第81話 純度100%の危険物

「よし! 汁も煮えに煮えて牛すじのコラーゲンでとろっとろだ!」


 う~ん、この味噌と牛脂のハーモニーが鼻孔を擽る。

 あぁ~この匂いだけでご飯三杯食えそうだ。

 そう! これで牛すじ煮込みの完成だ!


 くらり。


 完成したと思った瞬間、一瞬意識が飛びかけた。


 あれ? 何故だろう? なんだか急に眠い。

 一口味見をしたいんだけど眠さに抗えない。

 念願の牛すじ煮込みが完成して気が抜けたかな?

 二度寝したのが原因か? それとも今週の疲れが原因だろうか?


 その全部かもしれない。

 俺は重い瞼を開けるのに疲れてしまい、後ろ髪を引かれながらベッドに向かう。

 あぁ~食べたいけど、意識が……遠のく……。



 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。

 …………………………。



 俺はまた不思議な夢を見た。


 今度はどうも草むらの上に寝転んでるようだ。

 辺りは真っ暗。

 なんでこんな夜に草むらで寝てるんだ?


 横を見るとそこには誰か一緒に横になっている人影が見えた。

 誰だろうと思って見ていると、その人影はこちらを向いてきた。

 その顔には見覚えがある。

 あの少女。

 そう、ミトセと名乗った美佐都さん似の少女だった。


「ね? すごいでしょう? ここから見える星空は最高なの!」


 星明りでうっすら見えるその笑顔は、まるで太陽のようだ。

 俺はミトセさんの言葉に釣られて上を見上げた。


「――――――!!」


 思わず息を呑んだ。

 見上げた頭上は満天の星空。

 ここまで地上から星が見えるものなのか!

 引越しで世界各地にも行ったが、ここまで綺麗な星空は初めてだ。

 手を伸ばせば届くんじゃないかと思う程の星の海。

 俺はその光景に言葉が出ない。


「ふふふ。その顔は満足したみたいね。昼の景色も綺麗だけど、夜はまた格別よ」


 ミトセさんは俺の反応を見て満足げにそう言った。


「うん、凄いね。こんな綺麗な星空は初めてだよ。君と一緒にこんな素敵な星空を見る事が出来て、僕は本当に幸せ者だ」


 またもや俺の意志とは異なる言葉が俺の口から零れる。

 いや本当に異なる意志なのだろうか?

 少なくともミトセさんの隣で、この星空を見れた事は本当に幸せだ。

 この星空が綺麗と感じたのは、彼女と一緒に見てるからなのかもしれない。


「アハハハ! なにそのキザな台詞? まるで気取りね。どこの御芝居の台詞なの?」


 ミトセさんは俺の言葉をそんな風に笑い飛ばした。

 酷いな~、本心なのに。


「違うよ。誰の言葉でもない。どこの御芝居の台詞でもない。ボクの本心だよ」


 少し自分でもキザかなと思うんだけど、嘘偽りの無い俺の想いだ。


「アハハハ…ハ…ハ、……」


 ミトセさんの笑い声は次第に消えて行き、辺りには虫が鳴く声だけが響き渡る。

 耳を澄ませば互いの心臓の音が聞こえてきそうな程、俺もミトセさんも胸が高鳴っていた。

 ゴクリと唾を呑んだのは、俺だろうか? それともミトセさんだろうか?

 そんな息が詰まりそうな沈黙をミトセさんが破った。


「あっ、あのさ。えっと、私ね? あなたと初めてこの場所で出会った時ね。最初は『何?この優男』と思ったのよ。でもね、あなたのその優しい瞳を見てね。あの、その、一目……惚れ……しちゃ……」


 ミトセさんはそう言うと両手で顔を隠す。


「あぁ~馬鹿! 私の馬鹿! なんでこんなこと言っちゃったの?」


 自分の発言に後悔して身悶えている。

 その姿がとても愛らしい。

 そして、その言葉がとても嬉しい。

 だっても同じ事を想っていたから。


「僕もだよ。あの時の君の太陽の様に眩しいその笑顔を見た時から僕は恋に落ちてしまったんだ」


 そう、僕がこの木の事を好きだと言った時に見せてくれたあの笑顔。

 僕は、あの時から君の事が頭から離れないんだ。


「こ……さん」


 かすれて声にならない声で僕の名前を呼ぶミトセさん。

 僕達は起き上がり向かい合って座り合った。

 星明りに照らされたミトセさんは、瞳を潤ませて僕を見つめてくる。

 その顔はとても神秘的で、とても素敵だった。


 そして、互いの距離はゆっくりと近付いていき……。


 唇に優しくそっと……。



 …………………………。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

 ………。



「ハッ、はぁはぁ」


 俺は慌ててベッドから飛び起きた。

 周りを見渡す。


 あぁ、ここは俺の部屋だ。

 なんだったんだ今の夢?


