となりの天使
らいむ
第1話 となりの天使
「星野さんの隣の部屋、女の人が引っ越して来るみたいですね」
出勤前の僕に声を掛けて来たのは、同じこのアパートの204号室に住む西山さんだった。
「え、202号室に?」
「そう。昨日ちらっと小耳に挟んだんだけど」
「でもこのアパートに住むんだから、若くて可愛い女の子って訳にはいかないでしょうね」
冗談っぽくそういうと、西山さんも「だろうね」と笑いながらゴミ袋を抱えて去って行った。
この築40年のボロアパートに住むのは、僕のような安月給のサラリーマンか、西山さんのような、どこか世捨て人のような独身男くらいだ。
僕の隣の202号室は特に日当たりが悪く、ずっと空き部屋だったのだが、そこに越してくるのはそうとう訳ありの女に違いないと思った。
けれど残業を終え、錆びた階段を上った2階の202号室の前で僕が目にしたのは、何とも小柄で可憐な少女だったのだ。
16~7歳というところだろうか。
訳ありシングルマザーが、高校生の子を連れて引っ越して来た……ってパターンなのかもしれない。
少女は202号室の錆びたドアを開けたり閉めたりしながら、ギィーギィーと軋む音を、不思議そうに聞いている。
肩にやっとかかるくらいのサラリとしたショートヘアがとてもよく似合っている。
チュニックの下から延びる足はほっそりとしていて形が良く、妹が持っていたリカちゃん人形を思わせた。
「油をささないと軋むんですよ。ここのドア」
僕は怖がらせないようにそっと少女に声を掛けると、その横を通り過ぎて201号室の鍵をあけようとした。
こんな所で怖がられて、「隣の男の人が……」などと親に言われてはかなわない。
僕はロリコンなんかじゃないのだ。
けれど思いもかけない事は、不意に起こる。
少女は鍵を取り出した僕の傍にスイと近寄り、まるで花のように可憐に微笑んだのだ。
「星野さんですよね! ああよかった。私ずっと星野さんが帰って来られるのを待ってたんです」
「……はい?」
僕は思わずあたりを見回した。けれどそこには僕のほかに「星野さん」はいない。
「え……なんで?」
「違うんですか?」
少女の顔が曇る。
「いえ、星野なんですが」
「よかったー。お隣の人がもっと強面の人だったらどうしようかと不安だったんです。201のポストの表札に星野って書いてあったから、良い名前だな~、優しい男の人だったらいいな~とか、ずっと思ってたんですよ。ああ、よかった。思い通りの星野さんで」
まるで、お見合い相手が理想の人だったことに安心している女……のようなセリフだ。
思わず僕の胸がドクンと反応する。
少女のキラキラした、まるで恋するような瞳に、僕は眩暈を起こしそうだった。
今ここで、この瞳に見つめられて「好きです!」と言われたら、「僕もです!」と即答してしまいそうだった。
落ち着け自分! 僕は大きく深呼吸した。
少女は咲田モナミと名乗った。
僕の予想はまるで違っていて、ここに住むのは彼女ひとりだった。シングルのマザーはいない。
年齢は言わなかったが、フリーターだという事なのできっと高校は卒業しているのだろう。
「これからまた何かお願いすることがあるかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。星野さん」
可憐に微笑み、モナミはぺこりと頭を下げて帰って行った。
……ザワザワする。部屋に戻ってからも胸が異様にザワザワして落ち着かない。
今のはただ単に「引越しのご挨拶」なのだろうとは思う。
きっと203号室の金田さんの所にも、そうやってあいさつに行くのだろう。
金田さんは110キロの巨漢のオッサンだが、それでもきっと同じように「仲良くしてくださいね」と言って微笑むのだろう。
そうだ。モナミは礼儀正しいお嬢さんなのだ。僕だけ特別ではないのだ。
けれど、その夜は妙にそわそわして眠れなかった。
彼女の居ない28歳の健全な僕には、あの可憐な微笑みが、ちょっとばかり眩しすぎたのだ。
◇
モナミの事を同僚に話すと、案の定うらやましがられた。
同時に、やばい事にならないように気をつけろよとも言われた。
「ヤバい事? あんな若い子に手は出さないよ」
「そうじゃなくてさ、実は新手のセールスで、高価な布団買わされたり、エステ券買わされたり」
「ないない。天使みたいに純真そうな子なんだぞ?」
同僚の嫉妬を笑い飛ばし、僕は少し浮かれ気分でアパートに帰った。
