A.I.のいる日常
森川 蓮二
第1話 非実在性少女
四月の中頃。
山の上から顔を出したばかり太陽の光が差し込む住宅街。
その一角にあるアパートの一室で時計のアラーム音が部屋中に響いていた。
部屋は薄暗く、乱雑に平積みされた書籍やテレビのリモコンがあり、台所には可燃物と記されたゴミ袋がひとつ置かれている。
そして時計の前には人型に盛り上がった布団があり、十回目のアラームが鳴ったところで布団から伸びた手がやまかしい時計を黙らせた。
しばしの沈黙ののち、不機嫌なうめき声をあげて少年――九条拓也は目を開ける。
眠たげな目で時計を一瞥すると、むくりと上体を起こして布団から這い出すとゾンビのようにフラフラと歩きだす。
洗面所に辿り着くと蛇口を捻って顔に冷たい水を打ちつけ、タオルで顔に残った水滴を拭き取る。
意識をはっきりとさせ洗面所を出ると、右のこめかみを二回叩いてコンタクトレンズ型の
「おはようございます」
「うぉあッ!」
だが展開した途端、目の前に現れた少女と耳の裏に埋め込まれた骨伝導式のスピーカーから聞こえた声に驚く。
同時に置いていた本に足を取られ、盛大にこけると頭を机の角にぶつけた。
現れた少女は後頭部の痛みに悶える拓也を覗きみる。
「すいません。そんなに驚くとは思いませんでした」
「……朝からびっくりさせんな、バカ」
小声で呟いて昨日から家にいる少女を一瞥すると、片手で後頭部をさすりながら立ち上がる。
少女はそんな彼を何かを待つようにじっと見つめ、視線に気づいた拓也は静かに呟いた。
「おはよう。アイ」
「おはようございます。拓也」
丁寧なお辞儀と笑顔を向ける少女――アイから気まずそうに視線を逸らし、拓也は昨日の出来事をそっと思い返した。
事はちょうど二十四時間ほど前。
その日は陽気を超え、夏のような日差しによる暑さが街を包み込むような日だった。
住宅街にあるアパートの一室で、拓也は訝しげにテーブルの前に座っていた。
開け放たれた窓から吹き込む風が部屋の白いカーテンを揺らすが、少年の眉間には岩の亀裂のごとき深い皺が刻まれている。
なぜ彼がそんな顔をしているのかというと、半ば強引に部屋に入ってきた女性のせいだ。
ビシッと着こなしたサングラスの彼女は少年の視線を気にすることなく、最低限の礼儀として少年が出したお茶をすすっていた。
その隣には見た目十歳程度のアイが興味深げに部屋を見回している。
「で、インターネットサービスなんかを提供するスマートアローズ社のエージェントがどうして一介の大学生である俺のところに?」
拓也は訊ねつつ、先ほどもらった手元の名刺に目を落とす。
名刺にはスマートアローズ社の三本の矢を模したロゴが描かれており、読むのもげんなりするような長文な役職の後に静本沙羅という名前が一回り大きく印刷されている。
沙羅はサングラスを外し、そのくっきりとした切れ長の目で拓也をまっすぐ見た。
「拓也さんは、我が社が取り組んでいる人工知能育成プロジェクト。通称AIUをご存知ですか?」
「あぁ、確か公募で募集した人の中から何人かに最新の人工知能を育成させるプロジェクトでしたっけ?」
うろ覚えながら答えつつ記憶を呼び起こす。
確か八ヶ月ほど前にネットサーフィンをしていてお遊び半分で応募したような覚えがある。
あの時はニュースでも大々的に報じられており、それに乗っかった一時的な人工知能ブームのようなものが起こっていた。
「はい、あなたにはそのAIUプロジェクトで人工知能を育成するテストユーザーに選ばれました」
「…………はい?」
拓也が首を傾げると、沙羅は隣のアイを指差す。
「つまりあなたは、このアイのテストユーザーに選ばれたということです」
そう言われて拓也が隣にいるアイに目を向けると、恥ずかしそうに沙羅の背中に隠れるように上体を動かす。
「でも、あれは面白半分でやっただけで、本気で選ばれるとは思ってなかったんですよ」
確かにプロジェクトに応募した覚えはある。だが興味本意でまさか本当に選ばれるとは夢にも思っていたかったのだ。
「しかし、今から変更はできません。応募と同時に契約が成立したものとすることは応募の規約要項で記されていたはずです」
拓也の言い分に沙羅は困ったように眉を八の字にする。
規約要項は記載されていたが、あんな長ったらしい文章を上から下まで読む奴など余程警戒心に強い人間か物好きぐらいしかいないだろ、と内心でツッコミを入れたが、そう言われてしまえばこちらに非があるのは明らかだ。
