本篇9、夕暮れ

増田朋美

第一章

夕暮れ

第一章

稲刈りが終了して、竹でできた馬の上に、大量の稲穂がぶら下がっている季節となった。川の周りには、川トンボが飛び交い、近くの草むらでは大カマキリが卵を産んだ。夫婦円満の印でもある、燕のすがたはいつの間にか消えた。

製鉄所では相変わらず、製鉄作業が行われていたが、夏休みが終了したこともあり、利用者は減少した。そうなってくれたほうが、こういうところではありがたいのだった。気候が涼しくなったため、エアコンの掃除は必要なくなり、水穂も中庭を掃く程度なら許可された。

ただし、そういう事は、午前中のみに限定されていて、午後は寝ているようにと懍からは厳しく注意されている。やっと働けると思ったら、すぐに条件が課されるため、少しがっかりしてしまうが、慢性的な人手不足である以上、仕方なかった。

その日も、中庭を軽く掃除して、あとは布団に入ってうとうとしていた。強力な眠気をもたらす薬品は、できる限り使用したくなかった。それよりも、作業の様子とか耳に入ってくるほうが、退屈しのぎにはなった。

また、鴬張りの廊下がけたたましい音を立てる。誰か来訪者が来たのかなと思って、急いで布団の上に座った。もう、涼しいので、薄物の羽織でも身に付けないといられない季節になっていた。

「おーい。こんにちは。元気かい?」

ふすまを開けて来訪したのは意外な人物だった。警視の華岡と、彼の仲良しさんである監察医の山田先生。華岡とは、蘭を通じて仲良くさせてもらっていたが、山田先生まで連れてくるとは、意外だった。

「警視、もうちょっと考えてあいさつしたほうがいいと思いますよ。元気なんて言えるわけないでしょうが。」

山田先生が、急いで華岡に注意を促した。

「あ、すまん。」

でかい体を小さくしてしまう華岡。

「だから言われるんですよ。捜査がへたくそだって。」

これには水穂も思わず笑ってしまう。

「いいえ、かまいませんよ。そういう場違いな挨拶をするところも、華岡さんらしいですから。それより、どうしてこちらに?」

警察の関係者がこういう施設に来るという事は、何か嫌なことがあったのかなあと思ってしまうこともある。

「いや、蘭から病が重いと聞いて、すぐに見舞いに行こうと思ったのだが、担当の事件がいつまでも解決しないので、遅くなってしまった。全く、最近の事件は変なトリックを使ってごまかすことが多いから、すぐにこうだと割り当てることもできないんだよ。」

まあ確かに、事件をごまかすテクニックは、日ごとに醜悪さを増している。時には、どっかの大学教授も唖然としてしまうようなトリックを使うこともある。

「こんなに頭がいいんだったら、別の場所で発揮してくれればいいのにと思われる犯人が、あまりにも多くてさあ。もう、こっちはいろんな専門家に依頼して調べてもらうのに、犯人ときたら、一人で全部やれるんだからなあ。」

「まあ、映画でもそこを強調しますからね。まるで事件の誤魔化し方を教えているみたい。」

「それより、具合はどうなんだよ。災害レベルの暑さで相当つらかったと蘭から聞いているぞ。まあ、俺も、できることなら防弾チョッキを放り投げたいくらいの暑さだったが。全く今年はひどいよな。」

「まあ見ての通りです。確かに今年はひどいものでした。」

山田先生が、水穂の枕元に置いてある、止血剤の山に目を通した。

「言わなくてもわかりますよ。相当なものでしたね。ここまで強力な薬剤を一日に何回も飲まされるようでは、ほとんど動けないのではないですか。呼吸器内科の医者に聞いてみましたが、よほどひどくない限り、めったに使わないものだそうですよ。」

さすが山田先生。医者であるから、そういう事はちゃんと知っている。

「そうですね。ものすごい眠くなって、時間が無駄になるのが何より嫌です。」

「そうでしょう。だったらこの際ですから、手術受けたらいかがですか?もう、思い切ってそうしたほうが、早いんじゃないかという気がしますけど?」

隣で華岡が申し訳なさそうな顔で小さくなっているので、水穂は山田先生を連れてきた意図がやっとわかった。こういう台詞を言うのは、本当に苦手な華岡なので、代理で言ってもらうために、山田先生を連れてきたのだ。よく山田先生も引き受けてくれたものだ。