今日はバイトに行ってるのかな、などと思いながら202号室の前を通り過ぎ、自分の部屋に入ろうとした時だった。
いきなり隣のドアが開き、モナミが顔をのぞかせた。
「星野さん、お帰りなさい。あのね、宅配便を預かってるのよ」
「え……、あ……。そうなの? ありがとう」
通販の荷物を受け取ってくれたようだ。
今までアパートの隣人同士で、そんなことをしてくれる人はいなかったので僕は内心とても慌てた。
親切にされすぎると、嬉しいよりも戸惑ってしまう。
「星野龍一さんてお名前なのね。なんかカッコいいな」
送り状に書かれた僕の名前を見ながら、モナミは小包を僕に渡してくれた。
細くてきれいな少女の指が僕の手に触れる。
「ねえ、龍一さんって呼んでもいいですか? 私の事もモナミって呼んでください」
「え……」
昨日と同じ動悸と眩暈が僕を襲った。
これは一体なんなのだろう。こんなことって有りなんだろうか。
美少女コンテストに出ればきっと優勝間違い無いようなかわいい子が、至近距離で僕を見上げてファーストネームを呼ばせてくれと言う。
「事件」だ。
我ながら単純馬鹿だとは思うが、もうそれだけで胸がバクバクした。
その日は「いいよ」と、ただそれだけ言ってあいまいにドアを閉めたが、その「事件」は次の日も、その次の日も続いた。
ある日は「クッキーを作り過ぎちゃって」といってちょっと焦げのあるハートのクッキーを山盛り届けてくれたり、またある日は、福引でワインを当てちゃったんだけど、飲めないから飲んでくださいと、持ってきたり。
僕が帰ると、何かしらの品物を持って訪ねて来るのだ。
「みつぎ物か?」
「まさか。この地味男代表のような星野に?」
同僚たちは首をひねる。
僕もさすがにここ数日は、浮かれ気分よりも奇妙さを感じ始めていた。
203号室の金田さんに昨夜バッタリ会って話をしたのだが、隣の女の子の顔を見たこともないというのだ。204の西山さんに聞いてもそうだった。
じゃあ、挨拶しに来てくれたのは、僕の所だけなのか…。
そういえば201号室の名前を確認して・・・と言っていた気がする。
201号室の住人だけに挨拶するつもりだったのか?
なにかあるな。
ようやく僕は冷静にそう思えるようになった。
その日、いつもより早くアパートに帰った僕は、2階への階段を上って、ハッとした。
部屋の掃除でもしているのか、202号室のドアが全開に開け放たれている。
中からは、あたたかな光が漏れ、そして影が動く。モナミが居るのだろう。
若い女性の部屋を覗くのも気が引けるし、僕はなるべく素早くその前を通り過ぎようとした。
早足で通路を抜け……。
けれど見てはいけないと思うと人間というのは見てしまうものなのだ。
ドアの前を過ぎるときチラッと目線がモナミと交わった。
僕の目が捉えたのは、ごく普通の、”ほぼ”いつも通りのモナミだった。
そうに違いなかった。
それなのに、僕の胸の中には「見てはいけない何か」を見たような衝撃が走り、そしてモナミは青い表情をして「見ちゃった?」と声を漏らした。
僕はそのまま「何も」と笑い、ぜんまい仕掛けのオモチャのように、自分の部屋の鍵を開け、中に入った。
けれどドアを閉めることは叶わず、慌てて追いかけて来たモナミによって、再び開け放たれた。
「ねえ、見たのね? 龍一さん」
ああ、これは何かの昔話にあったな。僕は刹那記憶をたどった。
そうだ、鶴の恩返しだ。
人間の女に化けた鶴が、自分の正体を知られるのが嫌で、「決して襖を開けないで」と言って恩人の男の部屋にこもり、お礼の織物をしていたのに、男は約束を破って開けてしまったのだ。
そして、部屋の中に居た鶴を見てしまう。
「鶴ですか?」
「鶴じゃないわよ! あぁ……やっぱり目や脳に何か影響しちゃったのね。ごめんなさい、龍一さん」
モナミは申し訳なさそうに呟いたが、すぐそのあとで、意を決したように僕を見た。
「もうこの際だし、時間もないからちゃんと言います。龍一さん、私のお願いを聞いてもらっていいですか?」
ああ来た。
きっと何かあると思っていたんだ。
僕は胃が重くなるのを感じた。
売りつけられるのは、高級羽毛布団だろうか、トレーニングマシンだろうか。
壺だったら嫌だなあ。
「明日の夜、私を龍一さんの部屋に泊めてください。お願いします」
モナミは勢いよく頭を下げたが、僕はその意味を理解するのに少々時間がかかった。
泊めるってなんで?
