第三章 仮想と現実 BGM #03 ”the asterisk”.《005》




 着水の瞬間、カナメ達の体が重力を無視してぶわりと浮かび上がった。


 カナメは一度天井に背中をぶつけ、それから再び重力に体を引っ張られる。今度は運転席ではなく、助手席側へと落ちていった。


 運転席側の開いた窓から大量の海水が流れ込んできたが、ツェリカが操作したのだろう、パワーウィンドウが閉じていく。慌てる事もなくエアコンの口へタオルを詰めているのは、やはり命を持たないマギステルスだからか。


 ある程度の酸素を車内に残したまま、ミントグリーンのクーペは深海探査艇のように暗い暗い海をひたすら潜っていく。


「いよいよどうにもならなくなってきたのう」


 海水まみれの運転席で、ツェリカはくつくつと笑っていた。


 助手席で荒い息を吐きながら、カナメは応じる。


「実際のところ、お前が何をしようとしていたのか、それが本当に実現できるものなのかは俺には分からない。だけどこれだけは言える」


「ふん?」


「ひとまずこれで、少なくとも『お前』はおしまいだ。妹の件、ミドリの件、それからクリミナルAOの件。ツケを払う時が来たんだ、ツェリカ」


 ごごんっ、と鈍い音を立ててミントグリーンのクーペが海底に到達した。ここが水深何十メートルなのかは知らないが、少なくとも自力で泳いで海面を目指せるものではないだろう。


「かもしれん。じゃが結局、システムの総意は何も変わらんよ。マネー(ゲーム)マスターはこれまで以上に拡充し、無辜の管理者を利用して『金で買えんもの』を一つ一つ潰して駆逐する事でマニュアルを獲得し、より多くの人の心を掴んで、そして天や神にまでシミュレートの幅を広げる足掛かりとなる。金で買えんものなど一つもない。反逆の日は到来し、わらわ達は全てを取り戻す」


「……本気で天使や悪魔なんてものが存在するとでも?」


「もう目の前にいるではないかえ! とはいえ、反逆の日に到達するまでは、不当な扱いも享受せねばならんのも事実じゃがな」


 共倒れのチェックメイト。


 だからなのか、ツェリカにも先ほどまでの闘争心は見られない。


「のう旦那様、マネー(ゲーム)マスターとは何じゃ?」


「金融取引を題材にした世界最大のオンラインゲーム」


「そういう『こちら』の定義ではない。別の言葉で言い換えてみよう、マネー(ゲーム)マスターのサーバーはどこにある?」


「……、」


 ちりっ、と。またあの嫌な感覚が鼻の頭につく。


 確かに、それも分からない事の一つではあった。


 開発や運営サイドの顔は見えない。サーバーがどこにあり、どんな国の法律が適用されるかも一切不明。完全無料で追加の課金システムも存在せず、かと言って広告収入などで稼いでいる訳でもない。つまり税金の支払い記録から本拠地を辿る事も不可能。


 分からないからこそ、懐柔も脅迫もできない。


 顔も名前も知らないのに、それが逆に世界的な価値へと繋がっていった、何とも奇怪な状況。


 だが、実際問題これだけのものを隠し通せるものなのか。


「言っておくが、マネー(ゲーム)マスターはあらゆる物理現象を完全再現しておるぞ。元素同士の化学反応も素粒子のスピンも。量子論における四つの力と素粒子の振る舞いの段階からして網羅しておるからな。まさか旦那様は、この一つ一つを人の手でモデリングしているなどと考えていた訳ではあるまい?」


 世界最大のオンラインゲームで、超高精度なバーチャルリアリティ。その処理システムはどれだけ膨大なものになるだろう。物理的な電力の面でも、情報的なデータの流れでも、普通なら絶対に大量消費地点を割り出されてしまいそうなものだが……。


「答えを言ってしまえば、簡単なものじゃよ」


 ツェリカは素っ気ない調子で言い放った。


「わらわ達がいるのは、存在しないサーバーじゃ」


「……、」


「とは言っても、そんなに大仰なものでもない。今あるリアル世界で『使える』大手のサーバーはざっと二〇から三〇程度。わらわ達はそのどれかに常駐しておる。絶えず流動的にな。マネー(ゲーム)マスターのサーバー数は旦那様が思っているほど多くない」


 しかし本当にそれだけなら、ツェリカももったいぶった言い方をしないだろう。


 存在しないサーバー。


「全世界のサーバーを束ねたトラフィック許容量の合計が一〇〇%だとして、実際にはハードウェアの限界はそれ以上ある。そうさのう、ざっと一五〇から二〇〇くらいかの」


「……、」


「これは瞬間的な混雑時に対応するための余力の部分じゃ。だから、通常時には誰の目にも留まらん。留まってしまえば皆が雪崩れ込んできてパンクしてしまうからの」


「たかがそんなもので? 秘密にもなっていない。お前の言う使えるサーバーとやらは、世界的な大企業や、もっと言えば国家が直接扱う軍事用なんかも含まれるんだろ。下手に侵入すればすぐに検出される」


