第一章 大陸と海上 BGM #01 “auction & pirate”.《015》
勝敗は決した。
一〇〇〇人のPMCに銃口を向けられたパビリオン達は、不審な動き一つすれば問答無用で射殺、フォールされる。この状態では暴れるどころか息を吸うのも難しいだろう。
完全に豪華客船を占拠した『
おでことメガネのリリィキスカが、ごくりと喉を鳴らす。
「すごい、これが『
「俺も」
「ぼくも、皆さんの後で良いですから」
伝説にちょっと触れてみたいのか、メンバー同士で代わる代わる『#豪雨.err』の無骨な砲身を回していた。べたべた触ったり、写真を撮ったりしている。
一周回ってカナメの元に返ってくると、『#豪雨.err』の各部をいじくり回している彼にリリィキスカがこんな風に言ってきた。
「さて、じゃあ後は脱出方法を考えないとね。そろそろ騒ぎは外にも洩れている頃でしょうし、漁夫の利を狙って『#豪雨.err』を奪いに来る別のディーラー達とかち合うかもしれない。この後は……」
「ああ、それも大事だけど、でもその前にちょっと聞いておきたい事があるんだ」
「何よ?」
許可をもらって、カナメはこう発言した。
チリチリとした、鼻の頭を苛む得体の知れない感覚に従って。
「で、いつになったら俺を殺して『#豪雨.err』を独占するつもりなんだ?」
ガシャガシャ!! といくつもの金属音が同時に響き渡った。
片方はリボルビング式のグレネードランチャーに似た『#豪雨.err』を両手で構えるカナメ。
もう片方はリリィキスカを中心とする『
普通に考えれば、この睨み合いには意味がない。遮蔽のあまりないプールサイドで、四桁単位の銃口を突き付けられたらカナメに勝ち目はない。
だが彼が手にしているのはクリミナルAOの『遺産』。
点を撃つ銃の概念を超えた、スペースオペラの超兵器に近いバケモノショットガン。一発引き金を引けば、ガイドライトが放つ扇状の光に導かれ、二〇〇〇発の散弾が一面の敵をまとめてごっそり殺戮する。いっそチートコードを疑った方が良いのではと思うほどの極悪スペックを持つ『
カナメが二、三回も斉射すれば、プールサイドに立つ者はいなくなる。『
角刈りの大男、チタンがやけにマガジンの長い、フルオート可能なマグナム拳銃という馬鹿げた装備を両手で構えながら獰猛に吼える。
「ほら見ろリリィキスカ! さっさと始末するべきだった!!」
「黙ってチタン、私の領分よ!!」
カナメとリリィキスカは真正面から向かい合う。
「……最初から『#豪雨.err』を手に入れたら、俺の背中を撃つ気だった訳だ」
「誤解だわ」
「『遺産』を回収してマネー(ゲーム)マスターの秩序を回復するなんていうのも大嘘だった。実態は、『
「秩序は回復するでしょう! ただ、私達がいつでも自由に使える戦略兵器を持っているだけで、それを永遠に使わなければ誰も困らない!!」
カナメは、ゆっくりと首を横に振った。
告げる。
「話にならない」
「なら交渉は決裂かしら」
チリチリときな臭い感覚がカナメの鼻の頭の上で躍る。
高密度の緊張。
ちょっと何かが弾けた途端に、全てが始まる。
「ねえ、私にはさっぱり理解できないんだけど、どこで何が捻じれたか教えてもらえるかしら。どうしてわざわざ自分からフォールしたがっているの?」
「ああ。理由は色々あるけど、きっかけは簡単なものだ」
吐き捨てるようにカナメは応じた。
「人助けっていうのはな、見せびらかすようなものじゃないんだよ。あんた達の言い分は大仰だったが、だからこそ胡散臭かった。まるで世界を救う見返りを欲しがっているような、そんな口振りだったのさ」
だが。
それを待たずに次の動きが来た。
タァン!! と。
軽い銃声と共に、カナメの右腕に赤黒い穴が穿たれたのだ。
「……ッッッ!!!???」
真横からの一撃だった。凄まじい灼熱と激痛が腕の一点から全身へ伝わる。もちろん『実際に』撃たれた事のないカナメには比較のしようはないのだが、リアルな痛みという言葉が無駄に脳裏をちらつく。心拍数のせいか、手首につけたモバイルウォッチが警告音を放つ。
『#豪雨.err』が足元へ落ちる。
