第101話 願い

 

「い、良いのですか? こいつをお通しして?」


 『話を聞く』と言った美都勢さんの言葉に驚いて、気を取り戻した紅葉さんが障子の向こうにいる美都勢さんにそう問いかけた。

 この言葉からすると、俺を美都勢さんに会わせたくないと言う気持ちは、美都勢さんの言い付けと言う訳だけではなく、紅葉さん自身の想いでも有ったのだろう。

 そもそも、親父や俺の容姿が、美都勢さんの最愛の人である『幸一さん』と似ている事が、ここまで美都勢さんの怒りを大きくしてしまった原因なんだ。

 そんな俺が美都勢さんの前に立つ事によって、どれだけ心がざわめき立つのか、高齢である美都勢さんにとって、それがどれだけ心身共に負担を与える事になるのか想像に難くない。


「聞こえませんでしたか? 私はその賊の話を聞くと言ったのです。それに私はその賊に直接手を出すなと言っていた筈ですが? 何ですか先程の悲鳴は、自分の身の程を弁えなさい」


 美都勢さんは静かにそう言ったのだが、後半の言葉には少し怒気が孕んでいた様に取れたのは気の所為だったのだろうか?


「も、申し訳ありません」


 紅葉さんはその言葉にビクッと体を震わせ、慌てて押さえつけていた俺を解放した。

 そして、少し離れた所に立ち、俺の方に顔を向ける。

 俺は床に這いつくばりながら、何とか右腕だけで起き上がろうと顔を上げた際に、その顔と目が合った。

 その表情に俺は言葉を失う。

 

 紅葉さんは、目が大きく見開かれ顔面蒼白になっていたからだ。

 明らかに表情には後悔の念が色濃く出ており、どうやら俺のこの状況はまさしく『そんなつもりじゃなかった』のだろう。

 離れた位置からぼろ雑巾の様な俺を見て、初めて自らの行った事の凄惨さに気付いた様子だ。

 その目に見る見ると涙が浮かんで来ている。


 その涙を見て、俺はふと、この人は人を傷付けるのが嫌いなんじゃないだろうかと思った。

 最初の手裏剣にしても、明らかに俺が尻餅を付いてから投げられていた。

 威嚇の為だけで、本当は当てるつもりは無かったのだろう。

 ドキ先輩やモグの様子も、姿はまだ見れていないが、声を聴く限り紅葉さんが言っていた行為が実際にされたと言う感じはしない。

 お姉さんが警備員にやっていたように、極力傷を付けずに無力化したのかもしれないな。

それに、後から追いかけて来ない様に処置していたのは、その後の呟きで分かっている。


 左腕に関しては俺の油断から来た自業自得だし、太ももの傷にしても俺が足掻き過ぎた所為での焦りから来る咄嗟のものだったんだと思う。

 もしかすると、すぐ捕まえずにゆっくり追いかけて来ていたのは、傷付けてしまった事で、俺の体を心配して狼狽えていただけだったりして。

 しまったな、振り返って顔を見ておけばよかったよ。紅葉さんのオロオロと心配そうな顔が見れたかもしれないな。


 紅葉さんを見上げながらそんな事を考えていると、お姉さんとドキ先輩がそばにやって来て、俺を助け起こしてくれた。

 俺が手を出すなと言ったので、お姉さんもドキ先輩、それにモグも、少し離れた所に立っている紅葉さんに対して、激しい憎悪の目では睨んでいるが、それ以上は何もしようとはせず、俺の傷の具合を心配してくれている。


「そ、そんな……。なんて酷い怪我なの? おい貴様! 私の可愛いコーくんに対して!」


 しかし、俺の怪我の様子を確認していたお姉さんは、あまりの酷さにとうとう堪えられなくなり、今にも紅葉さんに飛びかからんばかりの気勢を上げた。


 お姉さん、そんな近くで殺気を放たれると向けられた相手が俺じゃなくても傷に響くので止めて下さい。


 自らの行いに後悔し、戦う気力も美都勢さんの為にと言う大義名分も無くした紅葉さんは、お姉さんの激しい怒りの言葉に、まるで捨てられた子犬の様にただただ動揺し、顔をぐしゃぐしゃにして泣き出してしまった。

