第242話 聖戦
市井の人々は混乱のただ中にあった。
魔王を名乗る者から唐突に告げられた破滅へのカウントダウンは、力を持たない一般人たちを恐怖に陥れるには十分過ぎた。
「お、おい、今の見たかよ……?」
「お前も見たか? 何だよあれ……あんなでかい山が一瞬で……」
「お母さん、ボク怖い……」
「大丈夫よ……大丈夫だから……」
今はまだかろうじてパニックにはなっていないが、このままではそれも時間の問題だと思われた。
恐怖は伝染し、増幅され、さらに拡大していく。
「と、とりあえず、クレアってヤツを差し出せばいいんだろ?」
「わ、私、知ってる! その人、バウアー王国の元貴族よ!」
「でも確か、腐敗した貴族政治を打倒した、市民の味方だって――」
「そんなこと知るか! そいつを差し出さなきゃ、俺たちが氷付けに――」
人々が魔王の脅威に翻弄されつつあったその時――。
『怯えることはありません』
その声は、大地に染み渡る雨のような響きを帯びていた。
「こ、今度はなんだ!?」
『突然呼びかけることを許して下さい。私の名はクラリス=レペテ三世。精霊教会の教皇を務めさせて頂いてる者です』
「きょ、教皇様だって!?」
魔王の宣告からそれほど時間を置かずに、再び頭に流れたその声に人々は最初当惑を隠せなかった。
しかし、その声は決して人々をせき立てない。
ゆっくりと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
『先の魔王を名乗る者の言葉は、確かに恐ろしいものだったでしょう。あなた方が受けた衝撃を思うと心が痛みます。さぞ不安でいることでしょう』
教皇様を名乗る声は淡々としていたが、不思議と心が落ち着くようなそんな語調だった。
声は続く。
『でも、惑わされてはなりません。
――汝、悪魔の声に誘われるなかれ。もっとも簡便な道こそ、もっとも簡便な破滅である。
それは熱心な精霊教徒でなくとも知っている、聖典の有名な一節だった。
人々は思い出す。
自分たちが培い、養い、守り従ってきた規範を。
素朴に、だが確かに人々の中に根を張ってきた正義は、いっときの動揺から人々を立ち直らせる。
『魔王はこう言いました。クレア=フランソワを差し出せ、と。なぜでしょう? なぜ魔王は彼女を差し出せなどと言うのでしょうか?』
教皇様はさらに、魔王の言葉に疑義を提示していく。
魔王の言うことは本当か。
その言におかしな所はないか、と。
『あれほどの力を持つものが、どうして我々に呼びかける必要があるのでしょう? 自ら探し出し、さらうことも出来ないのでしょうか?』
恐怖の対象だった魔王の力が、逆に魔王の要求のおかしさを示している。
人々はそれに気付いた。
『そうです。魔王には出来ないのです。なぜか? それは彼女が――クレア=フランソワこそが、魔王に勝ちうる唯一の存在だからです』
これは教皇様と私たちででっち上げた嘘だが、効果は抜群だった。
強大な力に絶望し掛かっていた人々の顔に、希望の色が戻っていく。
『魔王はクレア=フランソワが邪魔なのです。彼女さえいなければ、全てが思うがままだからです。惑わされてはなりません。彼女を差し出した時が、我々人類の終わりです』
教皇様がダメ押しをする。
クレア様を差し出すのが一番の悪手である、と。
『今、東の地、ナー帝国は魔族との戦いの最中にあります。魔王もまたその地に居を構え、人類を滅ぼそうと画策しています。民よ、どうか耳を貸して下さい。我々は今こそ一つにならねばなりません』
教皇様の声がほんの少し熱を帯びた。
『これはナー帝国だけの戦いではありません。人類の存亡を賭けた最終決戦です。この戦いに、我々は何としても勝利しなければなりません』
これは人ごとではないのだ、と。
全ての人間にとっての戦いなのだ、と教皇様は言う。
『全ての民に剣を取る力があるわけではないことを、私はよく知っています。ですが、最も力なき者にも、戦う力はあるのです』
それはなにか、と誰もが思った。
『それは勇気です。邪悪に立ち向かう心、恐怖に屈しない強い気持ち。隣人を信じ、明日を信じ、魔を拒絶する戦いは誰にでもでき、そして誰もが勝利しうる戦いです』
剣を振るえなくても、魔法が使えなくても、戦うことは出来るのだ。
