脳の融点
安崎旅人
第1話 22度、秋風の温度
ぼくたちが生まれたのは1990年の9月14日。ぼくたちーーそう、ぼくと、双子の兄の
中学校に入った時、ぼくたちはまだ一緒だった。でも、2年生になった時、兄に恋人ができた。兄は隠し事をするようになり、おしゃれをして、毎週末何処かへひとり、つまりふたりで出かけるようになった。相手は同じクラスの女子。兄のではない、ぼくと同じクラスだった。その子は長い黒髪を後ろで結ってポニーテールにした可愛い子で、クラスでも人気者だった。白いブラウスに紺のスカートの夏服を着た彼女はとても美しくて、触ると壊れそうで、でも触る事ができたらきっとその肌の温もりは素晴らしいだろうと、そう思えた。艶のあるたっぷりした髪からは、ほんのかすかにこの世のものとは思えない芳醇な香りがした。くもりない笑顔はまるで太陽のようで、彼女がいるだけであたりは華やいだ。彼女のいる場所ではぼくは陽気になれた。そして、自分の背後にいる彼女の耳に入る大きさで、さも楽しげに友人と話して、不器用に彼女の気を引こうとした。そう、ぼくは彼女に恋していたのだ。だから、彼女が兄と付き合っていることを知った時、ぼくはなぜ自分ではなく兄なのか、と理不尽な怒りに我を忘れた。そして、子供じみた敵愾心から、ぼくは兄とほとんど口をきかなくなり、兄が洒落た服を着れば着るほどぼくは格好悪い服装をし、兄が陽気になればなるほど陰気に振る舞って場の空気を悪くした。学校でもぼくはうつむいて歩き、ぶっきらぼうに話して皆に嫌な思いをさせた。特に、彼女がいる前では一層陰鬱に振る舞った。
ある日のこと、ぼくと彼女が日直当番になった。ぼくは黙って黒板を拭き、日誌を書いている彼女に背を向けて顔をしかめた。彼女がありがとうと言って日誌を抱え、教室から出て行こうとした時もぼくはしかめた顔のまま曖昧に頷いて彼女と言葉を交わそうとしなかった。彼女は少し何かためらったようだったが、黙って出て行った。ぼくはその日を1ヶ月も前から待っていたのに、ぼくは彼女と言葉ひとつも交わさずにその機会を逸してしまった。そう考えると無性に悲しくなって、ぼくは窓に頬杖をついて校庭を睨んだ。もしこれが小説なら、彼女は開け放したドアからもう一度入って来て、誰もいない教室でぼくを見つけ、そっと優しく声をかけてくれるのに。でも、そんなことはこの世界では決して起こらないのだ。その陰鬱な諦念に、ぼくの心は痛んだ。
失恋の痛みに、折しも吹きはじめた秋風が、じんわりと沁みた。
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