暫くして思考が戻った僕の脳内は、再び混乱した。
泊まるという事は、泊まるという事で、それ以外の意味には取れないはずなのに、この世で一番難解な言葉のように思えた。
「泊まりたいの?」
「はい。でも勘違いしないでください。寝たいわけじゃないんです」
「だよね。だよね」
寝るという言葉にも、いろんな意味があるんだけどね、モナミちゃん。
もうやめようよ、鼻血が出そうだ。
僕はただ混乱した笑いを浮かべながら、目の前の真剣なまなざしの少女を見つめた。
そうだ、少なくともモナミは至って真剣に見えた。
僕をからかっているわけではなさそうだ。
「じゃあ、教えてくれるかな。なんでモナミは、明日、僕の部屋に泊まりたいの?」
「明日の深夜2時に、お迎えが来るんです。その場所が、この龍一さんの201号室なんです」
「お迎え?」
「そう、明日の満月の夜に。これを逃したら天上に帰れないんです」
そうか。 鶴の恩返しじゃなくて……。
「かぐや姫じゃありませんから」
「だよね」
僕は笑いを貼りつかせたまま、こくんと頷いた。
◇
次の日の夜。
身支度を整えたモナミは僕の部屋に来て、僕のベッドの上に座り、「その時」を待っていた。
僕は超常現象や非科学的な話は大好きだったが、モナミの話はその上を行っていた。
僕はただ、花びらのようなモナミの唇から放たれる、彼女の身の上話を延々と聞いた。
彼女は一言で言ってしまえば、天上界で罪を犯して下界に落とされた天使なのだそうだ。
能力を抑えられ、正体を隠して人間として真面目にコツコツ働くことでようやくボスに許しを得ることができ、天上界から迎えが来るのだそうだ。
「そのお迎えに来る場所って言うのがね、緯度と経度と海抜で指定してくるのよ。私がそう言うのに疎いって知ってて、ボスが意地悪したのよ。なんとかその位置がこの部屋だって割り出すのに、ずいぶんかかったのよ」
かぐや姫のように、牛車でお迎えに来るわけではなさそうだ。
「ねえ、この話、信じる?」
小首をかしげるモナミは、とてつもなく可愛らしかった。
お迎えが来たら信じる、とだけ答えたが、その時点で僕は、モナミが人間でないのは当たり前のように思っていた。
昨夜、202号室で見たモナミは光に包まれ、そして背中にあったものは、幻覚でなければ確かに翼だった。 ……様な気がする。
モナミはまだボンヤリしている僕の目を覗き込み、「私が消えてしまっても、寂しくないのね?」と憂いた顔をする。
何のサービストークだろう。
「ごめん、まだ知り合ったばっかりで、君の事、知らないし」
「そうよね。人間って愛を認識するまでに時間がかかる生き物なのよね。ここに落とされてつくづくそう思った」
「天上人は違うの?」
「これで一発よ」
そう言って弓矢を放つ仕草をした。
「便利だね」
「うん…。でも素っ気ないよ」
モナミはベッドの上に寝ころび、床に座っている僕の髪を、仔犬を撫でるように優しく撫でた。
暇つぶしなのだろうとは思うが、その指の動きは妙に官能的だった。
18歳くらいだと思っていたが、実はもっと妙齢なのかもしれない。
なにしろ天使だし。
細い指が髪から頬に滑り、そっと頬を撫でてから、僕の唇に触れる。
くすぐったい。
「君は何の罪を犯して、ここに落とされたの?」
モナミの指をそっとかわし、僕は訊いてみた。
「同僚の彼氏を寝取ったの」
「そりゃあ………重罪だね」
フフッとモナミが笑い、吐息が僕の唇に触れる。
その時。
まるで舞台演出のように部屋の電気がスッと消えた。
「来た」
モナミが短く言う。
同時に空気がピンと張り詰めた。
「ありがとうね龍一。バイバイ」
温かい吐息。
そして少女の唇がそっと僕の唇に触れ、それと同時に目の前が真っ白にスパークした。
本当に、それは一瞬のことだった。
二度ほど瞬きした僕の周りにあったのは、ごく平凡な、今まで通りの僕の部屋だった。
周りを見回しても、彼女の姿はどこにもない。
ただあの細い指先の感触と、優しいキスの余韻が、僕の唇にしっかりと残されただけで。
あの子はもしかしたら、とんでもない魔性の子なのかもしれないなあ……。
そうだとしたら、きっとそのうち、また下界に落とされる。
ベッドの上にふわりと残された、つややかな黒い羽根を一枚つまみ上げ、僕は一人微笑んだ。
となりの天使 らいむ @lime
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