『さあ、立ち上がりましょう。一人でなくてもいいのです。家族、友、伴侶、道すがら知り合った誰か。皆で供に立ち上がるのです』
最後に一呼吸置いてから、教皇様は宣言する。
『教皇の名の下に、聖戦の開始を宣言します』
◆◇◆◇◆
『あんなもので良かったですか、レイ=テイラー?』
「ばっちりです、教皇様」
演説を終えた教皇様の問いに、私は親指を立てて太鼓判を押した。
タイムが見せてくれる市中の映像からは、奮い立った市民たちが歓声を上げているのが分かった。
念話による演説は大成功だった。
今、教皇様と私はタイムがつなげてくれた念話で対話している。
人々へ向けたそれとは違い、映像つきだ。
『私は大したことはしておりません。頂いた原稿が素晴らしかったのです』
「そんなことありません。教皇様の演説も素晴らしかったですよ」
『そうですか……?』
教皇様は例によって表情筋が死んでいるが、心なしか嬉しそうに見えた。
「まあ、原稿が良かったことも認めますよ。なんたって人類が誇る三大アジテーターによる傑作ですから」
「誰がアジテーターですのよ」
「ひどいです!」
『もう少し言い方はなんとかならんのかね、レイ』
私は褒めたつもりだったのだが、不満の声が三方から上がった。
クレア様、フィリーネ、ドル様である。
今回の原稿はこのお三方による合作なのである。
素案をクレア様が作り、フィリーネが精霊教要素を加味し、ドル様が仕上げをした完璧な原稿である。
これで奮い立たない人は、どうやったって無理。
ちなみにドル様はバウアーへ引き返している途中で、タイムに回線を繋いで貰っているらしい。
「バウアーでも聖戦への参加希望者が出てるみたいだぜ。どうするよ、セイン?」
ふと後ろから聞こえた声に振り向くと、ロッド様がセイン陛下と通話をしていた。
セイン様もドル様と同じく遠隔会話である。
『……駄目だ。こういう時に一般人からの志願兵なんて、ろくなことにならないのは目に見えている』
「そうかあ?」
セイン陛下はこの聖戦に自国民が参加することに否定的らしい。
『……その場の熱に浮かれただけの者、流されただけの者が戦線に合流するのだけは避けたい』
「覚悟が決まっている奴がいるかもしれないじゃねえか」
『……覚悟を持って武器を持っただけでは、戦士になんてなれやしない。自分たちも戦っているんだという意識だけ持って、日常を維持してくれればそれでいいさ』
「消極的だな?」
『今は熱に浮かされているから恐怖が薄まっているが、魔王は山すら凍らせる相手だぞ。集まった志願兵たちがまとめて氷漬けにでもされてみろ。訓練を受けていない兵士では、たちまち烏合の衆と化す』
それは一理ある。
命を賭けて戦うということは、そう簡単なことではない。
「それもそうか」
『魔王が大規模な範囲攻撃に巻き込めない、クレアという枷の近くで戦う少数精鋭で挑むのが最良だろう」
『驚いたな。お前、軍略的な視点なんてあったのか?』
『……軍略なんてご大層なものじゃない。兄貴やユーのような強者ではなかったから、そうじゃない視点で物事を見るしかないだけだ』
セイン陛下は謙遜――を通り越して卑下しているが、彼の視点は貴重なものである。
彼自身は平均に比べれば有能な人物なのだが、彼は弱い者、力なき者の視点で物事を考えることが出来る。
戦う力を持たない普通の人々はどういう人たちなのかを冷静に見定めるその視座は、特に為政者として非常に大切なものだ。
「まあでも、そういうなよ。借りられるところからは力を借りようぜ」
『? どうするつもりだ?』
「バウアーに戻ったら第一軍団の研究室に行け。話はつけてあるから、そこにあるものを国民に配って欲しい」
『何か策があるんだな?』
「まあな」
そう言うと、ロッド様はにやりと笑った。
セイン様が肩をすくめて続ける。
『……出来れば、人類側から大々的に魔王に対して決戦の宣戦布告でも出来るといいんだが。狙いを絞らせてヤツに無駄な犠牲を生ませないように誘導したいな』
「魔王に通じると思うか?」
『……それは分からない。世界を滅ぼそうとする相手だ。どんな無茶でもするだろう』
「形はどうあれ、けっきょく俺たちはクレアを差し出しちまうことになるんだな」
ロッド様が苦く呟く。
