プロローグⅡ 彼には聞こえていた

 爆発音がどこかで上がった。


 直後、もうもうと立ち上ぼる黒煙が屋敷の窓からも見える。




「どこぞの馬鹿が騒ぎ始めたか? もしくは英霊エインヘリヤルか、深層の魔物が――」




 ハルアジスの意識が逸れると、魔法陣も消え失せた。


 魔法が消えたことにより、記憶の精錬作業も止まったようだ。幻痛が消えたお陰でこちらも外に注目する余裕が生まれる。




 方角は神代樹の虚がある方向だ。


 あちらには虚から地下に繋がる洞窟があるらしい。


 冒険者然とした人々が毎日行き交い、不可思議な生物の素材や宝を抱えて帰ってくる風景を何度も見た。




 曰く、アツィルト境界域と呼ばれるものがそこにはあるらしい。だからハルアジスは馬鹿が騒ぎ始めたかと言ったのだ。


 そうでなければ、或いは――




 もうひとつの可能性を思い浮かべた瞬間、それは爆煙を天に向けて突っ切って現れた。


 あまりにも速くて、巨大な影が空へ逃げたことしかわからない。角度的には窓枠が邪魔になって見えない上空まで行ってしまった。




 それを追って見ようとしたハルアジスは窓枠に飛びつく。




「あやつは……! おのれ、性懲りもなくまた来おったか。ええい、冒険者共は何をやっている。あんなものの姿を見れば天使がまた騒ぎ出すではないか!」




 彼にとっては知っている存在なのだろう。ハルアジスはじれったそうに外を眺め、苦みばしった顔で地団駄を踏む。




 散々憎んだこの男の顔を少しでも歪めてくれたなんて、一体どんな存在だろうか。


 胸がすく思いと共に興味を抱く。


 自分は見えもしないそれに対し、意識を向け続けた。




 すると、この曲者を追う存在も出てきた。グリフォンや天馬に乗った騎士が円錐型の突撃槍を手に空に向かっていく。


 それだけではない。後方援護もいるのだろう。


 炎や氷が地上から飛んだり、果ては空に雷鳴が轟いたりし始めた。魔法使いでもいるらしい。ファンタジー溢れる異世界らしいことだ。




 ああ、この環境に立たされて酷く羨望してしまう。


 夢やロマンで語られるファンタジーが窓枠の外にはある。少しの距離しか隔たれていなかった。




 だというのに、自分はあちら側にいられない。


 この環境を察した聡い誰かが救い出してくれもしない。




 ……知っているとも。この世界の残酷さは喚び込まれてから痛感した。


 思い知るには数ヶ月の時と苦痛で十分だった。現実はそんなに甘くない。


 だからこそ、彼らの敵と見える何者かに心惹かれた。せめてその動向を見守るだけである。




 するとその時、ウォォォッ! と咆哮が辺りに打ち広がった。


 あの曲者の声らしい。その音量だけで窓枠はがたがた揺れた。肉体のないこの身にも深く響く。


 数秒としないうちにその姿は見えた。




 曲者は白と金を基調とした翼と鱗を持つ怪物――ドラゴンだ。


 三十メートルは下らない巨体だというのにその竜は器用に翼で空を打ち、地上から放たれる魔法の数々を身軽に躱している。




 見惚れるとはまさにこのことを言うのだろう。


 あの巨体だというのに、鱗は陽光を反射すれば宝石のように輝く美麗さだ。




 かといって、見せかけばかりか?


