第226話 魔王
「慌てず、走らず、整列して移動して下さい!」
帝都に戻ると、民たちの避難は終盤を迎えていた。
フィリーネの演説の甲斐あってか、帝国国民の動揺は比較的少なく、避難活動はスムーズに行われたようだった。
「フィリーネ」
「あ、クレア、レイ、戻りましたか。お母様は?」
「殿を務めていますわ。戻りが少し遅いのが気に掛かりますが、あの方のことですから無事でしょう」
「ええ、約束しましたから」
フィリーネは何の心配もしていない、というような顔で笑った。
ドロテーアのことを心から信頼していることもあろうが、何より避難を続ける帝国民たちの前で、不安を見せるわけにはいかないのだろう。
「皇帝陛下自ら現場に立って下さるとは……ありがてぇことだ」
「本当に……。ドロテーア前皇帝陛下が頭脳なら、フィリーネ陛下は心臓ですわね」
上手いたとえだ、と思った。
以前の帝国は上に立つドロテーアが全てを取り仕切る上意下達の組織だった。
だが今は、フィリーネを中心に帝国中がまとまっている。
まさに心臓というわけだ。
「クレア、レイ。二人は先に行って、前線の警護に回って頂けますか。少し人数が手薄なのです」
「後方への備えはいいんですの?」
「それが……警戒班からの報告によると、追撃の手が極端に鈍ったようなのです。何が起きたのでしょう……?」
この時、私たちは知らなかったが、ドロテーア率いる殿の兵たちはその命と引き換えに、数千から万に届こうという敵を葬り去っていた。
その中には三大魔公の一人、アリストも含まれている。
ナー帝国第十六代皇帝ドロテーア=ナーの名前は、帝国史のみならず世界史に傑物として名を残すことになる。
「分かりましたわ。ではお先に。フィリーネも気を付けて」
「ええ!」
フィリーネと分かれ、クレア様と私は馬を走らせると、避難の隊列の先頭に加わった。
「お疲れ様です、レイ、クレア」
「……お疲れ様です」
隊列の先頭を指揮しているのは、ヒルダとアデリナさんだった。
一応、補足しておくと、アデリナさんはクーデターを起こそうとした、オットーのお姉さんである。
彼女はまだ将官ではないが、実力を見込まれてこの先頭の警護を担当している。
私たちに対する感情にはまだ複雑なものがあるようで、ヒルダに比べると挨拶もややぎこちない。
隊列はひとまず西を目指していた。
帝都から直接、周辺の各都市に避難する案もあったのだが、まずは西からやってくるバウアーからの援軍と合流することを優先したのだ。
「避難は順調のようですわね、ヒルダ」
「お陰様で今のところは。ですが、避難の最初の受け入れ先である副都までは、まだまだ距離があります。油断は出来ません」
副都というのは放棄された帝都ルームの補助的な役割をしている都市で、今回の避難の受け入れ先の一つだ。
帝都の民を副都だけで受け入れるのは難しいので、ひとまず病人やけが人などの緊急が要される人たちを優先的に受け入れる。
避難の隊列はこの先も他の都市を巡って順次受け入れ先を探していく予定となっている。
「魔物や魔族の襲撃はありまして?」
「今のところ、大きな動きはありませんね。街道に生息する野生の魔物に何度か襲われましたが、それもかなり少ないです。ただ……」
ヒルダはそこで懸念を示すように言葉を切って眉を寄せた。
「何か心配事がありますの?」
「少なすぎるんです。例年、この時期はもっと魔物がいるはずなのですが、それを踏まえるとあまりにも少なすぎる」
「教皇様の行幸の時に、駆除したのが効いているのではなくて?」
「それを加味しても、やはり少なすぎます。何かの罠ではないでしょうか」
ヒルダが表情を引き締めて言ったことは、すぐに現実のものとなった。
「ハッハー! 勘の良いヤツがいたもんだな!」
耳障りだが聞き覚えのある声に空を見上げると、翼を持った影が浮かんでいた。
「プラトー!」
「覚えてて貰って光栄だ、クレア=フランソワ。まあ、すぐにどうでもよくなんだろうがな」
「どういう意味ですの?」
「てめぇが死ぬからさ」