だが撃ったのは『
制圧された群衆に紛れた一人。
長い黒髪をツインテールにした、色白の少女。黒いフリルビキニにミニスカートを組み合わせ、手袋、ニーソックス、青い薔薇のヘッドドレスなどに白いレースの縁取りをする事でゴスロリのような空気を漂わせる最大の引っかき回し役、ジョーカー。
角刈りの大男、チタンが叫んだ。
「ミドリだ!! クリミナルAOの身内のディーラー! やっぱりパビリオンの奥に紛れてやがった!!」
そこで、カナメが信じられない行動に出た。
彼は足元に落ちた『#豪雨.err』を思い切り蹴飛ばしたのだ。単に『
プールサイドを高速で滑っていく『遺産』へ、手を伸ばそうとする細い手があった。
だが多くのPMCに囲まれていたパビリオンが、慌ててその手を引く。
食い止める。
「ダメですレディ、今は控えて!!」
一方で、紫のドレスの美女が身を案じたのはミドリと呼ばれた少女ではなかった。
見た目はテニスウェアのようなものを纏ったセミロングの少女。それでいて下半身は巨大な蛇のようにのたくっている……エキドナ種のマギステルス。
(あれがパビリオンの主人!? のめり込み過ぎて主従が逆転した廃人か! 女王様はクリミナルAOの身内と思しきミドリじゃなかった。じゃあミドリは何のために船へ……!?)
リリィキスカの思考が高速で回る間にも、状況は動く。
『#豪雨.err』がプールサイドの先へと滑り続ける。
明らかに、ミドリに向けて託すために。
当然、周囲のPMCがそんな真似を許すはずはない。エキドナ種のマギステルスは途中で止められたが、実際に『遺産』を受け取ってしまえば『
短距離狙撃銃『ショートスピア』。
片手撃ちでAI制御のPMCにヘッドショットを決め、彼は叫ぶ。
「屋内へ逃げろ!! ツェリカ!!」
小柄なミドリが両手で『#豪雨.err』を抱えて船室のドアへ駆け出すのと同時、真上の屋根からミントグリーンのクーペが勢い良く落下してきた。リリィキスカやチタンら『
運転席のツェリカは絶叫していた。
「おわーっ!! バクハツするっ、わらわの神殿の耐久度が吹っ飛ぶ!!」
「良いからミドリを追い駆けろ!!」
「~~~ッ! ただでさえっ、私有地は居心地が悪いというのに人使いの荒い事じゃのう!!」
「心配するな、この船は敵と味方、同じチーム単位で掌握しているぞ」
いちいち助手席側に回っている余裕はない。開いた窓に両腕を絡めてぶら下がる格好でカナメは側面に張り付き、ミントグリーンのクーペもまた船内へと突入していく。無理に力を掛けたせいで右腕の出血は酷くなる一方だが、ここで蜂の巣にされる訳にもいかない。
内部は広大な空間が広がっていた。カジノやショッピングモール、レストランなど船内各所へ通じるターミナルになっている他、イベントによってはダンスホールとしても使うのだろう。
「酷い有り様じゃ。旦那様よ、帰ったらすぐに修理工場に持っていけ。すぐにでもじゃ!!」
「それ以前にここから出られるよう祈ってろ」
ものの十数秒で、ピカピカのスポーツカーはスクラップ寸前になっていた。何で走っているのか逆に不安になるビジュアルだ。
さらに自分達が入ってきた両開きの扉へ、バックさせたクーペの尻を押し付ける。当面は誰にも開けられないはずだが、別の出入口から迂回されたらそれでおしまいだ。
「まったく、マシンも旦那様も穴ぼこだらけじゃな! 見せてみい、無茶しおって!!」
ツェリカは急いで車から降りると、レースクイーン衣装のミニスカートのサイド、太股の辺りから小さなヘアスプレーのようなものを取り出した。カナメの腕の銃創へぶしゃぶしゃと吹きかけているのは、速乾性の粉末式止血スプレーだ。
そしてガチリという重たい金属音が響き渡った。
大きなピアノの陰に隠れていたツインテールの少女、ミドリが『#豪雨.err』をこちらに向けていたのだ。
敵愾心剥き出しで彼女は叫ぶ。
「少しでも武器になりそうなものは全部捨てて、二人とも離れて! 兄の『#豪雨.err』は誰にも渡さない! こんなのは絶対壊さなくちゃいけないのよ!!」
「同感だ。だから話し合おう」