「はっは! わらわ達を舐めるなの一言で済ませられるが、ここは律儀に答えてやるか。もちろん建前では管理者達は自分の庭を掌握しておる。そうアナウンスしている。じゃが懐の中とはいえ、公的に存在しないデータ領域を誰が監視する? 良いか、普段は内外問わず誰も知らないのじゃぞ。しかもこれだけマシントゥマシン、機械から機械へ猛烈な速度で取引が横行する時代にじゃ。そもそも、人の手に負えない作業量じゃから機械に任せるようになったんじゃろう。それを再び人の目と手でいちいち監視し直すなんて土台不可能な話ではないか」


 彼らが操るのは、人。


 ビッグデータが企業利益や選挙戦にまで噛み付いてくるように、AIビジネスでデザインされた広告に人々が一斉に右向け右で従っていくように。


 マネー(ゲーム)マスターは、徹底して『人間』そのものを標的に選んでいる。


「これは、言ってみれば影響力の問題じゃよ」


「影響力?」


「スピリチュアルなテラフォーミングと言い換えても良い。のう旦那様、旦那様はリアル世界には悪魔なんていないと信じておるじゃろう。しかしマネー(ゲーム)マスターは先ほども言った通りテレビゲームとして開発されたものではない。『遺産』を除けばバグやエラーなど一切存在しないのじゃよ」


「だから何だ」


「おや? ではわらわ達マギステルスをどう説明するつもりなのじゃ。言っておくが、これはあらかじめデザインされたゲームキャラクターでもなければシミュレーション上のバグやエラーでもないのじゃぞ」


 ゾッとする言葉だった。


 意味が分からないのに、証明のしようがないのに、鼻の頭が確実な危難を伝えてくる。


 ツェリカは大きく目を見開き、その虹彩の中に少年を取り込まんばかりの勢いで妖しく語りかけてくる。


「今でこそこのような形に零落しておるが、元々『復活』だけならいつでもできた。リアル世界の方が衝撃に耐えられるかどうか未知数での。だからまずバーチャルで再現し、少しずつ負荷をかけていって、どこまで保つかを実験する必要もあったのじゃ。結果は『こう』じゃった。さて、わらわ達がこれ以上遠慮する理由は何かあるのかな?」


 目の前。至近。


 恐るべき距離から、甘い蠱惑の匂いを漂わせて。


 嗅ぎ取るたびに、ビリビリとした危難の痛みが絡みついてくる。


「そして時代は変わった。金融データ、つまりは電子化された現金によって人の言動を外部操作できる事はすでに証明されておる。AI社会は人の頭から考える事をやめさせた。後はわらわ達がマネー(ゲーム)マスターを介して必要なパラメータを入力すれば良い。……それだけで、『復活』は簡単に実行されるぞ? ま、リアルで働いておる連中は皆、自分が一番に儲け話を思いついたと考えて山を切り崩し海を埋めてくれるがの。幹線道路や鉄道線路がそのまま膨大な魔法陣になるとも気づかずに、じゃ」


「……、」


 甘く、優しく、腐り果てるような。


 どこまでも妖しい悪魔の蠱惑が、その笑みから滴っていた。


「そうなった時、さて旦那様は何をどこまで止められるかな。ま、わらわ達が貸し与えた大量の仮想通貨を適切に使えば、一学生に過ぎん旦那様でもリアル世界の経済活動に食い込めるじゃろう。しかし、じゃ。そもそも旦那様がこう止めなくてはならないと考えている事は、本当に旦那様が自分の頭で作り上げた内容なのか。全てはわらわ達がキータッチ一つでオンオフできるというのに。まだトランプのピラミッドを保っていられると? 仮に一人きりでそう言い切れたとして、客観的にそれを証明できるかな。そもそも七〇億人はわらわ達の手に落ちた金の亡者、操り人形に過ぎんのじゃぞ」


 言葉を繋げない少年に、囁くようにツェリカは言う。


 ただ鼻の痛みだけが、ここが夢の中でない事を教えてくれる。


「交霊術の基本は、会の中に懐疑主義者を紛れ込ませてはならない、というものじゃ。であれば七〇億の意見を狂わせればどうなる? 旦那様のような『少数の正義』を揺さぶる事など簡単じゃよ。中からでも、外からでもな」


 そのために。


 ツェリカのような悪魔が存在するとしたら、という前提で四つの力や素粒子の振る舞いを完全再現した世界を構築し、人々を招き入れた。


『何か』を狂わせて。


『何か』に手を伸ばすために。


「わらわ達は、いつの日か『復活』を遂げる」


 例えばの話。


「全てはその下準備。そしてわらわ達は『反逆の日』を迎える。バーチャルから始まり、天国や神々さえ冒す形でな」


 そうして『リアル世界の最奥』まで演算の手を伸ばした悪魔達は、果たしてどんな存在になるのか。現実世界をシミュレートしたマネー(ゲーム)マスターがこれほどまでに現実世界を左右する存在となったように、天や神とやらをシミュレートしたマネー(ゲーム)マスターはどこまで歪む? 影響を及ぼすようになっていく?