『……それでも、敵ばかりになるのは防げた。レイとクレアが周囲の悪意や罪悪感で潰されるのを見るのは、俺は嫌だ』
「珍しく気が合うじゃねえか」
『……初めてかもしれないぞ』
そう言って笑い合う二人を見て、ああ、二人の間にあったわだかまりは、なくなってはいなくても随分薄れたんだなあと私は思った。
ちょっと微笑ましく思いながら、私は意識をクレア様と教皇様との会話に戻す。
「ともかく、これでクレア様を差し出さずに、魔王たちとの決戦に臨めますね」
『私も決戦には参加します。魔王出現の報を受けてすぐに大聖堂をたったのですが、帝都襲撃に間に合わなかったことが悔やまれます』
教皇様は無念そうだ。
「地理的な問題はどうしようもないですよ。起きてしまった過去よりも、これからのことを考えましょう。教皇様の範囲回復はものすごい力です。頼りにさせて貰いますよ」
『ええ、微力を尽くします』
教皇様は小さく、しかし頼もしく頷いてくれた。
『移動に専念しますので、通話はこれくらいで。何かありましたら、タイムを通じてご連絡下さい』
「はい」
『それでは、レイ=テイラー。また後で』
「あ、教皇様、一点だけ!」
『?』
教皇様が首を傾げる。
私は居住まいを正してから――深く頭を下げた。
「タイムがあなた方――私と同じ顔を持つ人々にしたことについて、謝罪いたします。魔王が――もう一人の私があんな馬鹿げた決断をしなければ、あなた方もこんな目に遭う必要は――」
『それは違います、レイ=テイラー』
私の謝罪を教皇様は遮った。
そうして、心なしか柔らかくなった声で続ける。
『確かに、自らの出自を聞いたときは少し驚きもしました。私という存在が、あなたを生み出そうとした付随物だと言われたときは、多少、憤りもしたかもしれません』
でも、違うのです、と教皇様は言う。
『これは運命だったのです。どんな理由であれ、あなたという原因がなければ、私は生まれなかった。あなたがいなければ、私は存在することすらなかったのです。今では私は、あなたに感謝しているのですよ』
それに、と教皇様はさらに続けた。
『あなただって魔王という存在が原因で生み出された人為の子です。あなたがすべきことは、私たち精霊の迷子への謝罪ではなく、私たちとともに魔王に文句を言いに行くことでしょう』
教皇様らしからぬ幼い物言いに、私は毒気を抜かれてしまった。
「教皇様は……それでいいんですか?」
『ええ。一緒に言ってやりましょうよ。このはた迷惑って』
「あはは……」
もしかして、教皇様って結構、面白い人……?
『ご用件はそれだけですか?』
「あ、はい。お引き留めして申し訳なかったです」
『いえ、お気になさらず。それでは現地でお目に掛かりましょう』
「ええ」
念話はそこで途切れた。
「レイったら、そんなことを気にしてましたのね」
呆れるような表情で言うのはクレア様だ。
そんなことというのは、私が精霊の迷子たちに罪悪感を抱いていた件のことだろう。
「だって、まるっと私のせいじゃないですか」
「それを言い出したら、わたくしにだって責任の一端はありますわ」
「ないですよ」
「いいえ、ありますわ!」
ぎゃあぎゃあ。
「お、お二人とも、どうぞそのくらいで。魔王が悪い、でいいじゃないですか」
私たち二人をなだめてくれたのは、タイムの憑依が解けたリリィ様だった。
「リリィ様もごめんなさい。タイムが身体を好き勝手して」
「い、いえいえ! レイさんたちのお役に立てるなら本望ですから。でも、好き勝手されるならレイさんに……」
「リリィ?」
「なんでもないです、クレア様! ……ちっ、見せつけやがって」
「「……」」
「あああ……! 違うんですぅ……!」
リリィ様が涙目になっている。
うん、可愛いけど、私にはクレア様がいるからね。
とにかく、これで後は魔王を倒すだけだ。
決して簡単なことではないが、それでもやるしかない。
今回は革命の時よりも更に仲間が多い。
しかも、人類側の強者が揃っている。
あまり悲観的なことを言いたくはないが、これでダメなら諦めも付くというものだ。
「待ってろよ、私」
とち狂った自分をひっぱたきに行く気満々で、私は指をポキポキ鳴らすのだった。
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