竜と獣医は急がない

蒼空チョコ

第一章

プロローグⅠ その日、竜が舞い降りた

 さて、最期の記憶は何だっただろうか。




 勤続年数すら不確かだが、獣医師として働いていた自分が非業の死を遂げたのは確かだ。


 その死因が何なのかはハッキリしている。自分は魂を抜かれたのだ。


 我ながら非現実的な結論に至ったものだと思うが、そうと言質が取れたのだから仕方がない。




 まず状況から説明しよう。


 魂を抜かれて行きついた先は、地球とは全く異なる風土と法則が支配した異世界。


 樹高500メートルにも届きそうな化け物級の樹――世界樹ならぬ神代樹の根本に作られたアッシャーという名の街だ。




 この街の住人はどうしても家々をこの樹に寄り添わせて建てたかったらしく、巨大な根の上や下など、手頃な隙間に家を置いている。


 重なり合った根に板を渡した道がこの街の生活路だ。根の隆起に合わせて街に高低差ができていることから、坂だらけの街にも見える。




 ただし街の全景を眺めたことはない。


 街の高所に作られた屋敷の一角――二階の大部屋に備えられた窓から見える範囲が、把握できる全てだ。


 なにせ自分の意識はその部屋に置かれた杖に縛り付けられている。




 つまり、地球で一般的な獣医の自分はある日突然に魂を抜かれ、この杖に宿らされたらしい。視野や意識の状態的には、杖でこの場にピン留めされた地縛霊状態というところだ。


 それから幾日経過したのかも、こんな状態なのでよく覚えていない。一年は経ってないだろうが、数ヶ月は経っているだろう。




 召喚からそのまま軟禁されているだけならまだマシだった。なにせ開放されれば元の生活に戻れるのだから。


 だがもう自分にはそんな希望も残っていない。




 召喚者曰く、魂とは精神と体力の源。言ってみれば延髄を切られたようなもので、元の肉体はとうに死んでいるらしい。


 だから諦めて使い勝手のいい道具に成り下がれ。それが召喚者の言い分だった。


 本当に反吐が出る。




「さて、それでは五大祖にも勝る我が施術を再開するとしよう」




 その犯人こそ、今しがた部屋に入ってきた老齢のネクロマンサー、ハルアジスだ。


 彼は自意識の高さや他人への僻みから、独り言が多い。


 また、この部屋に出入りする弟子らしき人物たちとの会話に聞き耳を立てていくらかの情報が集まっていた。




 五大祖とは、この街の形成に関わった偉い五人のことだ。どうも、ハルアジスの先祖もそこに含まれているらしいが、詳細は不明だ。


 とにかくこのハルアジスは偉大な先祖を持つが、他の四家に比べて落ちぶれているらしい。




 原因は彼自身の能力不足である。


 その悪評を払拭するために取ったのが、研究成果の発表だ。自分はその渾身の“作品”にされているらしい。




 どういう作品かと言えば、要求すれば異世界の知識を吐き出す杖だ。


 店先の案内ロボットをより高度にしたものが最終目標とでも思えばいいだろうか。


 彼はそれを作るため、長い時間を費やしていた。




 そして現在は問いかけにエラーを起こさないよう、個人的な記憶を削ぎ落とす作業を日課としている。


 精神に作用する魔法とやらを使われているらしく、日がな一日魔法陣を向けられていた。




 削ぎ落とすという表現通り、この作業はとてもとても苦しい。


 体を削られる痛みがある。しかも痛覚だけでなく、もっと言いしれない苦痛が同時に襲いかかってくる責め苦なのだ。


 自分が壊れるのを、叫びも上げられず耐え続けるしかない。召喚されてからはそんな地獄が続いた。




 これで人間性が崩壊しない方がおかしい。


 ともすればとっくに壊れているかもしれないが、鏡で自分を映すことも適わないのだ。正常なのかどうか確かめる術もなかった。




「ケハハ。もうすぐ、もうすぐじゃ。人類史以来、何者もなし得ていない偉業をこのワシが打ち立ててやろうとも。もうこんな街に拘ることもない。先祖や他の家と比較されることもない。ワシ一人が至高の存在として讃えられるのだ!」




 ハルアジスは天井に手を広げて高笑いする。


 ああ、これだけは言える。温厚な――いや、そうだったと思う自分でも、この老人だけは八つ裂きにしてやると願ってやまない。




 けれども自分に叶うのはただ願うことだけだ。


 もう手も足もないのだから仕方がない。こんな状態で一体何ができるだろう?




 そう思っていたある日のこと。転機は突然やって来た。


 街に竜が舞い降りたのだ。

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