「あ、確かによく言われますけど、とてもそこまで行けないですよ。岸和田は遠いですし。」

「だったら、東京大学の付属なんかはどうですか?あと、日大なんかも結構よさそうだと聞いてますよ。」

まあねえ、医者はよくても、若い看護師たちが廊下でぐちぐち患者の悪口を言っているのを聞くのはたまらなく辛いのだ。時に、同和地区の患者なんて、なんで私が相手にしなきゃいけないんだろう、なんていう人もいる。そうなると、同じ部屋の患者さんにも迷惑が掛かってしまう。だから病院に入院する気にはなれなかった。

でもねえ、そんな事を山田先生に言っても、わかってくれるだろうか。

「そこへ行くまでが大変ですし。」

やっとそれだけ言えた。

「そうですけど、このままだとあと数年程度しか持ちませんよ。それでもいいのですか?」

山田先生がちょっと語勢を強くして言う。

「そうなんですけどね、ちょっと歴史的な事情がありまして。」

こういうときに蘭がいたら、山田先生に便乗して、もっと強く言うだろうなと思ってしまうのだった。

華岡が、作戦失敗かとがっかりした顔で大きなため息をついた。

「あーあ、やっぱりだめかあ、、、。」

「もう、華岡さん、そういうこと言いに来たんだったら、自分で言ったらいいでしょう。なんでわざわざそういう事に、山田先生まで連れてくるんですか。偉い人に代理で言ってもらえば、納得するんじゃないかって、虎の威を借るキツネですよ。どういう手を使ったって、答えはNOです。理由は、長年警察をやっていれば、一度や二度はぶつかるでしょ。最近では、第二のお定さんなんて言われた女性もそうだったんですから。」

「第二のお定さん、、、?誰の事だっけ?」

首をかしげて考える華岡に、

「警視、もう忘れているんですか。結構歴史的な事件として報道されたでしょ。」

山田先生はわかってくれたらしい。

「お定さんなんて、ああいうやり方とか動機とかで殺害に至った女はいっぱいるじゃないか。多すぎて忘れたよ。」

「警視、捜査が多すぎるのを言い訳にしないで、日本の犯罪史をもう一回勉強しなおしてください。そうですか。そういう事情がありますと、確かに権威のある医療機関では煙たがれる可能性は確かにありますよね、、、。」

「はい。だから嫌なんです。僕だけではなく、周りの患者さんや、そのご家族まで迷惑がかかる。たぶんきっと部屋をかえろとか、他の病院に行くとか騒ぎ立てて、大問題になると思います。看護師が、あんまりしゃべらないでほしいんですけど、そういうわけにもいかないですから。多かれ少なかれ、愚痴を言うのはあると思いますし。」

「だったら、いっそのこと、日本の医療機関を諦めて、アメリカなんかにいったらどうでしょうかね?」

山田先生は、今だから言える案を出してくれたが、

「いや、同じことですよ。多分きっと白人と黒人で部屋は別とかそういう病院もたくさんあるでしょう。どこの世界に行っても、必ずあります。人間、そうしなきゃやっていけないようにできてますから。それは仕方ないことなので、改善はできないと思いますよ。」

結局これだった。そのくらい、歴史というものは重たいものだ。今はどんなにいい時代になったと言っても、必ずどこかでまとわりついてくる。その対策として、勉強するということになるのだが、多くの学生はテストで百点をとるための道具としか見ていない。

「そうですね。事実は小説より奇なりというのは、こういう事ですかな。うーん確かに、特別な力に頼らないと解決できない問題は、まだまだあるのかもしれませんね。例え人間が原因であってもね。」

「はい、そうなんです。そして、勉強だけでは伝わらないという悪性もあります。だったら、はじめからあきらめたほうがいい。」

「確かに、そう考えてしまうのも仕方ないですね。それだけ人種差別というのは、長く存在していましたからなあ。」

いつの間にか、水穂も山田先生もこういう哲学的な話になっていた。多分、高齢になればこういう結論が出るのかも知れないが、華岡は、やっぱり何とかして手術を受けるという決断をしてもらえないか、じれったいというか、がっかりして仕方なかった。

「華岡さん、スマートフォンなってます。」

不意にそう言われて、自分のスマートフォンが鳴っているのに気が付く。急いでカバンの中からそれを取り出して、発信者を確認すると、自分の部下からである。

「はい、華岡だ。何の用だ。」

「警視!いくら大事なようだからと言って、マナーモードにするのはやめてください。全く、これで電話したの五回目ですよ!」

苛立っている若い部下。

「うるさい!電話なんかするなと言っただろ!電話なんか!」

「そうじゃなくて、用がなければ電話なんかしませんよ。すぐに署へ戻ってきてください。早くしないと、捜査会議が始まっちゃいます。」

「え?もうそんな時間?だってまだ、、、。」

と言いながら、山田先生に時計を見せられて、

「わかった!すぐ帰るから、他の人にはそこで待っててもらえ!」

と言って、華岡は電話を切った。それを見て、水穂と山田先生が笑っていた。

「悪いが署に急用ができて、、、。」

「もう、本当のこと言ったらどうなんです?どうせ、捜査会議の始まる頃には必ず帰ってくるとか言って、無理やり出てきたんでしょう?早く帰ってあげたらどうですか。身勝手な上司を持って、部下の人たち、かわいそうですよ。」