 眠りから覚醒するにつれて先程の夢が形を失っていく。

 暫く後には殆ど思い出せなくなっていた。


「う~ん、何かとんでもない夢を見た気がするなぁ~」


 ここ最近、毎日の様に変な夢を見ている……気がする。

 同じ様に起きたらすぐに内容の殆どは忘れてしまうんだけど、とても大切な事なのは心に残っている感情の残滓で分かる。

 悲しみだったり、喜びだったり形は色々だけど、全て大切な想いだと言うのだけは分かった。

 ここ最近忙しすぎてノイローゼにでもなったのだろうか?

 ミトセと言う少女……、本当に創始者なんだろうか?

 そう言えば創始者の名前って知らないや。

 女性って事も知らなかったくらいだしね。

 それとなくギャプ娘先輩に聞いてみようかな?

 さっきは結局連絡付かなかったしちょっと気になってたんだよね。



 ぐぎゅるるる~。


 その時、俺のお腹が盛大に鳴った。

 時計を見ると夜の九時半を回っていた。


「うおっ! 寝すぎだろ! 俺! 折角の休みに勿体無い」


 俺はぐぅぐぅと鳴り響くお腹を治めようと台所に向かい、牛すじ煮込みを一食分だけ取り分けて電子レンジで温め直した。

 残りは冷蔵庫に入れないといけないから全部温め直す訳にもいかないしね。

 創始者の事は後でも良いか。


 俺は温まった牛すじ煮込みと、どんぶりにいっぱいよそったご飯を持ってちゃぶ台の前に座った。


 う~ん良い匂い。

 さぁ食べるぞ~。


「いっただっきまぁ~す」


 さぁどれから行こうか? 牛すじ? 里芋? それともコンニャク?

 俺は目の前にある琥珀色したご馳走達に目移りしてなかなか最初の一口が決められない。


 いやいや、やっぱり最初は牛すじでしょう!


 そうだ! 最初は牛すじが正道だ!

 俺はぷるぷると揺れる牛すじを箸でつまみ、大きく開けた口に持っていく。


 がやがやがや。


「ん? 何か外が騒がしいな?」


 外から聞こえてきた騒ぎ声に箸を止めた。

 なんだろうか?


『穴太先生~、もう夜遅いから静かにして下さいよ。近所迷惑ですって~』

『おっそうか? んじゃ、しぃぃぃーー!』

『そのしぃぃが大きいっですって!』

『ガハハハハ』


 涼子さんの声が聞こえるな。

 あと何か豪快な声も聞こえる。

 内容からするとちょっと酔っ払っているようだ。

 豪快な酔っ払いって最悪だな。

 他にも数人の声がするし涼子さんの部屋で二次会する事になったのかな?

 う~ん、音が響いて今晩は煩そうだなぁ。


『この先がタニーズJrが居る部屋なのね?』

『粟津先生! タニーズJr は居ませんよ!』

『いいじゃないの。似たようなものよ』

『ぜんぜん違いますって~』


 音からすると大体202号室の前に差し掛かったようだ。

 あれ? 今何か不穏な言葉が聞こえなかったか?

 って?


『ふふ、ふふ、とても楽しみやわぁ~。うち好みの可愛い子やったらいいんやけど~』

『まぁ可愛いと思いますけど、唐橋先生? ダメですよ? 手なんか出しちゃ』

『わかってるって。手は出さへんよ。……足は出すかも知れへんけどね。オホホホホ』

『なんでべたべたな大阪のお笑いなんですか!』


 あ、あれれ? 何か202号室を通り過ぎた?

 え? なんで?

 廊下から聞こえる声の主達は、涼子さんの部屋を通り過ぎ、俺の部屋に近付いてくる。


『先輩は私が守りますからね?』

『鈴ちゃん? 私は別に困ってないのだけど?』

『先輩が困って無くても私が困るんです!』

『いや、意味が分からないのだけど?』


 台所の磨ガラスに数人の女性と思わしき人影が映り通り過ぎる。

 え~と、俺の部屋の先って何か有ったっけ?

 無いよね? だって俺の部屋って角部屋の201号室だもん。

 なんで俺の部屋の前まで来るの?


 なにそれ? 凄く怖い!


 呼び鈴鳴っても絶対に出ないでおこう。

 聞こえて来た会話を聞く限り、純度100%の危険物だ。


 ビィィィ――――


 やっぱり鳴った! なんで?

 無視無視!

 居留守を決め込もう。


 ビィィィ――――


 無視無視!


 ガチャガチャ。


 あれ? なんで鍵の開く音が聞こえるの?


 ……。


 アーーーーーーーーー! 合鍵渡したままだった!


 ガチャン。


「牧野くんごめーーーん」


「なにがぁーーーーーー!?」


 俺の悲痛な叫びは、夜の街に響き渡るのであった。


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