第4話 曇り空と読み聞かせ

 次の日。

 別段やることもなかった僕は、見えない眼で昨日から空を覆っているであろう雲を瞼に投影していた。

 すると、いつもの如くサキちゃんが僕の病室に入ってくる。


「ねー、アツシィー。昨日この部屋出ていった人、綺麗だったね」


 部屋に入ってきて定位置である僕の胸に背を預けたサキちゃんの開口一番の発言に、僕は首を傾げた。


「綺麗な人?」

「髪が長くて、茶色のバック持ってたよ」


 僕は頭の中の記憶の糸を辿って、昨日の記憶から思い当たる人物を探り当てる。と言っても、昨日、私服で僕の病室に来た女性なんて見舞いに来た刀子一人しか思い当たる人物はいなかった。


「あぁ、それは僕の友達だよ。と・も・だ・ち」

「アツシの友達?」

「そ、友達。まあ、見えないし、見てないから断言はできないけどね」


 ケロッとした調子で僕は見えない自分の眼を叩きながら明るくそう返す。

 だが、サキちゃんが妙に黙りこくったので、僕は再び首を傾げて声を掛ける。


「……サキちゃん?」

「アツシってさー……」

「うん?」

「友達いたのねー」

「…………え?」


 一瞬、サキちゃんが何を言ったのかが理解できなかったが、徐々に彼女の放った言葉の毒が心に染み込んで来たので、僕は空元気な声を出した。


「や、やだなー、サキちゃん。僕にだって友達の一人や、二人くらいいるよ……」


 最後は少し自信なさげに小さくなった僕の声に、サキちゃんはいつも通り僕を背もたれにできる特等席で何も言わなかった。

 それが無言で慰められているような気がして、僕の心が僅かばかりへこむ。

 もしかして、バカにされているのだろうか。小学生に。


「何しに来てたの?」


 気を取り直したようにサキちゃんにいつもの調子で聞かれ、僕は衝撃発言のショックから我に返って、ベッドに備え付けられた机の上に手を這わせる。

 閉じたノートパソコンの隣に少し分厚いザラザラとした質感の本を手に取り、サキちゃんに見せた。


「あのお姉ちゃんたちはこの本を届けに来てくれたんだ」

「ご本、持ってきてたの?」

「そうなんだ。僕は目が見えないから文字が読めないでしょ。だから本のあらすじを耳で聞かせてもらって、読みたい本を点字の物にしてもらっているんだ」


 そう言って本を適当に開ける。

 目には見えないが、きっとサキちゃんの視点からだと、そのページは何も書かれておらず、ただ凹凸おうとつのついた紙があるだけだろう。


「アツシ、文字が一つもないよ」


 案の定、サキちゃんは体を浮かせて不思議そうな声を上げる。僕は開けたページを指で撫で、指先に紙の凹凸を感じながら軽く微笑んだ。


「点字っていうのはね、指で触って読むものなんだ。」


 ある程度、指を紙に這わせて感触を確かめる。

 サキちゃんは文字の書かれていない凹凸の紙に興味津々のようで、上機嫌に頭を左右に振っているのが肌から伝わってくる。


「触ってごらん」


 僕は紙を撫でていた手を退けた。

 そう言われて戸惑ったのか、しばらく開けた窓から町の中を走る車の音などが遠くから届いていたが、やがてその中に紙をめくる音が混じってくる。


「デコボコしてて面白いねー」


 サキちゃんは紙を撫でたり捲ったりして、点字の本が持つ独自の感触を楽しんでいるようであった。


「このデコボコの集まりがそれぞれサキちゃんの見る文字を表しているんだよ」

「そうなの?」

「信じられない?」

「うん」

「まぁ、普通の人は点字なんて読めないから、サキちゃんが読めないのは当たり前だよ」


 そういう僕も失明したての頃。その存在は知っていたが、点字なんてまったく読めなかった。小学校や中学校では辛うじて先生の一人か二人が多少読めるだけで、点字をまともに読める人間なんていやしなかった。


 というより、読めなくてもいいのだ。

 健常者には紙に印刷された文字を見るという能力があり、わざわざ点字の本を読めるようになる必要そのものがないのだから。


「アツシは読めるの?」


 というサキちゃんの純粋な質問をされていることに気付くのにタイムラグが生じたが、僕は「あ、あぁ、もちろん読めるよ」と笑った。


 人間は結局必要性に駆られなければ技術なんてろくすっぽ覚えないが、逆に必要性に駆られた途端に必死になって覚えて、あっという間に習得できてしまう生き物なのだろう。

 かく言う僕も、点字を必死になって勉強して習得してしまったのだ。


「僕は健常者他の人とは違うから、こうしないと他の人たちの物語を読むことが出来ないんだ」

「じゃあ、この本、サキに読み聞かせてほしいの!」


 そう言うと、サキちゃんは声を弾ませながら楽しそうに言って、ベッドの上で体を揺らしながらせがんでくる。心なしか、その声は先程までよりも大きくて力強く感じる。


「え? いいけど……でも、サキちゃんにこの本の内容は分かるかな」


 僕は頼んだ本のタイトルとその内容を頭の中から呼び起こす。


 確かこの本は、面白いと定評はあるらしいが、内容が数回読まないと完全に理解できないというので定評があった。

 その前にこの本はSF小説なので、小学生(だと思う)サキちゃんが読める代物ではないと思ったのだが、サキちゃんは「分かるもん!」の一言で一蹴してしまう。

 子供らしい溌剌な声を聴くと、自分の考えていたことはつまらないことのように感じられて、特等席にちょこんと座って待っているサキちゃんの前で本の最初のページを開き、絵本を読むように僕は静かに読み上げた。

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