「すまん。」

更に小さくなって、華岡は肩を落とした。

「すまんじゃなくて、これ以上ここにいなくていいですから、部下の人たちの事を考えてあげてください。」

「はい、、、。あーあ、ダメだ俺は。親友の見舞いすらうまくできない。」

「警視。時間の使い方をもう一回考え直した方がいいですね。」

山田先生にも笑われて、

「わかりました。必ず出直します!」

もうやけくそだった。

「じゃあ、すみません。これで失礼しますが、お体、お大事にしてくださいね。事情はあるのかもしれないですけど、医療を受けてはいけないという事はないですから。もし、何かありましたら、何でも相談に乗りますよ。」

結局、俺が言いたいセリフは、山田先生にとられてしまうし、部下には注意されるし、俺はなんていうダメな人間なんだろう。あーあ、蘭がよく貧乏くじを引くというが、それはお前じゃなくて俺の方だ。

「ほら、帰りますよ。出ないと、捜査会議に遅れて、また怒られるでしょ。」

「はい。すみません。」

「じゃあ、くれぐれも、お体を大切にしてくださいね。」

「ありがとうございます。」

水穂はそこだけは感謝して、丁寧に座礼した。華岡が、ああ、今日もだめだった、なんで俺はこうろくな目に会わないんだと言い、山田先生が、警視がもうちょっと世の中に対して軽く見るのをやめろとか言いながら、廊下を歩いていくのを聞きながら、ちょっと疲れたな、なんて考えていると、やっぱり吐き気がして、二度か三度はせき込んでしまうのである。

出たものを手拭いで拭きながら、やっぱりだめか、なんて考えて、再度横になり、再びうとうとしていると、またバアンという音がしてふすまが開く。

「水穂さん。お願いがあるんだけどさ。」

再び布団に座ると、杉三であった。その顔を見て、先ほどの華岡たちとは違い、策略も何もなく、純粋に困っているとわかり、ちょっと安心する。

「何、どうしたの?」

「この文句、訳してもらえんだろうか。昨日蘭の家の玄関先に落ちていて、多分あわてんぼうの郵便屋が落として行ったのだという事はわかったが、蘭が、独和辞典で一生懸命単語を調べても、わかんないんだって。」

そう言って、一枚の封筒を取り出した。あて先は、平仮名でいのうらんと書いてあり、おそらく、平仮名を勉強して間もない人物のものだとわかった。でも、大の大人が、あて先を平仮名だけで書いてくることはまずないので、差出人は外国人であることが推定できた。

中身を取り出すと、そこだけは日本語で書くことができなかったようで、何か流ちょうなアルファベットが乱立していた。

「これをねえ、昨日蘭が一生懸命訳そうとしていたんだけどさあ、のっていない単語ばかりで、わけがわからないっていうんだよ。ドイツ語にこういう書き方は、果たしてあるのかと。」

「まあ確かにそうだ。というか、この文句自体、ドイツ語ではないじゃん。」

一通り目を通して笑いたくなってしまった。ヨーロッパとは、ドイツばかりが主要国家ではないし、多数の言語が存在する。日本にいるとなかなかこの感覚はつかみにくいのだが、似たような書き方で、実は全く違うという言語は結構ある。

「じゃあ何なんだこれ。なんていう意味なんだ?」

「全く、蘭もドイツを離れて、結構時間たったから、ヨーロッパの事情も忘れたね。これはフランス語だと思うよ。うんと急いで書いたようだね。ところどころに誤字がある。多分、はじめは日本語で書こうと思ったつもりだったのが、忘れてしまったのだろう。」

