第196話 暗示

「マナリア様が……? どういうこと?」

「しらばっくれるつもりですか。あの人を誑かしておいて」

「いや、そうじゃなくて」


 イヴがマナリア様の恋人だった?


「あの人は私のことを愛してくれた。私はあの人のために身を引いたけど、その愛を忘れたことはなかった」

「……」


 熱に浮かされたように言うイヴに、私は不審なものを感じていた。

 彼女は、どこかおかしい。

 違和感がある。

 この違和感はなんだろう。


「それなのに、あなたはあの人を……! 許せない……!」

「イヴ、キミは誤解してる。私はマナリア様となんでもない」

「うるさい!」


 イヴが殴りかかってきた。

 私はあわてて身をよじってそれをかわす。

 勢いのままたたらを踏むイヴから距離を取って、彼女と対峙する。

 間が悪いことに、出入り口の扉はイヴの後ろだ。

 ここは資料室なので、紙が劣化しないように窓もない。


「イヴ……、あなたはマナリア様とどこで出会ったの?」

「そんなことを聞いてどうするんですか」

「確かめたいことがあるから」

「ふん、自分の方がマナリア様に愛されていることですか?」

「違うってば」


 私の言葉に耳を貸さず、イヴは懐に手を入れた。

 取り出したのは小ぶりのナイフだった。

 イヴはそれを構えた。


「マナリア様は私のもの……。あの方に身も心も仕えた私だけのもの……!」

「……」


 仕えた……ということは、あれか。

 以前、マナリア様が言っていた、彼女がお手つきにした侍女というのがイヴなのか。

 確かその侍女は王宮を去り、その結果、マナリア様は荒れたというが。


 年齢が合わないと思いかけて、私は以前、イヴが言っていたことを思いだした。

 確かヨエルを繁華街で見失った時のことだ。

 イヴは自分が見かけよりも年上だと言っていた。


 なら、違和感の正体はそこではない。

 なんだろう?

 何が引っかかっている?


「あなたは私からマナリア様を奪った! 返して! マナリア様を返して!」


 イヴがナイフを閃かせて踏み込んできた。

 私はそれを間一髪でかわした。

 イヴの白兵戦能力はあまり高くなさそうだが、それは私も同じこと。

 クレア様にいくらか鍛えて貰ったとはいえ、まだ付け焼き刃も良いところだ。


 魔法を使えば負けない自信はある。

 イヴも白兵戦よりも魔法の方が得意だったはずだが、それでも彼女に負けるとは思わない。

 問題は、私の魔法は少し威力が高すぎることである。

 出来れば、彼女に怪我を負わせたくない。

 魔法も事実上封じられたことになる。

 私はいつかのルイ戦を思い出した。


 ん?

 ルイさん?


「ねぇ、イヴ。あなた、ラナと同郷だって言ってなかった?」

「今、それがなんの関係があるんですか」

「いいから答えて。あなたはラナと同郷なの?」

「ええ。私はラナと同じ出身です」


 そう。

 なら、やっぱりおかしい。


「なら、あなたはどこでマナリア様と出会ったの? あなたはユークレッド出身なのに、スースの王宮に仕えることが出来たの?」

「!? そ……それは……!」


 イヴが驚いたように目を見開いた。


 スースは帝国のような徹底した能力主義を採用していない。

 クレア様のように身分を保障された人間が王宮に預けられるならまだ分かるが、イヴのような平民が王宮の――しかも王族の侍女になることなんてありうるだろうか。

 平時のスースならまだあり得るかも知れない。

 だが、今代のスースはマナリア様が王女になるまで跡目争いで揉めていたはずだ。

 そんな中で海外の平民などという身元の不確かな者を侍女として採用するだろうか。


「イヴ、よく思い出して。あなたは本当にマナリア様の侍女? それとも、ユークレッド出身というのが間違い?」

「……う、あ……」


 イヴの顔が徐々に歪んでいく。

 それはまるで、自分の中から湧き出る恐ろしいものに怯えているように見えた。


「あ……ああ……あああ……!!」


 イヴは頭を抑えて暴れ出した。

 苦しむように身体をよじり、その口からは絶叫が迸った。


「イヴ、しっかりして!」


 私は近寄ってナイフを叩き落とし、暴れる彼女を抑え付けた。

 その顔を見ると、瞳には光がなくその表情はどんよりと曇っている。

 私はこれに近いものをどこかで見たことがある。

 本来の彼女とはかけ離れたそれ。

 これは――。


「暗示……!」


 理由は分からないが、イヴは恐らくサーラスの暗示を受けている。

 彼女の行動は、全てが彼女の意思ではない。

 ならば、と私は懐からそれを取り出した。


「月の光よ、彼の者に蔓延はびこよこしまを払いたまえ――!」


 月の涙の発動句を口にすると、指輪が光を放った。

 柔らかな光がイヴを包む。


「あ……う……」


 苦痛に歪んでいたイヴの表情が、少しずつ穏やかなものに変わっていく。

 効果があるかどうかは賭けだったが、どうやらサーラスの暗示もバッドステータス扱いだったらしい。

 やがて、イヴは動きを止めてその場に崩れ落ちた。

 私はその身体を慌てて抱き留める。


「イヴ……イヴ……! しっかりして……!」


 私はイヴの頬をぺちぺちと叩いた。

 イヴは単に気を失っていただけのようで、すぐに目を覚ました。


「……レイ先生……ここは……?」

「帝国の資料室だよ。何があったか思い出せる?」

「……」


 イヴはしばらくぼんやりしていた。

 視線を宙に彷徨わせ、一通り周りを見渡す。


「私……ラナと先生を手伝っていて……それで……」

「うん」

「……それで……確か……。――!?」


 イヴははっと目を見開くと、身体を起こした。


「私……なんてことを……」

「落ち着いてイヴ……。イヴは何にも悪くないから」

「でも……!」

「大丈夫、落ち着いて。まずゆっくり深呼吸しよっか。はい、吸って」

「……」

「吐いて」

「……」


 イヴは憑き物が落ちたように素直に私の言葉に従ってくれている。

 ずっと突き刺さるようだった、嫌悪感混じりの視線も今はない。

 やはりイヴは、何者か――おそらくはサーラス――に操られていたようだ。


「まず、確認ね? イヴはマナリア様の元恋人だった侍女ってことで間違いない?」

「……はい」

「それが原因で私のことを恨んでいた?」

「……そういう気持ちがあったはずなんですけれど、よく分かりません。なんで私はそんな風に思ったのか……。今はそんな風には全然……」

「うん。イヴはちょっと悪い暗示を掛けられてたみたいだから。イヴのせいじゃないよ」


 私はイヴを抱える手に込めた力を強めた。

 イヴが顔を伏せたまま身体を預けてくるのが分かった。


「私……マナリア様のことはもう割り切っていたはずなんです。マナリア様のことを考えれば、一緒にいられるはずはなくて。身を引くのが一番だって」

「うん」

「スースを離れて、侍女としてあちこちで働きました。そうして……それから……」


 イヴはそこで何かを思い出したような表情をすると、伏せていた顔を上げた。


「先生! ダメ! 急いで寮に戻って!」

「え?」

「メイちゃんとアレアちゃんが危ない!」

「ど、どういうこと?」


 突然、切羽詰まったような顔色でいうイヴに、私は当惑した。

 そんな私を一言で現実に引き戻す言葉を、イヴは口にした。


「私に暗示を掛けたのは、あのラナなんです!」

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