「黙って!!」
ミントグリーンのクーペの傍で両手を挙げて対話を求めるカナメに、ミドリはなおも吼える。
だが彼は従わなかった。
「『遺産』を壊すって具体的にどうやって? 床にバンバン叩きつけた程度で何とかなったか? 『
「……ッ!!」
すでに何度か試してみたのだろう。ツインテールの少女は唇を噛む。
「じゃ、じゃあその車でこいつを踏み潰して。従わないなら撃つから!!」
「それなら何とかなるかもしれない」
と。
言って、カナメは両手を挙げたままクーペのボンネットに腰掛けた。傷の痛みなど表に出さず、
「だが良いのか? 『#豪雨.err』は細かい狙いをつけられない。見ての通り、クーペもボロボロで耐久度はゼロに近い。こんな条件で俺を撃ったら、クーペも一緒に大爆発だな。車が動かないと『遺産』も踏んで壊せない。鏡のような新車ならガイドライトが『反射』したかもしれないけど、この蜂の巣のドラム缶状態じゃなおさらね」
「な、ななな……」
『#豪雨.err』を構えたまま、目を白黒させるミドリ。誰のせいだと思ってるのじゃ旦那様ァァァああああああ!! というツェリカの声はひとまず無視する。
「ちなみにさっきも言った通り、長くても一〇分でヤツらは来る。ここで手を打たなければ最悪のシナリオが待っている。『遺産』をヤツらに奪われ、私利私欲で多くのディーラーが挽肉にされて現実の会社がいくつも倒産していく。さあ、時間はこっちに味方しているぞ。話をするのか、しないのか」
「~~~ッッッ!!!???」
もう地団太でも踏みそうな顔になっているミドリだが、他に手はない。威力の高過ぎる武器というのも、それはそれで使い勝手が悪いのだ。何でも万能という訳にはいかない。
「それに、どうせ『#豪雨.err』じゃなくたって、君には俺を撃てないさ。厳密には、撃つ事はできてもフォールさせる事はできない」
「何よ、それ……」
「ほんとにヤバい時はな、鼻の頭がチリチリするもんだ。君からはそいつが感じられなかった。不意打ち受けておいて偉そうにするのも何だけどさ」
ふっと、カナメは緊張を緩めながら、
「フォールが人に何をもたらすかは、クリミナルAOの妹である君なら良く分かっているはずだ。だから絶対に、君にはできない。さっきもこうして腕を狙ったようにね」
わずかに、ミドリが沈黙した。
俯き、さっきよりも強く唇を噛み締めて、彼女はポツリポツリと呟く。
「……あなたに何が分かるって言うのよ」
見た目の印象とは不釣り合いな、暗く重たい響きを伴った声。
怨嗟の声。
「マネー(ゲーム)マスター? 訳の分かんないゲームで勝手にヘマやらかして、二四時間ぽっちでメチャクチャな借金こさえて! 家族のみんなを困らせて!! あいつは消えた!! リアルの世界でも居場所がなくなったのか新しい人生でも作ろうとしたのか、私達家族に借金を押し付けるだけ押し付けて失踪しちゃったのよ!!」
消えた。
失踪。
ゾッとするような言葉に込められているのは、当事者を心配する心ではなく、怨嗟の方が強かったのだ。
「そのうえっ、その上まだこっちの世界に爆弾をいくつも残しているって話じゃない! 『遺産』なんて呼ばれていて、多くの人を借金漬けにするかもしれない危険なもので、地球の裏側じゃ国だって滅ぶかもしれないって! こんな苦しみを、こんな理不尽をっ、見知らぬ人達にある日突然押し付けちゃうかもしれないって言うじゃない!!」
「……、」
「あんなバカ兄貴がばら撒いた『遺産』なんて絶対に許せない。学校でも馬鹿にされて、街を歩くだけでも恥ずかしくて、電話や呼び鈴が鳴るだけでビクビク震えて……あんな生活を、他の誰かが味わうなんて絶対にダメ。だからあいつの痕跡は全部消すの。あいつがこっちの世界に生きていた痕跡全部を消して! 秩序ってヤツを回復させるの!!」
実際に。
ミドリを取り巻くリアルな世界がどんなものかは、流石にカナメでも分からない。同じ家族に錆びた憎悪を向けるほどの何かがあったのかもしれない。
でも。
だけど。
「違うよ、それは」
「何よ……?」
「タカマサは、バカ兄貴なんて言われるようなヤツじゃなかった」