「で、でもただの大学生にこいつをまかなえる資金なんかはありませんよ」
「その点はご心配なく、彼女はホログラムなので基本的に費用はかかりません。Airを切って確かめていただいても結構です」
そう言われて、拓也は左目を閉じて右目のAirの拡張層を切ってみる。
するとそこにいたはずのアイの姿が忽然と消え、拡張層を広げたままの左目だけで見ると、彼女は微動だにすることなくそこにいた。
「アイは人とネットワークとの繋がりを円滑にするためのインターフェイスとしてこの姿をしています。起動している限りは彼女の姿は確認できます。もし彼女に関する費用があった場合は我が社が持ちますので、拓也さんは安心してアイを使ってください」
拡張層を戻す拓也に沙羅はそう言って一人立ち上がって玄関の方へと向かっていく。
その後ろ姿に声をかけた。
「ちょ、マジで俺に育てろってことですか⁉」
「はい、今回のプロジェクトではこちらで厳重な精査をした上で幅広い世代に参加してもらっています。データ収集と学習のために必要なことなんです」
はっきりした口調でそう言われ、拓也は座布団の上にちょこんと座っているアイに視線を送るが、沙羅は最後に付け加える。
「最後に一つ。彼女を預ける前に三つの契約を守ってください」
「三つの、契約?」
「学ばせること、そばにいること、そして愛を与えること。この三つを守っていただければあとは自由です」
沙羅は言葉とともに指を一本ずつ立ててそう言い、頭を下げるとそのまま玄関から出ていってしまう。
一方的に状況を説明された拓也はドアを呆然と見ていたが、首をアイの方へ戻すと愛想笑いを浮かべた。
そんな出来事から丸一日。
朝食と歯磨きを終えた拓也はジャージを脱いで、シャツとズボン、そして紺色のパーカーという服装に着替えている最中だった。
乱れたパーカーのフードを直しつつ、どうしたものかと考える。
休日であった昨日と違い、今日は大学の講義があるのだ。
アイを連れて行っていいかどうかについて沙羅は何も教えてくれなかった。彼女が教えてくれたのは、三つの契約についてだけだ。
言わなかったということは恐らくは問題ないのであろうが、正直面倒である。
そんなことを考えながら鞄に必要な物を詰め込んで携帯の時計を一瞥すると、液晶は午前九時を過ぎたことを表示しており、十時半からの講義にはまだ時間があった
「時間は大丈夫なのですか。拓也」
「大丈夫だ。ここは学校から近いし、次の授業が始まるまでには時間があるよ」
後ろから投げかけられた言葉に答えつつ、支度を粛々と進めた。
今日は早めに出て、カフェなんかで時間を潰そうと考えていたが、ふと手を止めてアイの方を向く。
「そんなに見られるとやりづらいんだが……」
「すいません。でも学ぶのが仕事なので」
「学生の俺もそれは一緒だよ」
きっぱりと答えたアイの言葉に拓也は苦笑する。
アイはそんなせわしなく動き回る拓也の動作をひとつひとつ目で追っていた。
あまりにも凝視されるのでつい口を開いてしまったのだが、考えればこっちが気にしなければいい話だ。
そんなことを思いながら、戸締りを確認してから鞄を背負う。
「それじゃあ、大学行くから何かあったら呼んでくれ。余計なものには触るなよ」
そう言って拓也は玄関から出ようとしたが、トテトテとアイが付いてきた。
拓也は立ち止まる。
「なんで付いてくる? お前は部屋で留守番」
「私も連れて行ってください」
「ダメだ」
提案をバッサリと却下すると、彼女は首を傾げて訊ねる。
「何故ですか?」
「子供連れで学校なんて行ったら、周りからなんて言われるか知れたもんじゃないから」
大学とは教員を除けば基本的に二十歳前後の人間しか集まっていない変わった場所である。
もちろんそこには拓也の友人たちもいるし、そんな中に子供を連れて行けるほどの勇気は持ち合わせていない。
「でも、連れて行ってもらわないと三つの契約に違反します」
何かを教える。側にいる。愛を与える。
確かにアイを大学に連れて行かないということは彼女から離れるということで、側にいるという契約に違反することになる。
そのことを脳裏で思い出して、頭を掻く。
「…………規則なら仕方ないか。ったく。ほら行くぞ」
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