「つまり、緊急で書いたのか。じゃあ、手っ取り早く、全文訳して紙にでも書いてやってくれないかな。僕、読み書きできないけどさ。」

「ああいいよ。ていうか、そうしたほうがいい。これ、早く見せないと、あいつは怒ると思う。そういう内容。」

「じゃあ頼むぜ!馬鹿でも、すぐに知らせたほうがいいことはわかるからね!」

「はいよ。悪いけど、机の上にある紙と鉛筆、貸してくれる?」

「おう!頼む頼む!よろしくな!」

そのころ。

今日最後のお客さんの施術を終えて、さて、昨日の続きに取り掛かろうと、本箱から辞書を取り出して、テーブルの方へ移動した蘭は、テーブルの上にあった手紙がなくなっているのに気が付いた。慌ててどこかへ落としたのかと、テーブルの周りを見渡してみたが、どこにもない。あれ?もしかしたらゴミ箱にでも捨ててしまったのか、なんて考えて、ごみ箱をひっくり返し、昨日やけくそになって捨てた、メモ用紙の残骸を一つ一つ取り出したりしていると、インターフォンが五回鳴った。

「この鳴らし方は、杉ちゃんだ。全く、なんでこんな時にうちへ来るかなあ、、、。」

なんて言いながらとりあえず玄関の方へ行く。

「なんだよ杉ちゃん。買い物ならとっくに済ませただろ?」

「違うわ。蘭が昨日四苦八苦して訳していたこの変な文句、大変だと思って訳してもらった。ほれ、読んでみな。よんでもらったけど、かなりの緊急事態を知らせる文句だぜ。」

「ちょっと待ってよ。いつ持って行ったんだよ。」

「だから、買い物から帰ってきて、蘭が電話している間に、借りておいたんだ。そのまま、予約があるから早く帰れっていうから、僕は家に帰って、お昼食べた後に、製鉄所へもっていったんだよ。他にドイツ語の分かる人はいないだろ。少なくともこの辺には。」

「製鉄所?だって、青柳教授は明日にならないと帰ってこないと言っていたけど、」

「水穂さんに頼んで訳してもらった。蘭も本当に困ったやつだと言って笑っていた。そもそも、ドイツ語ではないらしいぜ、この文句。全く、ヨーロッパに住んでいる人は、ドイツ人ばかりじゃないこと忘れてるのかねって、あきれてたよ。」

と、言うわけで、杉三は、手紙の「原本」と、水穂が書いてくれた「翻訳」を蘭に手渡した。確かに、この達筆な、模範的な文字は、間違いなく彼の筆跡であった。

「杉ちゃんさ、もうちょっと考慮するとか配慮するとかそういう事考えな。なんで断りもしないで製鉄所にのこのこ押しかける?恵子さんか誰かに電話して、事情を話してさ、ちょっとお願いがあるんだけど、いいかなとかそういう事は言えないのかい?いきなりお願いして、あいつが体悪くしたら、どうするんだよ。」

「何も悪そうじゃなかったよ。それに、電話なんてできないよ。だったら、直接行くしかないでしょうが。」

こればかりは杉三特有のものだった。電話するということができないから、何の前触れなしに、直接来訪するしかないのだ。電話機の数字だって読めないし、今彼がどうしているかなんて推量することは全くできないのだ。そして、それを悪いという考えも思いつかない。というより、考えられない。

「だって、そうしなかったら、いつまでたっても訳せないで、内容がわからないまま終わってしまうかもしれないじゃないか。それにこれ、水穂さんも言っていたが、読んだらすぐに連絡をして、長泉まで行ったほうがいいと思うぞ。そういう事もあるんだから、手っ取り早くわかる人にやってもらうのが一番いい。」

「だけどさ、あいつには、今は手を出さないで静かにさせてやるっていうのが一番なんだって、それくらいわからないのか!」

蘭は思わず腹がたった。

「それに長泉ってなんだよ、長泉って、、、。」

「だって、静岡がんセンターは長泉だ。それも忘れているの?手っ取り早く読んでみな?きっと、蘭にとっては本当に重大な出来事なのではないかと思うんだけどね。多分、フランス人のお弟子さんが、うんと慌てて書いたので、日本語で書くのを忘れてしまったのではないかと、水穂さんも言っていたぞ。それくらい急ぎの内容だ。ほら、読んでみな。」

「そういう事は、電話するとかメールするとか、、、。」

「まあ、日本ではそうだけど、ヨーロッパではまた違うんじゃないのか?あんまりスマートフォンが充実してないっていうか、、、。」

確かにそういう国家も少なくないので、蘭はその翻訳を読んでみた。綺麗な文字だからすぐ読めた。読み終わったとたん、蘭の顔が真っ青になる。

「杉ちゃん、しばらくこっちを留守にしてもいいかな。あ、でも、杉ちゃん一人では何もできないのか、、、。わあ、、、どうしよう、、、。」

「なんだよ。何があったんだよ。」

「いや、うちの師匠ががんセンターにいるので、すぐに来いというので、、、。」

「あ、なるほどね。」

それしか返答はなかったが、逆にそのほうがいいと思った。

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