 その口からは、小さく『ごめんなさい』と言う言葉が何度も聞こえて来る。


「だからお姉さん。その人に手を出したらダメだって!」


「だってぇ~、コーく~ん」


 俺の制止の言葉に情けない声を出すお姉さん。

 俺はお姉さんやドキ先輩の手を借りて何とか立ち上がった。

 痛みはいまだに激しく、気を抜くと意識が飛びそうになるが、もう少し持ってくれと俺は俺自身に激励し気力を振り絞る。


「お姉さん達は外で待ってて。あと俺が大広間に入っても絶対にその人に危害を加えたらダメだからね」


 俺の言葉に渋々了承するお姉さん達。

 今この場で、俺以外の人間がドカドカと乗り込んでも、良い方向に行かないのはお姉さん達も分かってくれているようだ。

 俺は左足を引き摺りながら紅葉さんの前まで歩く。紅葉さんは近付く俺を怖がり、体を震えさせながら後退っている。

 それを見ていたお姉さんが『あっ』と小さく声を上げた。また紅葉さんが、俺に危害を加えないかと心配しているようだ。


 でも、もう大丈夫。


 だって今俺の目の前に居るのは、心の拠り所を見失い悲しみの渦に囚われてしまっている、とても弱々しく怯えている可哀想な一人の女性だ。

 まるでゾンビの様に近付いてくる俺への恐怖によって引き攣った顔、そして目からは止めどなく零れ落ちる後悔の涙、全身は寒さに凍えているかのように震えている。


 本当に可哀想に……。


 ただ、大好きな美都勢さんの為にと行って来た数々が、その美都勢さん本人に否定されてしまった。

 それもこれも全部俺の所為でもあるんだ。


 そう言えば、今まで幾度も有ったじゃないか。

 良かれと思ってやって来た事でも、相手に想いがきちんと伝わらないと言う事。

 そして、その相手の本当の気持ちを知らないと、誰も幸せにならないと言う事を。


 そもそも、美都勢さんの心が囚われている事だって、幸一さんが美都勢さんの性格を分かっていたにも関わらず、光善寺家にこの学園を辛くなったら譲れと焚き付けた事に起因しているんだ。

 自分が死んだ後の事を思い、良かれと思って発した言葉で美都勢さんを意固地にさせてしまった。

 そして、問題の写真の事についても、幸一さん自体は想いさえ繋がっていれば姿形は時代と共に変わるのは納得していたと思う。それは学園の名前を変える時に語っていた。

 しかし、それをきちんと伝える事が出来ずに死んでしまったんだ。


 それが全ての始まりだった。


 これは夢の中の出来事? いや実際に有った事だと、俺の中の心の声がそう言っている。

 俺は気力を振り絞って、紅葉さんに微笑みかけた。

 紅葉さんはそんな俺の顔を見て、恐怖する事も泣く事さえも忘れて、呆気に取られた顔で俺を見詰める。

 そんな紅葉さんに、俺は彼女にだけ聞こえるように、俺の想いを伝えた。


「俺は絶対にこれ以上美都勢さんを悲しませたりしません。だから紅葉さんもこれ以上悲しまないで下さい」


 その言葉を聞いた紅葉さんは、今までの想いが溢れ出たのか大声で泣き出して、その場でへたり込んでしまった。

 まるで少女の様に泣いている紅葉さん。

 でも、その様はただ悲しみだけで泣いている訳では無く、俺の微笑みを見た安堵や、自分の想いを分かって貰えた喜びと言った様々な感情が交じり合っている様に感じた。


 突然泣き出した紅葉さんを見て、お姉さんが『なにしたの?』と言った様子でオロオロとしていた。

 しかし、ドキ先輩は『うんうん』と頷いているので、橙子さんが心の傷を告白した時の様に、今起こった事を天才的頭脳による脳内解析によって把握したのだろう。


「じゃあ、行って来ます。さっきも言ったけど、俺が部屋に入っても絶対に紅葉さんに手を出したらダメだからね?」


「おう、分かったぞ。光一も頑張れ!」

「チュー!!」

「分かってるわよ。こんな泣きじゃくってる子を殴り飛ばす程、趣味悪くないわ」


 状況を理解したドキ先輩と、俺の言葉を素直に聞いてくれるモグは力強く頷いてくれた。

 お姉さんも、泣きじゃくっている紅葉さんをバツが悪そうに見ながらそう言った。


「お姉さんありがとう! それに千花先輩もモグもね。皆大好きだよ」


 俺の言葉に顔を真っ赤にして照れている二人。

 ん? よく見るとモグも照れている様な仕草をしている。

 そんな事まで、理解しているのかい君は?


 最後に紅葉さんに目を向けると、泣きながらも何かを懇願する様な目で俺を見ていた。

 もしかすると紅葉さん自体、遺言に囚われて悲しんでいる美都勢さんに、心を痛めていたのかもしれないな。

 美都勢さんの怒りと悲しみを、自分の事の様に感じ取っていた紅葉さん。

 二人の間に何が有ったのかは分からないけど、金曜日の二人のやり取りでの美都勢さんは、今まで聞いていたとしてのそれではなく、幸一さんの手記の写真や夢で見た美都勢さんそのものだった。恐らく二人には親族とは別種の信頼関係が有ったのだろう。

 そんな紅葉さんだからこそ、美都勢さんの歓迎写真を見て悲しむ姿と遺言を守ろうとする姿、その二つの姿のジレンマに苦しんでいたと思う。

 その懇願している瞳の意味は、俺に美都勢さんの悲しみを救って欲しいと言う想いの表れじゃないだろうか?

 俺はその意思を受け取り、その願いに応える意味も含め、再び紅葉さんに微笑みかけた。

 すると紅葉さんは、何か照れたように顔を赤らめ泣き止むと、俺の笑顔の返答なのか、少しはにかんだ様な優しい笑顔を返してくれた。


 紅葉さんの願いも叶えてみせますよ。


 俺は心の中でそう呟いて、引き摺る足で大広間と廊下を仕切っている障子の前に立つ。


 この先に御陵家の親族が居るのか……。とうとうここまで来たんだ。

 俺はゴクリと唾を飲み気合を入れ直した。

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