第32話 “日本名僧・高僧伝”49・無学祖元

“日本名僧・高僧伝”49・無学祖元(むがくそげん、嘉禄2年(1226年) - 弘安9年9月3日(1286年9月22日))は、中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の鎌倉時代の臨済宗の僧。諡は仏光国師・円満常照国師。日本に帰化して無学派(仏光派)の祖となる。字は子元。建長寺・円覚寺に兼住して日本の臨済宗に影響を与える。その指導法は懇切で、老婆禅と呼ばれ、多くの鎌倉武士の参禅を得た。1226年、南宋(中国)の明州慶元府の許家に生誕。1237年、兄の仲挙懐徳の命で杭州の浄慈寺の北礀居簡のもとで出家。1240年代に径山の無準師範に参じ、その法を嗣ぐ。この頃、石渓心月や虚堂智愚、物初大観、環渓惟一らを歴参する。1262年、東湖の白雲庵に移転。1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、温州の能仁寺に避難していた無学祖元は元軍に包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる[1]。 乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを、1279年、日本の鎌倉幕府執権・北条時宗の招きに応じて来日。鎌倉で南宋出身の僧・蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となる。時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受ける。日本と元との戦いである元寇が起こり、1281年(弘安4年)、2度めの戦いである弘安の役に際して、その一月前に祖元は元軍の再来を予知し、時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与えた[1]。また、「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた。この祖元の言葉はのちに「驀直前進」(ばくちょくぜんしん)という故事成語になった。無学祖元によれば、日本が元軍を撃退した事に対して時宗は神風によって救われたという意識はなく、むしろ禅の大悟(だいご)によって精神を支えたといわれる。1282年、時宗は巨額を費やし、元寇での戦没者追悼のために円覚寺を創建し、祖元は開山となる。

1286年(弘安9年)、建長寺にて示寂。享年61。墓所も建長寺にある。

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