BRAT&FART

長谷川

1.

 これは今から10年ほど前の話だ。

 アメリカはニューヨーク、マンハッタン。

 アメリカンドリームの聖地とも言うべき劇場街、ブロードウェイを西へ折れたところに、かつてボヘミアンの溜まり場だったブリーカー・ストリートという通りがある。

 その通りを更に横道へ逸れた先にある場末の映画館、『Cinema Anthony』。

 当時華の17歳ティーンエイジャーだった俺は、学生の本業である勉強など景気よく放り出してよくその映画館に通っていた。

 シアターは3つだけ。しかも1シアター40席というケチな映画館だ。

 建物は古くオンボロで、エントランスを飾っていた赤い看板は塗装が剥げていつ見てもみすぼらしかった。

 館内も狭く、カウンターにはいつも無愛想なばあさんが1人だけ。売店なんてもちろんない。

 今にして思うと、あれだけ数多くの映画館がひしめき合っているあの界隈で、あんなふざけた映画館が潰れずに残っていたことが不思議だ。いつ訪ねてもシアターはほとんど貸切状態だったから、あるいはあの映画館がどこぞのファミリーの取引場所になっていて、あのばあさんはその上前をねていたのでは、なんて想像に走ってしまう。

 まったく馬鹿げた空想だ。

 しかし当時の俺はそんな馬鹿げた空想に耽るのが大好きだった。

 いや、ヤクがないと生きていけない薬物中毒者ジャンキーみたいにハマり込んでいた、と言ってもいい。

 『Cinema Anthony』で上映されていた映画はどれも、大通りの大劇場なんかじゃ絶対に上映されないであろうB級映画ばかりだった。あとはごく稀に――こんな言い方をすると意識高いワイン野郎Frenchmanや皮肉屋なイギリス人Limeyは憤慨するだろうが――辛気臭くてつまらないフランス映画やイギリス映画なんかも上映していたような気がする。

 けれど俺は、隣の席に座っているのがたとえ幽霊だったとしても不思議じゃない、そんなオンボロ映画館で観るB級映画が大好きだった。

 それもただのB級映画じゃない。俺が『Cinema Anthony』へ足を運ぶときはいつだってマフィアやギャング、殺し屋と言った裏社会に生きる男たちが主人公の映画が目当てだった。いわゆるサスペンスとかハードボイルドとか呼ばれるジャンルの映画だ。

 ああいうジャンルの映画と『Cinema Anthony』が持つ頽廃的な空気の親和性は異様だった。あのあちこちひび割れたコンクリートの箱の中で観るデカダンス映画はいつだって雰囲気満点だった。

 あの独特の空気感は、ニューヨーク広しと言えどきっと『Cinema Anthony』でしか味わえなかったことだろう。

 つまるところ『Cinema Anthony』は俺にとっての隠れ家であり、秘密基地であり、アジトだった。あそこへ行けばいつだって手軽に〝俺だけがこの穴場を知っている〟という優越感に浸ることができたし、何だかとても背徳的なことをしている気分になれた。

 馬鹿げてると思われるかもしれないが、〝17歳〟と言えば誰しも思い当たるところがあるだろう。

 そう、つまり当時の俺はにひたすら憧れる年頃だった。

 あの胸を焦がすほどの憧憬は一体どこからやってきたのか、今思い返してみてもよく分からない。

 ただ決められた社会の枠組みだとか、自分に課せられた役割だとか、延々と繰り返されるだけの刺激のない毎日だとか、とにかくそういうものに支配されている息苦しさから逃げ出したかった……のかもしれない。

 そんな思いが向かった先がマフィアとか殺し屋とかいう人種がうごめく、いわゆる〝アンダーグラウンド〟と呼ばれる世界だ。

 映画の中の彼らはいつだって過激な立ち振る舞いで俺を魅了し、何ものにもとらわれずに生きることの素晴らしさを教えてくれた。ときには絶対的正義の象徴である警察FBI当局CIAとの死闘を繰り広げ、そんなくだらない偶像はぶち壊せと俺を煽り立てた。

