茜、とある人物に教えを請う

 練習場へ戻り、銀杏と、組み手に明け暮れる。

 

 間接から逃げようとすれば、別の箇所を狙う。

 うかつに逃亡すれば、今度はフォールを取ってくる。

 打撃を打ち込んだら、紙一重ですり抜けて方を極められた。たまらずタップする。

 

 銀杏の攻撃の引き出しは地味だが、効果的だ。

 自分の打撃と組み合わせると、非常に相手を翻弄できるだろう。

 

 ピサロは傷が治るまで、金剛院の元で別メニューだ。

 主にウエイトトレーニング中心に鍛えている。

 

「ありがとうございます。いい練習になります」

 銀杏にタオルを渡す。

「すみません、無理を言って。お疲れでしょうに」


「このくらい、どうってことないですわ。あなた方のような後輩のトレーニングを勤める、それが、わたくしがノーフューチャーを首にならない理由ですもの」


 確かに、彼女のような万能タイプの正統派ファイターは、今後トレーナーとして最適だ。

 しかも彼女は、スタミナ量が尋常でない。身体が大きいのもあるが、訓練の賜だろう。

 

 だが、大河ましろのラッシュはそれを打ち崩した。

 小物だと思っていたが、認識を改めなければ。


「銀杏先輩はいいのですか? それって、噛ませ犬って事ですよね?」


「社長は元々、わたくしをこうやって使うつもりでした。わたくしは、社長の意向に従うまで」


「けど!」

「わたくしは、ただの門番ですわ。今後のノーフューチャーを背負って立つのは、かのんです」

 金剛院は照れているが、実際そうだろう。


 レスラーや格闘家をまとめる内部のリーダーが銀杏、客やスポンサーを相手にする、外側のリーダー的な仕事を金剛院が担当する、という図式になっていくだろう。

 

「憎んでばかりでは、何も見えてきませんわ。もっと大局的に物事を見て、相手を見極めませんと。一本調子の見方をしていては足下を掬われますわよ」

 

 銀杏の言葉が茜の胸に突き刺さる。

 今度の対戦相手、蒼月龍子は並大抵の敵ではない。

 

 もっと、強い指導者が必要だ。


        ◇ * ◇ * ◇ * ◇


 小学三年のときだ。長谷川茜は一度だけ、ジゼル南武に稽古を付けてもらったことがある。

 

 ジゼル南武は、茜が食らわせる打撃を好きなだけ打たせた。何度も何度も。

 

 そのときは好きなだけ相手に蹴りを入れられて、嬉しかった。

 大人相手に、本気の蹴りを食らわせる。

 子供相手だと手加減させられていた分、思う存分人を殴れることは、いい発散となった。

 

 だが、反撃は一度きり。単純な投げ。それだけで、茜は失神してしまう。

 

 悔しくて、彼女はさらなる修行を父に頼んだ。いつかジゼルに、母に土を付けるため。

 

 茜が一二歳の時、大好きだった父が病で死んだ。

 武道しか教えてくれなかった父親だったけれど、茜はそういう不器用さこそ好んだのである。

 

 だが、自分を捨てたあの女は、TVの前で派手に敗北していた。自分より二回りも小さい相手に。

 父の死を悼もうとせず。終始、強敵との狂宴を楽しみながら。

 

 あんなに楽しそうな母を、茜は初めて見た。


        ◇ * ◇ * ◇ * ◇


 それ以来、茜の中に本格的な母への憎悪が膨らんでいく。その憎悪をぶつけるために、茜はトーナメント出場に臨んだ。

 

 しかし、驚異的な相手が、自分の前に立ち塞がったのである。


 大河ましろ。

 

 最初は、通過点にすぎない存在だと考えていた。単なる路傍の石ころであると。

 いつものようにマットに沈めればそれで終わるはずだと。

 

 しかし、彼女はノーフューチャー最強の一角を、偉大な先輩である藤代銀杏を沈めた。

 

 大河ましろは、もう通過点ではない。茜にとって最大のライバルとなった。

 

 そのためには、嫌な相手にも頭を下げる。


 茜がコーチを頼もうとしている相手は、たった一人でバーバル運動をこなしていた。二〇〇キロを持ち上げてのブリッジなど、人間業ではない。

 

「私に、技を教えてよ。母さん」


 母、ジゼルはトレーニング中の手を止めた。

 

「私は、あなたと戦う権利を得るため、あなたの茶番に乗った。けれど、今のトーナメントは明らかにレベルが低い。これでは戦い続ける意味がないわ」

 

 ジゼル南武を倒せないようで、何がチャンプか?

 生温い試合なんぞ見せて、何が格闘家と呼べる?

