第33話 “日本名僧・高僧伝”50・一遍

“日本名僧・高僧伝”50・一遍(いっぺん、延応元年(1239年)ー正応2年(1289年))は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す[1]。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏[1]とも、通秀[2]とも、通尚[3]ともいうが、定かでない。古来日本では、人の名をむやみに呼ぶべきではなく、人に知らせるものではない、ましてや実名では呼ぶべきではないという慣習が存在した[4]ことが原因と考えられる。延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、別府通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。ただし同市内の北条別府や別の場所で誕生したとする異説もある。有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 建長3年(1251年)13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。聖達は、随縁に浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水にいた華台のもとへ最初の1年間派遣し、華台は法名を智真と改めさせた。「法事讃」(巻下)に「極楽無為涅槃界は、随縁の雑善をもってはおそらく生じ難し」とあり、念仏以外の善は雑善(少善根)であり、往生できない根源の雑善である随縁を名とするのは好ましくないとの判断であった[5]。建長4年(1252年)から弘長3年(1263年)まで、聖達のもとで修学。弘長3年(1263年)25歳の時に父の死(5月24日)をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行。窪寺では十一不二[2]の偈を感得する。文永11年(1274年)2月8日に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。建治2年(1276年)には九州各地を念仏勧進し、鹿児島神宮で神詠「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶに生まれこそすれ(常に南無阿弥陀仏と念仏すれば、弥陀と一体になり浄土に生まれることができる)」を拝し、建治3年(1277年)に豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる。さらに各地を行脚し、弘安2年(1279年)には伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた。弘安3年(1280年)に陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る。

弘安5年(1282年)には鎌倉入りを図るも拒絶される。弘安7年(1284年)上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう。弘安9年(1286年)、四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する。弘安10年(1287年)は書写山圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣する。1274年以来14年の遊行を経て、正応元年(1288年)瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻り[6]、菅生の岩屋へ巡礼、繁多寺に3日間参籠して浄土三部経を奉納、12月16日一遍一行は3艘の船に分乗して今治の別宮大山祇神社付近から大三島へ渡海、河野氏の氏神である大山祇神社に3日間参籠後、今治に戻る。正応2年(1289年)1月下旬に大山祇神社の供僧長観(1月24日)、地頭代の平忠康(27日)など複数の大山祇神社関係者に一遍を招待すべしとの夢告があり[7]、2月5日大山祇神社の社人が招請のため二十余艘の船団で別宮へ渡海、招かれた一遍一行は2月6日再度大山祇神社参詣、2月9日大山祇神社の桜会(さくらえ)に参列して魚鳥の生贄を止めるよう懇請、その後で善通寺、曼荼羅寺を巡礼、6月1日阿波の大鳥の里の川辺で発病、7月初めに淡路に渡り大和大国魂神社、次いで志筑神社に詣でて結縁した後、7月18日明石に渡り、死地を求めて教信の墓のある播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、享年51歳(満50歳没)で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で旧暦8月23日午前7時頃[9]没し、15年半の遊行を終えた。死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられる。



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