 果たしてその影響なのかどうか。

 いつしかティーンエイジャーの俺は一流の殺し屋になることを夢見るようになっていた。

 この息苦しいばかりの世界を、己の手でぶち壊す力がほしかったのだ。

 どんな巨悪も、あるいはどんな正義も指先1つでほふれるほどの殺し屋になれば、きっとそんな力が手に入ると思った。俺はその空想を熱狂的に信奉した。

 あれは、そう。そんな17歳の秋のことだ。

 貴重な秋休み初日。俺はまるで生まれる前からそうするよう神に命じられていたかのごとく、早朝から『Cinema Anthony』へ足を向けた。

 イカした落書きまみれの地下鉄に乗り、ブリーカー・ストリート駅へ。今日は昼を挟んで観たい映画が2つある。1つは2人の殺し屋が殺人事件を目撃した少年を誘拐する話。もう1つはマフィアたちのドロドロした駆け引きや抗争を描く暴力バイオレンス映画だ。

 俺は乗車駅で買ったターキー・ブレストを頬張りながら、家から持ち出してきたニューヨーク・ポストを眺めて本日の上映スケジュールを確認した。今から行けば前者の最初の上映には間に合うだろう。

 主演は老練で冷静沈着な殺し屋を演じるロイ・シャイダーと、その相方を演じるアダム・ボールドウィン。アクションシーンはそれほどでもないが、主演2人の快演と観客をストーリーに引き込む緊張感はなかなかのものらしい。これは期待できそうだ。

 通勤時間を過ぎ、客足もまばらになった駅で地下鉄を下りて改札を出る。折り畳んだニューヨーク・ポストは着古しのジーンズの尻ポケットに突っ込み、足取りも軽く階段を駆け上がった。

 ブリーカー・ストリート駅から『Cinema Anthony』までは歩いて15分ほどだ。俺は途中の売店でビッグサイズのコーラと山盛りのフレンチフライを買った。

 ――え? ついさっき地下鉄でターキー・ブレストを食ったばかりだろうって? 馬鹿言っちゃいけない。こいつらは映画のお供には欠かせない、最高のソウルメイトだ。

「『COHEN&TATE』、大人1枚」

 お目当ての『Cinema Anthony』へ入り、カウンターに座った白髪混じりのばあさんに声をかける。料金は言われる前にカウンターの上を滑らせた。

 その金をじろりと睨んだばあさんは、次いでつまらなそうに俺を見上げる。「またあんたかい」とでも言いたげな、実にふてぶてしい態度だ。

 けれどそんな威嚇に怯むような俺じゃない。すっかり慣れてしまったやりとりに俺がニッと笑ってやれば、ばあさんはますます不機嫌な顔をしてチケットの半分を渡してきた。

 俺は「Thanks」と短く礼を言って、半券に記された3番シアターを目指す。ここでは基本的に席は早い者勝ちだ。

 とは言えこの映画館に席を争うほどの客が来るのかと言われれば答えはNo。今日だってカウンターを通りすぎた先の待合室はがらんとしている。

 聞こえるのは侵入者を警戒するような空調の低い唸りだけ。

 俺は皮張りの重い扉を開けてシアターへ入った。

 上映開始まではあと20分近くある。これならシアターのど真ん中、最もスクリーンがよく見える特等席は俺のものだろう――と、思ったのだが。

「よう。遅かったな、ボウズBrat

 意気揚々と扉を抜けた先。まだ照明の明るいホールで座席を見上げた俺は、立ち止まって「Shit!」と悪態をついた。

 何故なら俺が今日こそはと奪取を目論んでいた特等席に、年配の男が1人。

 薄い唇を皮肉げに歪めたロマンスグレーの男だ。ちなみにその男が口にした〝Brat〟というのは名前じゃない。アレは〝悪ガキ〟とか〝イタズラボウズ〟とかいう意味のナメた言葉だ。しかしあの男は決まって俺を〝Brat〟と呼ぶ。こっちの抗議なんて聞きゃしない。