「あんなヤツのどこがッッッ!!!!!!」
思わず爆発しかけて、しかし直後に気づいたのだろう。
兄の『#豪雨.err』を構えたまま、ツインテールのミドリは怪訝な顔になった。
「あなた、どうして兄の名前を……?」
「……、」
「知っていた? 知り合いだった? あなた、こっちでクリミナルAOと一緒に戦ってきた仲間だったの!?」
「あいつにも妹がいるって事は聞いていた。よく、お互いに愚痴っていたよ。実際に会うのは初めてだけど。というか、『遺産』を何とかするために最近始めたクチなのかな」
ミドリは、質問には答えなかった。
唇を噛んで、彼女は改めて尋ねてくる。
「だったら分かるでしょ。世間じゃ伝説のディーラーだ何だってもてはやされているけど、実際の腕は大したものでもなかった。単なるカスタムマニアで武器の性能頼みだった」
「ああ、あいつは頭でっかちだったから。タカマサが作った武器を俺が使った方がスコアは良かったくらいだった」
「なのに調子に乗って、大きな勝負に出て、ものの見事に玉砕した!! フォールして借金こさえて、こっちの世界に『遺産』までばら撒いて!! ……何であんなのが家族なのよ。赤の他人だったら良かったのに、おかげで私もお父さんもお母さんもみんなどん底に突き落とされたんじゃない……!!」
それを聞いて、カナメはわずかに目を細めた。
腕を撃ち抜かれた時よりも、なお強く。何かに耐えるような顔だった。
「済まない」
「?」
「それは俺が受けるべき言葉だったんだ。タカマサのヤツは代わりに泥を被っている。あいつは俺達の英雄なんだ。だから文句は俺が聞く、全部受け止める。頼むから、妹のあんたからあいつをそんな風に言わないでほしい」
「あんなヤツが……」
ギリッ!! と、噛んだ唇から血の珠を浮かばせて。
ツインテールの少女は、胸を引き裂くようにして叫ぶ。
「あんなヤツが!! 人を苦しめる以外に何ができたって言うのよッッッ!!!!!!」
対して。
とてもとても淡い顔で、しかしカナメは即答した。
「俺の妹を、命を懸けて救ってくれた」
返ってきた言葉に。
少女は束の間、思考する事を忘れていた。
「『あの時』……本当にフォールするはずだったのは俺と妹の方だったんだ」
知っていた。
蘇芳カナメは知っていた。
クリミナルAOの素顔も、その妹のミドリが何を考え、苦しんできたのかも。彼女と実際に会うのはこれが初めてだったけど、それでも何通もの手紙をやり取りしていた。
薄い青でまとめられたレターセット。
雪だるまをあしらった封筒。
兄のやった事は許せないけど、でも本当は心のどこかで兄を信じたがっている自分がいる。
大粒の涙の染みでぐしゃぐしゃになり、ほとんど読めなくなった手紙を必死になってポストへ投函してきた事も。
それくらい、大切な人だったんだろう。
簡単に善悪好悪で切り捨てられる存在じゃなかったんだろう。
マネー(ゲーム)マスターの中に飛び込み、『遺産』を手にして吼えるように叫んでも、その胸の中では傷だらけでボロボロの魂が今も泣いている事だろう。
なのに、奪った。
原因や過程はどうあれ、カナメが彼女から奪った。
それくらい大切なものを、自分達の都合で。
だから。
(逃げるな)
蘇芳カナメは、ゆっくりと息を吸って吐いた。
どんな銃撃戦よりも、どんなカーチェイスよりも、どんな仕手戦よりも。
(罪から、逃げるな)
なお高密度の緊張と重圧に苛まれ、それでもミドリの瞳から目を逸らさずに、彼は言う。
「スイス恐慌。テレビのニュースなんかで聞いた事はないか、コテミツゴールドラッシュとかいう映画にもなっていたはずだ。一部の人間の口座に富を凝縮させるために、世界中で七〇〇〇万人に職を失わせる大仕掛けだった。そのスイッチを止めるために俺と妹で悪徳チームの隠れ家に乗り込んだんだけど、流石に無理が過ぎた」
あれは結局起こらなかった大恐慌だ、とミドリは思う。
テレビの中では来るぞ来るぞと予見していた経済学者が叩かれたりしていたが、その裏にはこんな事があったのだ。
理由もなく問題が起こるはずはないし、理由もなく問題が解決するはずもない。
暗闘。
