第5話 告白と約束
ひさしぶりの雨が降った。
今月最初の雨は、閉められた病室の窓に当たって音を立て、雨音が僕の耳を振動させて抜けていく。
そんなジメッとした雨の日でも、相変わらず特等席に座るサキちゃんがいる。しかし、今日は何故か一言も喋らない。
雨音に交じって、カチャカチャと何かをいじる音が聞えるので、何かをしているのは分かったが僕はあえて訊ねた。
「何をしているんだい。サキちゃん?」
「アツシから貰ったやつの色を揃えてるの」
真剣な調子でサキちゃんはそう呟く。
サキちゃんが僕から貰ったというのは四角いルービックキューブのことだ。
この前、見舞いに来た刀夜が見舞いとして置いていったルービックキューブを持て余していたので、本を読み聞かせた時に興味を示したサキちゃんに譲渡したのだ。
以来彼女はここに来ては、自分の手の中にある四角いルービックキューブをいじりまわすことに夢中になっている。
「ちなみにどこまで行けたの?」
「えっとねー、三色揃えることは出来たけど、それ以上は出来てないよー」
「もう、三色もそろえたの!?」
平然と言ったサキちゃんに僕は少し驚きの声を上げる。
ルービックキューブの面一色を揃えるのは意外と簡単らしいと聞いていたが、サキちゃんにキューブを渡したのは昨日だ。
つまりに一日で約半分を揃えたことになる。
「えっと……サキちゃんって、いくつなの?」
「小学二年生だよ」
「ホントに?」
「ここで嘘ついても仕方ないよー」
無邪気にそう返したサキちゃんに僕は驚きを隠せない。
小学校の低学年の子がよくやる遊びが何なのか分からないが、少なくともルービックではないだろう。そういう他の同年代とは別のことに興味を持つ点では、サキちゃんは異質なのだと思う。
直接本人から聞いたわけではないが、毎日と言っていいほど僕の病室を訪れるサキちゃんは、この病院に入院しているはずだ。
通院などならまだしも、小学生で入院というのはちょっと特殊である。
病気を治療する機関であり、それを最優先にしているので病院は外をノ比べると娯楽の多さが明らかに少ない。
僕自身も気晴らしに外に出る以外は、本を読むか小説を書くかテレビを見るに大体決まっていた。そんな場所にいるから同年代が使わないような物で遊ぶようになるのであろう。
そんなことを僕が考えている間も、サキちゃんは余程真剣に格闘しているのか、一言も喋らない。
代わりに僕は独り言でも呟くように口を開いた。
「サキちゃん。僕はね、手術を受けるんだ」
カチャカチャとルービックキューブをいじる音が止まる。雨が窓を叩く音だけが部屋に響く。
「何の手術をするの?」
しばらくしてサキちゃんが聞いてくる。
「眼の、手術をね……。今の眼の代わりに、新しく機械の眼を入れて見えるようにするんだ」
ここにいるワケを話すのは今日が初めてなのを思い出して、 僕は瞼に触れながら答えた。
義眼の移植――これこそが僕がここにいる理由だった。
なんでも人工の見える義眼を入れて、それを僕の生身の視神経とつなぎ合わせて、失われた視力を取り戻すそうだ。
口では簡単に言っているが、数年前まではSF小説のような突拍子もない話で、実際問題として手術そのものは高度な技術が求められる。
しかもまだ前例のない手術で、実際に行われるのは僕が初めてらしい。
それは、よく言えば最先端技術を使った素晴らしい手術の被験者第一号という名誉が与えられる手術だが、悪く言えばただのモルモットだ。
だけども僕はこの手術を受け入れた。
自分にもメリットのある手術だし、手術などにかかるお金は全て偉い人が持ってくれて、僕や親が一銭も払う必要のない手術なのだ。
僕が出来るだけわかりやすくそのことを言うと、サキちゃんは再び黙ってしまう。
ルービックキューブを回す音は聞こえなかった。
「…………いつなの? その手術」
「明日。なんかサキちゃんには言っとかなきゃと思っていたんだけど、なかなか切り出せなかったんだ」
僕はその言葉を明るく言ったつもりだったのだが、口から出た僕の声はまるで隠し事がバレて親から問い詰められる子供のような後ろめたさに満ちていた。
サキちゃんは「……そうなんだ」と言うと、またルービックキューブをいじる音が聞え始める。
さっきよりもずっと重い沈黙が僕の体にのしかかり、僕はこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
いつもなら断言できるほどに感じられるサキちゃんの感情が、何故か、今回ばかりは全く読むことは出来ない。
「アツシは……、目が見えないこと不幸だと思う?」
僕の頭はサキちゃんの声を聞いても、しばらくは思考する段階までにはシフトしなかった。
だんだんと頭が回ってきた僕は咄嗟に「なぜそんなことを?」と聞きたくなるが、質問への質問は彼女が求めているものとは違うと理解して、首を横に振る。
「いいや、不幸だとは思っていないよ。確かに人間の得る情報の八割は視覚から得ている。それに当てはめれば僕は、外からの情報の八割を喪失していることになるけど、僕は目が見えないことが不自由だとは思っていないよ」
嘘だ。僕は瞬間的に自覚した。自分が嘘を言っていることに。
目が見えなくなって、不自由なことはたくさんあった。そのたびになんで自分なんだと問いかけたりもした。
だいいち、目が見えないことを苦に思っていない人間が実験台として機械の目を入れたがることそのものが矛盾している。