「またあんたかよ、Fart」

 だから俺も負けじと目をすがめ、心底憎々しげにそう呼んでやった。

 もちろん〝Fart〟というのも名前じゃない。まあ、一言で言うなれば〝クソジジイ〟。そんな意味だ。

「相変わらず失礼なやつだな。せっかくこうしてお前の特等席を温めてやってたってのに」

「Wow、そいつは最高だ。おまけに枯れたオッサンの加齢と煙草の臭いつきってか?」

「ああ、そうだ、感謝しろ。今なら特別に10ドルでこの席を譲ってやる。これだけのサービスがついてこの値段は格安だぞ」

「Get fucked,bum」

 〝クソ喰らえ〟。忌々しい思いでそう吐き捨てながら、俺はフットライトに照らされた階段を不機嫌に上った。

 そうしてオッサンに陣取られた特等席から2つほど離れた席に腰を下ろす。スクリーンに対してちょっと右に寄っているが、今日も俺は負けたのだ。仕方がない。

「最近よく来るな、あんた。相変わらず暇なの?」

「暇じゃあないさ。だからこうして息抜きに来てる」

「馬鹿言え。本当に売れっ子作家なら、朝っぱらからこんなシケた映画館でガキ相手に小銭をせびったりするもんか」

「お前、どうして俺が小説家なんてケチな職業に就いたと思ってる? 毎日が安息日だからさ」

「そんなに信心深いならミサに行けよ。あんたが売れないのはミサをサボってるからだぞ」

「お前はどうしても俺を売れない作家にしたいようだな」

「信用してほしいならそろそろペンネームくらい明かせばいい」

「その手には乗らん。だいたいお前も殺し屋志望なら、それくらい自分で調べてみろと言ったろう。お前、もし雇い主にエドという男を殺せと言われたら、アメリカ中のエドを殺す気か?」

 俺はそっぽを向いて舌打ちした。このオッサンはいちいちイギリス人みたいな皮肉を返してきやがる。

 俺が〝Fart〟と呼ぶこのオッサンは自称小説家。毎日のように映画を見ないと自作のネタを拈り出せないというアイディア欠乏症にかかっているらしく、いつもブロードウェイ周辺をうろうろしている。

 その中でも『Cinema Anthony』はやつのお気に入りだとかで、俺がこの映画館の存在を知った頃には既にここの常連だった。だから何かと先輩面で能書きを垂れてくるのだが、正直俺はそれがうざったくて仕方ない。こいつさえいなければここのシアターはほぼ毎日貸切りと言ってもいいのに。まったくこの老いぼれは、どんだけ暇なんだか。

 まあしかし老いぼれとは言っても、この劇場の妖怪モンスターであるカウンターのばあさんほどヨボヨボじゃあない。

 見た目は54、5歳と言ったところか。黒い髪に白髪が混ざりまくってるわりには背筋もしゃんとしていて背が高い。顔つきは黙っていればそれなりの紳士に見えるはずだ。ただし、あくまで黙っていればの話。

 ムカつくのは今日みたいにラフな襟つきの黒シャツを着ているだけでも、そこそこ品のいい男に見えることだ。アレと同じシャツをうちの父さんが着ていたらどうだろう。きっとただのくたびれたサラリーマンにしか見えないに違いない。

 その差を言葉で言い表すなら……Ummm……たぶん、〝渋み〟とか〝貫禄〟とかだろうか。認めるのは癪だがこのオッサンはそこそこ顔がいい。若い頃は女にもそこそこモテただろう。そこそこな。

 俺がこのオッサンと出会ったのは今から1年くらい前のこと。その当時から俺は既に犯罪映画フィルム・ノワールの虜で、この『Cinema Anthony』にも頻繁に出入りしていた。

 だがここまで人の出入りが少ない映画館に足繁く通っていると、自然、他の常連客の数や顔が分かってくる。俺は毎度のようにこの狭いシアターの真ん中でフレンチフライを貪りながら、次第にある1人の男の存在が気になるようになっていった。

 それが〝Fart〟。このイケ好かない小説家だ。

 気づけばFartは、俺がシアターに足を運ぶときはいつもそこにいた。映画の趣味が合うのか、はたまた単なる嫌がらせか、俺が映画館に来ていつもの席に腰を下ろすと視界の端には必ずFartの姿があった。