人知れぬ戦いと、誰に褒められる事も望まなかったディーラー達。
「計画を潰したまでは良かったけど、深追いし過ぎて逃げるのに手間取った。向こうは殺気立った有力ディーラーばかり、人数も装備も段違いだ。廃墟の中に飛び込んだけど、すぐにでも追い詰められるのは目に見えてた。フォール寸前だった。妹のヤツはあっちこっちに救難のメールを飛ばしていたけど、この状況で鉄火場に首を突っ込むヤツなんているはずもない。いくら依頼料を吹っかけてもダメなんだ、割に合わない。まあ、この辺は押し倒されたら無駄と分かっていても悲鳴を上げてしまうのと同じかもしれないけど」
「……、」
「でも、あいつは来た」
当時の事を思い出す。
絶望的な閉塞感に包まれた夜の廃墟で、両開きの扉を大きく開け放った、あの男。
世界の誰にもできない事を躊躇なく実行した友の顔を。
「ありったけの武器を抱えて、カスタムマニアで撃ち合いは得意じゃないってのに無理に笑って、膝が震えているのを必死に誤魔化して。包囲を強引に突破して、駆けつけてくれた。金のためとか、調子に乗ったとかじゃないんだ。俺達を絶体絶命の状況から逃がすために、あいつは飛び込んで来てくれたんだ」
カナメにとっては、英雄と呼んで真っ先に浮かぶのがあの男だった。
決して強くはないし、スマートでもなかったけれど。
その姿は新たな原風景として、カナメの心を塗り替えていた。
「それでも全員無事とは行かなかった。最後の最後で、あいつは俺の妹を庇って敵対ディーラーに撃たれた。フォールしたんだよ、俺の妹を守って。本当は兄貴の俺がやらなきゃいけなかった事を、呆然と見送ってしまった事を、代わりにあいつが成し遂げてくれたんだ」
妹のアヤメはあの一件を気に病み、マネー(ゲーム)マスターから自らの登録を抹消し、退会した。それも一つの道だろう。
クリミナルAOことタカマサは実質的に復帰不可能だった。この世界にはレベルアップ制度はなく、武器、防具、車両など『強さ』に関わる項目は全て現金で売買できる。逆に言えば、いったん莫大な借金を作ると逆転は難しい。これは、今あるアバターを捨てて新しいものに作り直しても同じだ。ようは、トップクラスのディーラーは周りから恨みも買っているため、弱い状態に落ちるときちんと装備を揃えて立て直す前に袋叩きされてフォールを繰り返す。俗に言うデッドと呼ばれる状態で、身動きが取れなくなるのだ。
そして一人残ったカナメは、クリミナルAOの『遺産』を何とかすると決めた。
同じように『遺産』を求めて死地へ飛び込んでくるであろう、恩人の妹をフォールさせないために。
恐る恐る。
震える唇を動かして、ミドリはこう尋ねてきた。
「兄は、唾を吐きかけられるような人じゃなかった……?」
「ああ」
「世界を守る側について、友達を助けて、立派に胸を張れる事をして、その結果としてフォールしたっていうの?」
「ああ」
正直に言わなくてはならない事がある。
カナメは己の罪を抉り出しながら、必死になって言葉を紡ぐ。
「今のあんた達のどん底の生活は、元を正せば俺達兄妹が作り出してしまったものだ。だから御大層な事なんか言えた立場じゃないし、恨んでもらっても構わない。それが筋だと思う」
これだけは。
絶対に。
「だけどタカマサは、あんたの兄貴は、誰にもできない事をやった英雄だった。救われたんだよ、俺達は。人生を救ってもらった。尊厳を救ってもらった。家族を……たった一人の妹を救ってもらった。それだけは覚えておいてほしい。唾を吐きかけられるべき相手は、タカマサなんかじゃない。妹を守る事もできずにその瞬間を見送って、弱いくせに生き残った、俺なんだ」
そこが限界だった。
がしゃん、とミドリの手から『#豪雨.err』が落ちた。
どれだけ唇を噛んでも、涙腺が緩むのを止められない。ボロボロと大粒の涙がこぼれるのに任せて、ついには子供のように口を大きく開けて大泣きする。逆に、今まで無理して自分の家族に敵愾心を向け続けてきた、その反動であるかのように。
「兄はそんなの一言も言わなかった……」
「だろうな」