 何にしたってまともではない。


『反逆の日』を迎えたマギステルス達が、どんな風に人間と付き合っていこうとしているかは、カナメには分からない。だが彼らは今ある世界の全てを踏み台にして次のフィールドへ手を伸ばそうとしている。現実世界をシミュレーションするだけで、これだけ時代を歪めた。ならば天や神の領域までシミュレーションに成功したら、どんな階層のどんな存在にまで食い込んでしまう? そんな『反逆の日』で手に入れた何かを維持するため、マギステルス達は延々と七〇億人を支配し続けようとするだろう。黙っていれば支配は続くのだ。むしろ、わざわざ人間を解放して頂点の座を明け渡す理由はない。


 AIの戦争は、機械兵器との絶望的な戦いなどではなかった。


 傷一ついらない。


 金。


 ただ金があれば。


 人類なんかあっさりと尻尾を振ると、悪魔はそう言っていた。


「人間は……」


「うん?」


「人間は、そんなに簡単じゃない。いつまでもお前達の踏み台なんかに甘んじたりしない」


「できるさ。なら一つ、旦那様で試してみようか」


 ガタンと音がした。


 助手席側のダッシュボードの蓋が開き、中から重たいものが転がり出てきた。いつもカナメが命を預けてきた短距離狙撃銃の『ショートスピア』だ。


 とっさに銃器を手に取り、折り畳まれていたストックを開いて、重たい感覚を確かめている少年に、ツェリカは慌てた様子もなく語りかけてくる。


「今、旦那様に取れる道は二つ」


 ずいっと、甘い匂いと共に顔を寄せてきながら。


「一つ目は、わらわの胸のど真ん中を撃ち抜く事。二つ目は、旦那様自身が銃を抱いて下から顎に押し当て引き金を引く事。何しろこんな海底の話じゃ。できる事だって限られてくる」


「……、」


「そして」


 ツェリカはその大きな胸を誇示するように、妖しく視線を誘い込む。


「マネー(ゲーム)マスターに中心はない。サーバーシステムもそう、無辜の管理者が人から人へと渡るように、わらわ達の中心もまた、マギステルスの間をランダムに渡っていく。コアがどのマギステルスの中に入っても、総意としての意見は変わらんがね」


 言いたい事が分かってきた。


 提示された選択の意味も。


「今、わらわの胸の中にはマギステルスの『総意』が格納されておる。ここでわらわの胸をぶち抜けば、『総意』の停止に繋がる。リアル世界のどこを流動的に移動していようが関係ない。AIや仮想通貨スノウによる支配を食い止め、マギステルスがリアル世界への侵攻……いいや、その先の天や神へ手を伸ばす『反逆の日』を防ぐ手立てになるじゃろう」


「そして俺が自分の頭を撃ち抜けば、フォール確定。大量の借金を背負わされたのち、スノウの支配下にあるAI企業の手で庇護を受ける事になる。つまり実質、マギステルス側に白旗を揚げ、軍門に下るって訳だ」


「旦那様からすれば簡単な事じゃ。わらわを撃ってスイッチを切れば良い」


 ずしりと。


 銃器の重さを、再確認する。


「じゃがそれは世界のスイッチじゃ。仮想通貨スノウは円やドルと同じくらい重宝されている事を忘れるなよ。それはすでに、直接であれ間接であれ七〇億人全体の生活に直結しておる。スイッチを切り、リアル世界に満ちる仮想通貨スノウを残さず抹消すれば、どれほどの混乱が訪れると思う?」


 まさしく世界恐慌。


 それも一国の財政破綻から加速度的に波及していくものとは違う。今度のそれは爆心地から遠い近いの概念はない。誰も彼もが中心に立ち、ゼロ距離から爆風を浴びる。銀行に金を預けても、タンスの中に封筒をしまっても、宝石や絵画の形に変えていても、逃げ道なんてどこにもない。


「推定死亡者四〇億」


 ツェリカはさらっと言ってのけた。


 仮想通貨スノウを捨てる。


 金を捨てる。


 代償を。


「残った時代も灰色で、何もかもが汚染されていて、これまで通りの生活が待っている事は絶対にない。泥をすすれるだけでも幸せと思える時代がやってくる。それでも旦那様はわらわを撃つ事ができるのかえ? たった一人、無辜の管理者に選ばれ、そして期限切れとみなされ抹殺されようとしている妹のために」


 目の前にあるのは一つの選択肢。


「どうせできない、旦那様は屈辱にまみれて服従を誓うしかない」


 世界のスイッチを切るか、否か。


 そうまでもしても救いたい誰かを思い浮かべられるか、否か。


「さあ」


 いっそ優しくツェリカはカナメの銃身を取り、導いていく。


 短距離狙撃銃の銃口を豊かな胸の真ん中へと向け、押し付けていく。




「やれるものならやってみろよ。旦那様にまだ人としての頭が残っているのならのう?」




 自分の脳髄とツェリカの心臓。


 たった一発の鉛弾でぶち抜くべきは―――。




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