 初めは互いにそれほど意識していたつもりはない。

 けれど薄暗いシアターでの邂逅がついに7回目を数えたとき、

「お前、こういう映画が好きなのか?」

 と、エンドロールを見届けてシアターを出ようとした俺に、後ろからFartがそう声をかけてきた。Fartも最初はただの興味本位だったのだろう。だから俺は答えた。

「あんたこそ」

 と。するとFartは皮肉げに笑った。

「俺は映画なら何でも好きだ。だがお前がここに顔を出すときはいつもマフィアやら殺し屋やらがスクリーンの中で拳銃をぶっ放してる」

「……」

 図星だった。俺は知らぬ間に自分の趣味嗜好を探られていたことに一抹の不快感を覚えながらも、「ああ、そうだよ」と答えた。するとFartは更に冷笑して、

「あんな映画のどこがいいんだ?」

 とまったくナンセンスな問いを投げかけてきた。

 直前まで俺と2人きり、同じ映画を見ていたとは思えない発言だ。つまらないと思うなら観なければいいのに、少なくともこいつは7回も俺と一緒にフィルム・ノワールを観ていた。

 なのにそんな頓珍漢なことを言うFartに俺は眉をひそめながら、頭のてっぺんからつま先まで、まじまじとその姿を眺めたのを覚えている。

 するとFartはその視線と沈黙とを俺の答えと受け取ったのか、

「晩飯をおごってやる」

 そう言った。俺とFartの特等席争奪戦が始まったのはその頃からだ。

 ちなみにその晩、俺はFartによって連れ込まれた怪しげなバーで馬鹿みたいにうまいステーキを1ポンドも食わされ、更には酒まで飲まされた。

 念のために言っておくが、当時俺は16歳だ。ニューヨークでは21歳未満の市民が酒を飲むことは固く禁じられている。

 なのにFartは平気な顔でカリブ産のキュラソーを「オレンジジュースだ」と言って俺に飲ませた。そのポーカーフェイスに騙された俺はまんまと喉を鳴らしてグラスをあおり、翌日二日酔いで学校を休む羽目になった。

 癪なのはそれだけじゃない。Fartはその晩、酔っ払ってべろんべろんになった俺からこちらの素性を洗いざらい聞き出しやがった。

 そんなことを見ず知らずの男に喋った記憶なんて毛ほどもないのに、Fartは次に会ったとき、

「よう、Brat。酒が飲めないやつに殺し屋なんて務まらんぞ」

 と、親にも話したことのない俺のささやかな夢を何もかも知った風に嘲笑しやがったのだ。俺は目の前が真っ暗になった。

 以来、Fartはことあるごとに〝殺し屋志望〟の俺をからかってくる。たぶん俺みたいなやつが本当に殺し屋になれるなんてハナから思っちゃいないんだろう。「もしお前が殺し屋になれたら、そのときはお前を主人公にしたベストセラーを書いてやる」と笑われた。そのとき俺は――引き金を引くかどうかは未来の自分に委ねるとして――殺し屋になったら真っ先にこのオヤジの眉間に銃口をつきつけてやろうと心に誓った。

 だがこうは思わないか? このクソオヤジは姑息な手段で俺の内臓を暴いたってのに、俺はこいつの腹にメスを入れることさえできないなんて不公平だって。

 ここは自由と平等の国アメリカだ。建国の父トーマス・ジェファーソンは独立宣言の中で謳った。〝すべての人間は平等につくられている〟と。

 だから俺は俺のやり方でFartの腹を開いてやろうと思った。本人は自分が小説家であること以外、「殺し屋になりたいならそれくらい自分でつきとめろ」と言って名前さえ教えようとしない。まったく、どこまでもふざけたヤツだ。

 だがいい。そっちがその気ならお望みどおりにしてやる。そう思った俺はある日、映画館を出て帰路に就いたFartのあとをひそかに尾行けた。

 3分で撒かれた。

 だってあいつ、通りに出るなりタクシーに乗りやがったんだ。俺が一流の殺し屋だったなら自分も別のタクシーを掴まえて、運転手に「あの車を追跡しろ」と言うこともできただろう。

 しかし悲しいかな、俺はまだ月に100ドルの小遣いを何とかやりくりしているしがないティーンエイジャーだ。どこまで行くのか分からない車を追って自分もイエローキャブに飛び乗るなんて大胆な真似は、金欠げんじつという名の壁に阻まれできなかった。

 そんなわけで俺は今もFartの素性を何一つ掴めないでいる。なのにこいつを売れない小説家だと決めつけてかかっているのは、俺を見る度に優越感丸出しの顔でニヤニヤ笑うFartの大人げのなさがムカつくからだ。

 しかしそうして俺がもたついている間にも、俺たちの関係は少しずつ変化し始めていた。

 そう。

 神の目にしか映らないくらい少しずつ、着実に。

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