そう言うと、プラトーはゆっくりと地に降りた。
「言ってくれますわね。でも、プラトー。あなた、随分と思い切ったことをしましたわね?」
「あ? 何がだよ?」
「この隊列には人類側の戦力が結集していますわ。いくらあなたが腕に覚えがあろうと、単独で攻めてきたのは迂闊ではなくて?」
「ハッ! その俺一人に部隊を半壊させられたことを忘れたのかよ」
プラトーは首をごきりと鳴らしながら、棍棒を持つ右手をぐるぐると回した。
「ただまあ、お前の言うことにも一理ある。お前やレイ=テイラー、そしてマナリア=スースや聖女は厄介だからな。俺様だって油断すりゃあ危ないかもしれねぇ」
「ならばここは引きなさいな。こちらも余裕がありませんの。今なら見逃してあげましてよ?」
「ハッハッハ! 悪ぃ冗談だ! ここで引き下がったら、俺様が殺されちまう」
「……? 誰にですの?」
クレア様の問いに、プラトーは続けた。
「お前ら人間なんぞが、本来拝謁を許されるもんじゃねぇぞ。控えろ、王の御前だ」
――「それ」は最初影も形もなかった。
急に膝を突いてかしこまるプラトーのすぐ側に、突然闇がわだかまり始めた。
魔法使いならば様々な種類の光を目にすることは多いが、闇が実体を伴って空中に存在するその光景は違和感しか覚えない。
まるでその空間だけが球状に切り取られたかのような、そんな錯覚さえ覚える。
その闇は、徐々に人の形を取り始めた。
巨躯のプラトーに比べると、それは大きいとは言えなかった。
だが、徐々に細部が露わになるにつれ、目撃した者たちは次々にその場に膝を突いた。
圧倒的な殺意。
いや、そんな生やさしいものではない。
あれは虚無だ。
人類という有の正反対に位置するもの。
生命に対する否定。
非存在の存在などという矛盾した言葉を連想するそれが、とうとう人類の前に姿を現した。
「魔王様の降臨だ。人間ども、絶望しろ。そして死ね」
プラトーの言葉と同時に、それは大地に足を下ろした。
「……」
魔王という名前から連想するには、随分と小さい。
背の高さに関して言えば、私と同じかクレア様より少し高い程度だろう。
だが、その身に纏う濃密な魔力はどうだ。
何の魔法も行使せずただその場にいるだけで、クレア様が本気で撃ったマジックレイ以上の恐怖を感じる。
魔王は全身に黒い布のようなものを纏っていた。
それはどこか法王様の法衣を思い起こさせる装飾過多なもので、動きにくそうに見える。
だが確信する。
あの存在には、そんなことは些末だ、と。
「……」
魔王がゆっくりとこちらを見回した。
その顔はヴェールのようなもので覆われていて、表情はうかがい知れない。
だが、視線に晒されただけで、避難中の帝都民が何人か昏倒する。
恐らく、魔力が高い者でなければ、ヤツと向かい合っていることすら難しい。
「……」
ふと、魔王が無造作に右手を横に伸ばした。
攻撃してくるのか、と私たちが身構えたその瞬間――。
轟音が鳴り響いた。
「……なんてことですの……」
呆然と、クレア様が呟いた。
彼女の視線の先、魔王が手を向けた方向には
「デタラメにもほどがある」
思わず呟いていた自分の言葉が、他人のそれのように聞こえる。
魔王の右側にあった地面や草木、小高い丘、そして遠くに見える山までもが、円筒を倒したように綺麗にくり抜かれていたのだ。
「あんなもの……どうしろって言うんですのよ……」
クレア様がうわごとのように言う。
心が折れかかっている、というのが分かった。
なぜなら、私もちょうど同じ心境だったからだ。
三大魔公は強かった。
強かったが、まだ理解の範疇だった。
だが、ヤツは。
魔王は無理だ。
ドロテーアが言ったことが今なら分かる。
あれは人の身でどうにか出来る存在ではない。
「……終わりの時、です」
童女であると同時に老爺でもあるような不思議な声で、静かに告げる魔王の言葉に、人類側のほとんどが膝を屈した。
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