は残された画像を通して会話を交わす。やった事ないけど、きっと手紙を書く文通ってこんなもどかしくも次から次に喋りたい事が湧いてくる気分になるんだろう。同じ空間にはいないけど、同じものを観て、感じたものを伝え分かち合う。


 この人はどこから来たのか。この人は何者なのか。この人はどこへ行くのか。あたしは知らない。


 でも知らなくたって、このスマホを通して少しだけだけど分かり合えた気がする。あなたがどこで何をしてきたか、あたしは教えてもらった。


 聴いた事のない海外の音楽ばかり再生してたスマホも残りバッテリーが少なくなってきた。この人とも、もうお別れしなくちゃならない。


 人類絶滅後の世界を旅してわかった事がある。遺跡とか、史跡とか、石や木の文明は百年後も千年後も残っているけど、電子で構築された文明は三日と持たない。電気さえあれば画像も音楽もすぐに復活するけど、スマホ本体は何年間その形を維持できるのだろう。一年? 十年?


 もしも、人類絶滅後百万年が経過して、どこからかやってきた新たな文明が滅び去った電子文明の痕跡を発掘したとして、このガラスとプラスチックで作られたスマホを情報媒体だと認識できるのだろうか。中に詰まっている画像や音楽などの電子データを解析、再生できるのだろうか。


 一万年前の原始人が壁画を残したように、あたしも情報を記録として残しておこう。この人のように、この拾ったスマホでセルフィー。カレーフォンデュとにっこり女子高生スマイルで。届くかな。届くといいな。いつの日か、新たな人類が誕生して、再び文明を持つ日に。


 ふと、気付く。このスマホ、記録されていたのは画像データだけじゃない。動画も一件保存されている。この人の自撮り動画か何かだろうか。バッテリー残量はあとわずかだけど、再生してみる。


 その動画はコンビニの入り口を真正面から狙った構図で始まった。すぐにわかる。道路を挟んだ向かいのコンビニだ。あたしが商品を借りたコンビニを、このスマホが放置されていたあの席から撮った動画だ。


 カフェ店内に流れる音楽に混じって、女の人の声が聞こえる。セルフィー画像の人か。「なんなの、なんなの」と震える声で繰り返し、小刻みに揺れる画面を必死で固定させようとスマホを持つ指が何度も見切れて映る。


 コンビニ店内には何人かお客さんの姿が見える。店内には異常は見られない。お客さんも特に慌てる様子も見せていない。問題はコンビニの上、ビルの上階だ。真っ暗で、いや、真っ黒で何も見えなくなっている。


 夜だ。あたしにはわかった。ものすごく濃い黒の夜がコンビニの入ったテナントビルを覆い尽くそうとしている。ビルの周りは真っ昼間で太陽の光も明るいと言うのに、そこだけ真っ黒く塗り潰されたようで、その暗闇が徐々にコンビニ店内にも流れ込んでいた。


 まるで大きな怪獣のような、何か巨大生物が腕を伸ばしているその影が拡がっているような、真っ黒い塊はコンビニをビルごとすっぽりと飲み込んで、どくどくと溢れ返り、こちらに向かって一気に雪崩れ込んできた。こちらに。つまり、このスマホを構えた女の人が座るカフェの窓際の席に。


 そこでスマホの画面は真っ黒になった。バッテリー切れだ。真っ黒い画面に目を見開いてるあたしが映り込んでいる。はっと、このスマホが置いてあった窓際の席を見ると、真っ黒い窓ガラスの向こう側、何にも見えないくらい真っ黒い夜がみっちりと詰まっている。黒いガラスにアルコールランプの光が反射して、口をぽかーんと開けたあたしの全身像が映っていた。


 あたしはスマホを投げ捨てるように、窓際の席の置いてあった場所に戻した。


 怖い夜がカフェの中に入ってこないように、アルコール燃料たっぷりのアルコールランプをもう一個灯して、LEDランタンの明かりも点けて、もう寝てしまおう。明日の朝、明るくなるまで眠ってしまおうと、ソファに身体を投げ出した。

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