案の定とでもいうべきか、サキちゃんから予想していた質問が繰り出された。
「じゃあ、どうして機械の目を入れちゃうの?」
僕は予想していた質問に、用意していた本心である答えをぶつける。
「あえて言うなら、もう一度世界を見てみたいからかな」
「世界を……、見る?」
サキちゃんが聞き返す。恐らく首も一緒に傾げていることが分かる程、きょとんとした声だった。
「前にも言ったけど、僕は昔の頃は見えていたんだ。だから僕は世界を肌で感じたことはあるけど、海が青いとか、森は緑だとか雲は白いだとか、そういうのは見えていたころのおぼろげな記憶の中にしかない。分かるかい?」
サキちゃんは「うん」と短く答えたので僕は続ける。
「僕はそれをもう一度見たいと思った。人間の一生なんてちっぽけで、その中で世界の全てを知ることは出来ない。だから僕は知りたい。他の人と同じように知って、そして他の人にも知ってほしい。この世界は驚きや発見、素晴らしさに満ちているという事を。だから僕は目を入れるんだ。この世界のいい所に自分で気付くために」
そう締め括った僕の言葉をサキちゃんは噛み砕くようにして黙っていた。
また難しい話をしてしまっただろうかと思ったが、ベッドに放り出していた両手に暖かいサキちゃんの小さめの手が重なる。
サキちゃんは僕の両手に重ねた指を遊ばせながら呟く。
「アツシは難しいことを考えているんだねー」
そう呟いたサキちゃんの声にはどこか、それまでの無邪気な子供っぽさではなく、大人びた落ち着いた響きが宿っているような気がした。
「そうかな」
「そうだよー」
サキちゃんはそう言って、僕の胸に頭を預ける。
また無言の間があったが、その間はさっきまでの居心地の悪さではなく、一種の心地よさのようなものを感じていた。
「アツシは目で見たことがないんだよね、この世界を。じゃあ一緒に見てほしいものがあるの」
「一体、何を見てほしいんだい?」
普段の子供っぽさの戻りつつあるサキちゃんの言葉に問い返すと、サキちゃんは僕の胸から頭を放し、ベッドの上に膝立ちで立ち上がる。
そして声を大きく弾ませながら、興奮したように言った。
「桜! 綺麗な桜を見てほしいの! こう、一杯のピンク色に染まるの!」
ひとしきりジェスチャーも交えながら、説明したサキちゃんに僕は少し呆気に取られつつ反応する。
「そうか、桜か。そういえば久しく見てないな」
僕は家族と一緒に花見をしたことはあるが、その時の桜の色はもう遥か遠い記憶のなかだ。
今の時期なら桜も綺麗だろうし、目が見えるようになれば満開の桜を見ることが出来るだろう。
「なら私の部屋に来るの!」
「サキちゃんの病室に?」
唐突なサキちゃんの提案に僕は驚くと、サキちゃんは嬉しそうに答える。
「サキの部屋はね、窓の外には一杯、一杯、いーぱいの桜が咲いてるの! だからアツシの目が見えるようになったらサキの部屋に招待するの!」
そう言って少しばかり落ち着くとサキちゃんはベッドの上に座る。
だが、その声はまだ興奮しているように熱っぽかった。僕はそんなサキちゃんを微笑ましい感じで見ていたのだろうが、ある事を思い出す。
「あー、それは嬉しいんだけど……、今日の雨で桜散っちゃうんじゃないのかい?」
「あ…………」
サキちゃんが忘れてたと言わんばかりの声を漏らしたと同時に、自分の存在を忘れるなとばかりに雨が一層激しさを増す。
「だ、大丈夫なの! アツシの眼が見えるようになるまでは絶対に桜は散らせないもん!」
サキちゃんはそう言ったが、明らかに声がうわずって動揺している。
そんな目の前のサキちゃんのあたふたした光景を浮かべると面白くて、僕は吹き出して小さく笑った。サキちゃんが「アツシ、笑うな!」と言って体を小突いてこなければ、しばらく笑っていられただろう。
「それじゃ、お言葉に甘えてこの目が見えるようになったら、サキちゃんの部屋にお呼ばれするよ」
「うん、約束なの! サキの部屋は……」
病室の番号を言おうとしたサキちゃんが言い淀む。しばらくすると、マットレスが軋み、地面からペタペタと言う音が聞こえてくる。どうやらベッドから降りて床を歩いているらしい。
「どうしたんだ?」
部屋のどこにいるか分からなくなってしまったサキちゃんに向けてそう聞くと、突如、右手を叩くように何かを手渡される。反射的にビクッとなったが、肌触りからただの紙だということが分かった。
どうやらメモサイズの小さな紙らしく、感触からして自分が持って来ていたメモ用紙であることは判断できる。
「これは?」
僕は部屋に居るはずのサキちゃんに訊ねる。
「サキのお部屋の番号。いま喋っちゃったら面白くないから、この紙に書いたの。だから目が見えるようになったら見てほしいの。あと、この四角いやつの色も全部揃えるの!」
「なるほど、目が見えるようになるまでのお楽しみってわけか。分かった。目が見えるようになったら絶対にこの紙に書かれたサキちゃんの部屋に行くから。その時に、ちゃんと桜を見せてくれ。約束な」
そう言って、僕は約束事の時の定番である指切りをしようと、自分の前に小指を差し出す。
「うん! 絶対の約束なの!」
こうして彼女が僕の小指に自分の指を合わせて指切りをして別れた次の日、僕に眼を埋め込む手術が行われた。
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