「どれだけ私達が怒鳴り散らしても、辛く当たっても、一回だって反論してこなかった!! ただ黙って消えちゃった!!」
「それができるから、あいつは俺達の英雄なんだ」
本当は。
反論して欲しかったのかもしれない。常に背中を追い続けた自分の兄が、家族みんなに迷惑をかける存在になってしまったとして。『それだけ』で終わる人間でないと言ってほしかったのかもしれない。
クリミナルAO、タカマサがどうして家族の前から消えたのかは、誰にも分からない。あるいは彼も完璧な人間ではなく、自分で招いた境遇や罵声から逃げてしまったのか。そんな可能性もあるかもしれないが、しかし、根拠もなくカナメは否定的に見ている。
訳を話せば、どうしてもカナメやアヤメの事が出てしまう。借金漬けの元凶。それを知れば、タカマサの家族はカナメ達に憎悪の目を向ける。
だから、それを嫌った。
最後の最後までカナメ達を庇って、彼は消えた。フォールして、ゲームから締め出されても、彼はリアル世界でさえ英雄を貫いた。でも、もしもそこで踏み止まっていたら。カナメ達の事なんかどうでも良い。家族や妹からの声に、反射的にでも応戦していたら。
この小柄な少女が兄を見る目は変わっていたかもしれない。いいや違う。むしろ、フォール前から変わらずに、仲の良い兄妹のままでいられたかもしれない。
ある意味で、それはカナメの口から果たされた。
だが、まだだ。こんな程度では終わらせない。
これは貸しと借りの話ではない。恩と仇の話。そこには一切の妥協はない。助けてもらったものの重みを理解し、この身の全てでもって報いてみせる。
「……だから、今度は俺の番だ」
泣きじゃくる少女に向けて、カナメはゆっくりと歩いていった。
真っ直ぐに、己の罪の象徴と向かい合う形で。
「あいつが俺の家族を守ってくれたのと同じように、今度は俺があいつの家族を守る」
「うう」
「何があっても、命を懸けて、絶対に」
「うううっっっ!!」
細い肩に両手を置いて、下から覗き込むように、カナメは宣言する。
ぐしぐしと鼻を鳴らして、ミドリは注文を飛ばしてくる。
「兄の『遺産』を取り戻すために、協力してくれる?」
「ああ」
「兄の遺したもので人生を棒に振る人なんて一人も作りたくないの。そのために手を貸してくれる?」
「ああ、お安い御用だ」
元より命を懸ける覚悟はできている。
真なる英雄に、家族の人生を救ってもらったその時から。
「そのためには、『
「……、」
いつまでも、いつまでも、少女は両手で目元を擦り続けていた。すっかり真っ赤になっているが、それでも涙は止まらない。喉の嗚咽も残ったままで、息も整わない。やがて彼女は、奇麗に収める事を諦めたのだろう。泣き顔のまま、しゃっくりのような嗚咽を繰り返し、
「うっ……ひっく、わら……わらひを……」
ボロボロのままに。
こう唇を動かした。
「私の身を守りなひゃい! あにゃたが命を懸けて!!」
ようやっと。
全ての歯車が、かっちりと噛み合った瞬間だった。
(ああ)
ようやっと。
あの男と同じスタートラインに立てた。それが分かる。
(……俺はさ。こんな俺はさ)
ようやっと。
蘇芳カナメは、本当に久しぶりに。固く凍っていた顔が溶けていくような、そんな気がした。
(人生を取り戻すチャンスなんかもらってしまっても良かったのかな、タカマサ)
ヂリッ!! と、野山を焼き尽くすたった一つの吸い殻のような、危険な感覚が鼻の頭を撫でていく。
おそらくもう囲まれている。放っておけば『
こちらは得られるものなど何もない。
ミドリを助けても莫大な金が入ってくる訳じゃないし、『遺産』についても、どれだけかき集めたところで全部破壊するのが前提。しかもそのために多くのディーラーを敵に回し、振り切るために大量の私財を投じて、自分の命や人生まで危険にさらす必要に迫られる。
でも、だからこそ。
カナメは迷わなかった。一切の利益がない。そこにこそ、答えがあるような気がした。
何故ならば。
本当の人助けとは、いちいち見せびらかすようなものではないからだ。
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