第89話 妥協と譲歩
季節はもう秋になろうとしていた。
風に乗ってキンモクセイの香りが運ばれてくる。
二十一世紀の日本ではトイレの芳香剤などと揶揄する人もいたが、この世界においてはそもそも芳香剤そのものが存在しない。
キンモクセイの香りが好きだと公言したところで、そうそう反対意見には出会わない。
街道を歩きながらかぐわしい香りを胸いっぱいに吸い込む。
だが、生憎、気分はちっとも上向かなかった。
ロッド様から貴族たちの不正に関する説明を受けた翌日から、私たちは早速調査に乗り出した。
もっとも調査と思っているのはほぼ私だけで、クレア様とリリィ様は父親の潔白を証明するための活動と思っているようだが。
私たちはまず、ドル様とサーラス様の両方に関わり合いのある貴族から調べることにした。
その貴族は軍の備品調達を任されており、ロッド様の調べに寄れば会計を誤魔化しているとのことだった。
名前はウェッジ=トンプソン様というらしい。
そんな訳で、私たちはウェッジ様のお屋敷に向かっている最中である。
最中なのだが……。
「……」
「……」
「あ、あのぉ……?」
リリィ様が気まずそうな顔をしながら、私たちにの顔色をうかがうような声を出した。
まあ、気持ちは分かる。
学院で合流した後、クレア様も私も挨拶以外一言も喋っていない。
そりゃあ、気まずくもなるだろう。
「きょ、今日はいい天気ですね!」
「曇っていますよね?」
「そ、そうですね……」
「……」
むしろ雨でも降りそうな空模様である。
「お、お二人は今朝、何を召し上がりましたか? リリィはライ麦のパンにコーンポタージュでした」
「今朝は寝坊したので、朝食抜きです」
「そ、そうですか……」
「……」
リリィ様はきっと場を持たせようとしているのだろうが、そのことごとくが失敗した。
リリィ様は全く悪くない。
悪いのはクレア様と私だ。
「あの……クレア様?」
「……なんですの」
「いえ……なんでもないです」
私もこの空気を何とかしようとクレア様に話しかけてみたが、クレア様はそっけない反応。
こりゃダメだ、と私は口をつぐむことにした。
その後も沈黙を続けるクレア様と私の間で、リリィ様がなんとか悪い空気を払拭しようと頑張ってくれた。
でも、結局、空気はどんよりとしたままだった。
そうこうしているうちにトンプソン邸に到着しようとしている。
出来れば着く前にこの雰囲気をどうにかしたかったんだけど。
「ふぎゃ!」
などと考えていると、突然、可愛い悲鳴とともに目の前からクレア様の姿が消えた。
視線を下に動かすと、何かに躓いたのか、大の字になっているクレア様が見えた。
「ムキ―! レイだけでなく、靴ひもまでわたくしに歯向かうんですの!?」
見れば、クレア様のパンプスのヒモが切れている。
「レイさん、靴ひもと同系列に扱われていますが、ご感想をどうぞ」
「赤く染まって小指に巻き付こうと思います」
もちろん、左手のである。
などと冗談を飛ばしてみつつも、私は別のことを考えていた。
ここ最近は情緒が安定していたクレア様だが、本来、彼女はささいなことでキレるおヒス持ちだった。
そんな一般的に見れば醜態ともいうべきクレア様の姿を見て私は、ああ、愛しいなあと思ってしまった。
求愛の件でギクシャクしているが、クレア様と私の価値観が違うなんてこと、私は元々分かりきっていたはずだ。
私は私とまるで違う価値観を持つ彼女をこそ、愛おしいと思ったのだから。
このところのクレア様は、ちょっと理解が良すぎた。
今だって、私の結婚観に異を唱えはしても、クレア様自身の結婚観を無理に押しつけようとはしてこない。
クレア様は、出来る範囲で私を尊重してくれようとしている。
なら、私はどうする?
こんな風にギスギスした空気なんて、私たちには似合わない。
私は気分を変えることにした。
「ドジなクレア様も萌えます」
「! ド、ドジとは何ですの、ドジとは!」
私が意図してふざけ始めたのを察してくれたのか、これまでだんまりだったクレア様も反応をくれる。
「少しじっとしてて下さいね」
私は荷物の中から革紐を取り出すと、それを細く割いて臨時の靴紐に仕立てた。
「……手際がいいですわね」
「クレア様に鍛えられましたから」
切れた靴紐を外して革紐を通し、応急手当していく。
「……どうせわたくしはドジですわよ」
「そんなことありません! 下着が見えて眼福でした!!」
「あなたは突然何を言い出すんですの!?」
「え、何って……欲望ですけど……?」
「だから不思議そうな顔するんじゃありませんわよ!」
キレるクレア様も大変萌えます。
「ず、ずるいですー! リリィも百合百合したいです!」
「ゆ、百合百合って何ですの?」
「レ、レイさんに教えて頂いたんです。女性同士のいちゃいちゃのことを、百合と言うんだそうです」
「あなたはリリィ枢機卿に何を教えてますの!?」
「てへ」
私は小さく舌を出しながら立ち上がると、転んだままのクレア様に手を差し伸べた。
「クレア様、仲直りしましょう」
「……別にわたくしたち、ケンカしているわけではないですわ」
「そうですね。でも、ちょっと価値観の相違というか、意見が合わない部分があって気まずかったのも事実です」
「……そうですわね」
クレア様は私の手を握り返してくれた。
私は力を込めて少し強めに引き上げた。
「きゃっ!?」
「おっと」
ぽふん、とクレア様の華奢な身体が私の腕に収まる。
「んー、この抱き心地。ずっと離したくない」
「はーなーしーなーさい!」
「リ、リリィも、リリィもー!」
ぎゃーぎゃー。
「クレア様。私の結婚のことは、ちょっと一旦置いておきましょう」
「え!? レイさん、結婚なさるんですか!? 相手はどなたですか!? ま、まさかリリィの思いが届いて――!?」
「リリィ様はちょっと黙ってて下さい」
「……しゅん」
申し訳ないが話が進まない。
っていうか、ロッド様に求婚されたとき、リリィ様もいたはずなのだが。
「結婚するにしろしないにしろ、今すぐにという話ではありません。私ももっと考える時間が欲しいですし、これが原因でクレア様との関係が悪くなるのはイヤです」
「……レイとの関係を悪くしたくない、というのは、わたくしも同意致しますわ」
「ですから、一時棚上げ、ということで」
「……しかたないですわね」
そう言うと、クレア様は何か吹っ切れたように微笑んだ。
「じゃあ、さっさと仕事を片付けますわよ?」
「はい! しおらしいクレア様もいいですが、やっぱりクレア様はイケイケじゃないと!」
「イケイケって何ですの!?」
「今みたいなクレア様です!」
「わけが分かりませんわよ!?」
などと言いながら、いつものようにじゃれる。
良かった。
調子が出てきた。
「……けっ……なにいい雰囲気作ってんだよ」
「……」
「……」
「あばばば……す、すみません! わざとじゃないんです!」
「もう慣れましたけど……」
「いっそ清々しいほどの豹変ぶりですわね」
わざとじゃないのはもう分かってるけど、それでもびっくりはする。
「じゃあ、行きましょうか。クレア=フランソワ様による悪徳貴族粛正の始まりです」
「響きが物騒ですわよ!?」
「リ、リリィを置いていかないで下さーい!」
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