 

 プロを名乗るならば、もっと質の高いプレイを見せるべきではないのか。

 

「ジゼル南武クラスの試合をして、ようやく客も納得する。それがプロレスってもんでしょ?」

 

 キュンキュンピサロと、ましろのような存在が、茜のプロレスに対する意気込みを変えた。

 

「嫌よん。習い事をやりに来たんなら、よそを当たりなさい」

 返ってきたのは、不敵な笑み。

 獲物を誘う眼差しが、茜を突き刺す。

 

「人がこんなに頼んでるのにっ!」

「頼み方が違うって言ってるのよん。あんた、ジゼル南部になりたいの? それとも……ジゼル南部を越えたいの?」

 

 一瞬にして張り詰めた空気にあてられ、息苦しくなる。

 拒絶しきってない返答が、茜の目を覚まさせた。

 

 ジゼルは遠回しに言っているのだ。

「始めから殺しに来い」と。

 

 大河ましろを倒すには、ジゼルに手取り足取りレクチャーしてもらうだけでは足りない。

 ジゼルを食らい、血肉にするつもりでかからなければ。

 

 母は探していたのだ。

 肩を並べる相手ではなく、自分を殺せる相手を。

 

 ジゼルの思惑を感じ取って身震いする。

「……仕切り直しよ。ジゼル南武。あのときの借りを返す」

 

「小学生のときの?」

「そうよ。いつまでもオシメの取れてない子供じゃないわ」

「いいわん。かかってらっしゃい」と、ジゼルは両手を広げた。無駄なようでいて、少しの油断も見せていない。わざと不用心を装い、誘っている。

 

「ゾクゾクさせて頂戴。覇我音」

 ジゼル南武の瞳から、血生臭い波動が溢れ出す。

 娘の成長を見守る優しさなどない。

 自分を殺してくれる相手かどうか、見定めている目だ。

 

「試合を見せてもらったけど、いい攻撃力になったわ、茜ちゃん。でも、海外で何の勉強をしてたのかなぁ? 直線的な性格、何も変わってないじゃん」

 

「まっすぐでいい。それが、最短距離だから」

「だから、そこがつけ込まれるんだってば」

 

 茜とジゼルの距離がゼロになる。

 不意に、身体が軽くなった。誰かが、ジゼルにタックルを食らわせたのだ。


 横転した茜は、襲撃者の正体を見て驚く。

「キュンキュンピサロ、あんた!?」

 

 カットに入って来たのは、ピサロだった。

 

「あれ、ピサロちゃん。何のつもり?」

 ジゼルがカラカラと笑う。低空タックルを真正面から受け止めた状態にも関わらず。

 

「ミーも、トレーニングして欲しい」

「ふーん。どういう風の吹き回しかしらん?」

 

 ピサロは、言い辛そうに口を開く。

「ミーも、マシロ、怖い。マシロ、イチョウ倒した。あの強さ、本物……」

 剛胆そうに見えて、臆病な発言が、ピサロの口から漏れ出す。


 ジゼル南武しか見ていなかったが、この三人に、段々興味が湧いてきた。

 

「じゃあさ、二人まとめて掛かってらっしゃい」

 ジゼルはピサロを持ち上げる。

 そのまま首を肩にひっかけて、旋回した。

 

 ピサロの顔面が、マットに突き刺さる。

 

 一〇〇キロ近いピサロを片手で持ち上げ、旋回式フェイスクラッシャーを決めるとは。どんな握力なのか。

 

「それで優勝を目指すのん? 笑わせないでよん。四〇近いオバサン相手に苦戦してちゃあさ、どの大会でも負けるわよん」

 呆れた様子で、ジゼルは舌を出す。

 

「このお!」

 憎き母親のの首をへし折らんと、ハイキックを放つ。

 だが、標的であるジゼルがずっと遠くに見えた。


 汗まみれで、茜とピサロはマットに寝転ぶ。

 時計を見ると、一〇分も経っていない。一時間以上戦ったと思っていたのに。

 

 どれだけ技を浴びせられただろう。

 まったく歯が立たなかったわけじゃない。

 しかし、ジゼル南部はこんなものではない気がする。

 

「またいらっしゃい。もっとも、もう相手したくないけど」

 そう言い残し、ジゼルはガウンを掴む。二人を相手にしていたというのに、息一つ切らせない。マントのようにガウンを羽織って、訓練場を後にする。

 

 マットに横たわった状態で、ジゼルの靴音を聞く。悔しさが、荒い息と共に吐き出された。拳でマットを叩く。

 

 同じく、ピサロ起き上がれないでいる。

 

 これが、今の茜とジゼル南武との差。

 だが、この差を埋める。できる限り。短時間で。

 

 明日もジゼル打倒を誓う。ましろと闘うまで続ける。

 

 茜の目標がジゼルの打倒から、ましろの打倒へと変わっていた。

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