 ――否。数々の勇士が放つ攻撃を躱すだけではない。あるいは触れたとしても、何の事なしに掻っ切るのだ。


 銃弾を弾く日本刀に対し、ロマンを覚える感覚と同じだ。力強さと美しさが伴ったその動きは本当に幻想そのものと言っていい。




 だからその在り様に目を奪われた。


 体のないこの身まで打つ声に、凍りかけていた心が息を吹き返す。




『頑なよな、ヒト共よ。これだけの街を築く頭がありながら傀儡に成り下がるだけとは嘆かわしいにも程がある!』




 咆哮に次ぐ声量だ。これはあの竜が人と同じく言語を用いているのだろうか。


 攻撃を躱し続けていた竜は何かを気取って空を見やった。魔法陣の展開と共に雷雲が渦巻き始めていたのだ。




 竜はそれを見定めると、自らも正面に魔法陣を展開した。


 次の瞬間、竜の魔法陣から空に紫電が走ったかと思うと、雷雲は消し飛んだ。




 竜の吐息とは言えない。それはもう砲撃か、それ以上のものと言っていいだろう。


 余波は衝撃となって周囲に広がり、屋根板を吹き飛ばしたり、冒険者を立ち竦めさせたりと尋常ではない。


 規模の違いに、多くの人々は息を呑んだらしい。喧噪は嘘のようにしんと静まり返った。




 一方、竜は自らが放った紫電を見つめている。


 それは雷雲を貫いた後、空の果てまで突き抜けると思われた。だが、突如として透明な膜に阻まれたかのように広がり消える。




 それを確かめた竜は目を細めた。


 いち早く我に返った者たちが放つ攻撃を再度避けながら、その存在は呟く。




『やはりこの地は人の手によって閉ざされているか。境界域の利益を独占するにはそうでなくてはあらぬよな』




 人であれば眉をひそめていたところだろう。竜は顔を歪め、そちらに意識を割いていた。


 その一瞬が徒となったようだ。




 冒険者が竜の死角に位置する家屋の屋根から飛び上がると、手にしていた剣を投擲した。それは先程から各所で展開しているのと同様に、魔法を伴う攻撃らしい。


 人の肩で投げたにしてはあまりに凄まじい速度である。




《避けろっ!》




 敵の敵は味方という心理と同じく竜に偏った見方をしていた結果、危険を叫んでしまった。


 だが、肉体がないこの身だ。いくら心の声で叫ぼうとも、届く訳がない。


 これだけの人を翻弄する竜は達者だ。すんでのところで攻撃を察知し、避けようとした。けれども足りない。体の中心を穿つはずだったのが、後肢を貫通するに留まっただけである。




 甲高い獣の悲鳴が轟く。


 しかし、竜が我を失うことはなかった。生じた隙に向けて冒険者が攻撃を殺到させたが、すぐにまた翼を打って見事に対応する。




 一筋縄ではいかないことは人も重々理解できたことだろう。このハルアジスの焦燥混じりの顔を見れば間違いない。


 それからしばらく竜は冒険者と駆け引きを続けていた。


 そして、その末に戦闘をしながらもこちらの方向へと向かってくるではないか。




「……くっ! 屋敷を見定めて来おったか!?」




 ハルアジスは皺だらけの顔をしかめる。


 人類の敵ならば、目立つ家に住むこの街の有力者を狙うのも道理ということだろうか。


 彼は腰につけていた杖を手に取った。老人用のそれではない。宝石があしらわれた魔法使い用の装備だと思われる。




 こんな機会が訪れるとは、なんてことだろう。


 あの暴れっぷりに微かな応援を向けていたら、竜は舞台をこちらに移そうとしている。




 まったく、この上ない展開だ!




 制御できない野生の猛威であろうと、大歓迎である。自分をこんな境遇に陥れたものだ。折角なら全て破壊してほしい。


 飛び行く経路では、まるで特撮のように爆発が巻き起こっている。それすら物ともしない力強さに、心はますます躍った。




 竜はそれらから羽ばたき出ると、猛禽類のごとく屋敷に飛び掛かった。


 まるで望むままを為してくれているかのようである。これは夢だろうかと疑ってしまうくらいの流れだ。




 壁と屋根が音を立てて崩落する中、竜が目の前に着地した。


 竜はハルアジスに覇気のある瞳を向け、鋭い歯列を開き見せている。


 その大翼も合わせると、人なんて比べるべくもない巨躯だ。間違いなく人類の脅威と言える存在だろう。




 こんな破壊の権化がいれば、無論、杖によって縛られた我が身も危ういはずだ。


 だが、不思議と恐ろしくはない。


 もういっそ、自分の身ごと全て壊れてくれてもいいという思いもある。けれどそれ以前に、この竜に対して見惚れはするが、恐怖が思い浮かんでこないのだ。




 もっとも、この感覚は人間としておかしいのだろう。


 人間代表として見るハルアジスは、恐怖に息を詰まらせていた。彼は途切れ途切れになんとか呪文を絞り出すと、魔法の障壁を展開してにじり下がっていく。




 ああ、きっと自分は人間性がもう壊れているのだろう。


 今、天井は悪夢と共に払拭されたかのように青空が見えている。そんな風景と同じく、胸は清々しく晴れているのだ。


 たとえ救われなかったとしても、このまま全て壊れてくれれば満足だ。最期の最期に良いものを見ることができた。




 そんな思いに駆られていた時のこと。


 ハルアジスを見据えていた竜の目は、ちらと自分――杖に向けられた。




『ヒトよ、我には聞こえたとも』




 ハルアジス以外、誰にも気づかれなかった。


 けれども確かに竜は自分を見定め、言葉を向けた。そうとしか思えない状況に、心がどくりと疼く。冷たかった炉心に、火がくべられたかのようだ。


 聞こえていた? それは何がどのように伝わったのだろうか。




 もしや、何かを期待しても良いのか。そんな思いを抱き始めていた時、惜しくも竜はハルアジスがいる方向に目を向け直した。


 彼――いや、彼が背にする部屋の出入り口に警戒するべきものを捉えたらしい。


 どたどたと駆ける音が聞こえたかと思うと、半壊していた出入り口を吹き飛ばして誰かが踏み入ってきた。




「火急につき失礼します。負傷者はいますか!?」




 やって来たのは、二十歳足らずと見える若い女性の騎士だった。

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