Girl's「I」dentity

前田千尋

Girl's「I」dentity

 海は良い。


 観ていると、何だか自分のことを忘れられる。


 広大に、水平線の向こう側に想いを馳せてみる。


 波の音が心地良い。


 ああ、すべてが海だったら良いのに。


 そうしたら、私はこの青い景色に溶けていく。


 死ぬ勇気はない。だからこそ、こんな妄想ばかりしている。


 死ねない癖に、この世を憎んでいる。


 私はとんだ天邪鬼だ。


「なーにしてんの? こんなところで」


 邪魔が来た。


「おーい、人の話聴いてるー?」

「なんかコイツ上の空っぽいよ、顔」

「なあ、金持ってるでしょ? 出してよ」


 馬鹿が三人、私の上でガヤガヤ騒いでいる。しかし、この馬鹿共の方が私よりこの世に適応しているのは確か。馬鹿は馬鹿故に悩まない。だから生きていける。


 ほんと、死ぬほど羨ましい。


「鞄漁るねー」


 どうぞご勝手に。構わないからとっととこの場から去って下さい。私の『海』を汚さないで。


「あんた財布とかケータイ以外、何も鞄に入れてないんだね」

「道具って持ち主に似るのかね?」

「じゃない? ねえ、それより財布どれだけ入ってんの?」

「えーっと、五千円だね」

「へえ、まあまあ入ってんじゃん」

「じゃあ、五千円頂きまーす!」


 馬鹿はバナナに群がる猿の如く、ウキャウキャ気味の悪い声を出して去っていった。


 平穏が帰ってきた。


 私は目を閉じる。


 波の音が静かに体に染み渡った。




 親から与えられた名前は沙紀。姓は星川。現在16歳の高校二年生。誕生日は十一月なのでまだまだ先(今は六月なの)。

 湘南の海岸沿いに暮らしている。

 これといった特技はない。成績はクラスで中。過去にリレーのアンカーを任されたことは一度もなし。絵は描けない。話すよりは書く方が好きだけど、文章力や語彙力があるわけでもない。

 趣味もない。読書をそこそこする程度。あとは『海』を眺めることくらいしか、好きなことはない。

 その海を眺めることだって、単純に海が綺麗だとか、海洋について興味があるだとか、ポジティブなきっかけではないのだ。

 海は自分を消してくれる。私にとって、自分という存在が一番恐ろしかった。

 だって、私は『空っぽ』だから。ぽっかりと、ブラックホールみたいに深淵が潜んでいる。私は自分の好きなものが分からないし、やりたいことも分からない。他人の趣味嗜好は観察あるいは何回か交流を重ねれば分かってくるのに、自分のことは何時まで経っても分からない。

 私は自分について考え始めると、どんどんネガティブな思考に支配されてしまう。


 リアルが充実しているような陽キャ?→No


 何か一つのことに打ち込み努力する情熱家?→No


 アニメやゲームが好きで詳しいオタク?→No


 天然な天使?→No


 ミステリアス系?→No


 不良? ヤンキー?→No


 ……etc.


 と、まあこんな風にどんな属性に当てはめてみてもしっくり来ない、自分が定着し得ない存在であることを自覚してしまい、それが恐くて堪らなくなる。


 べつにそんなの当たり前っていうか、いちいちそんなことで悩むの? って思うかもしれないけど、私が自己がハッキリとしないことに怯えるのは、そう言われてきたから。


「あなたは何もできない子ね」


 母に、何回と言われた言葉。何をやらせても上手くいかない私に放つ決まり文句だった。


 何か人は「コレ」といったものがないとだめなんだ、何か自分を形造るモノがないといけないんだ。そう強く刷り込まれてきた。

 母は多芸多才だった。だから私のことなんて理解できないのは当然だ。

 私も、自分を理解できない。



 だから私は、何か人の役に立とうと思った。誰かのために動いていれば、とりあえずは自分について忘れていられる。もしかしたら自分について何か得るものがあるかもしれない。

 そう意識し出した高校入学後あたりの時期に、 私はクラスの学級委員に名乗り出た。皆が遣りたがらない面倒役を、引き受けようとした。

 そうして一年くらい経って。私はクラスの『便利屋』になっていた。掃除、黒板消し等誰もやりたがらないめんどくさい仕事は全部やり、時には皆の遊ぶ金を出してあげる。私のバイト代はほぼそれに消えている。

 あれ、どこかで間違えたかな……?

 まあ、いいや。

 雑巾を絞っている時、黒板消しクリーナーを起動させている時は心が休まるから、それでいいんだ。

 先生の慰めをしている時も、心休まるってわけではないけど、まあマシな時間だ。

 三十路一歩手前の男性教師である我がクラスの担任は、生徒と性的関係を持っている人でなし。その生徒は私なわけだけど、私は先生のことを訴えようとかは思わない。

 誰かのために必要とされているんだったら、それは私がこの世に存在していい唯一の理由になり得るから。

 主に金曜日の放課後、私は理科準備室に呼び出される。

 そうして、胸を触られる。次に陰部に手を伸ばされる。

 先生の息遣いは荒い。興奮しているらしい。私の体で興奮してくれるのか。それだけの存在価値が、この瞬間私に付与される。

「ハア、ハア、星川さん、君はいけない生徒だ」

 いけないのはアンタだろ。

 私に存在価値を与えてくれるのはありがたいけど、ちょっと気持ち悪いとは思う。



 散々先生に触りまくられた体に制服を着せて、学校を出る。海岸沿いに伸びる道路の端にある歩道をゆっくりと歩いていく。

 日が長いため、学校を出るくらいの時間がちょうど日の入りの時刻と重なった。海に朱色が溶けていく。

 飛び込みたい衝動に駈られるも、体が動くのを止め、ピタリと止まる。

「死ぬのは、まだ早いかな……」

 ぼそりと呟かれたその言葉は誰にも拾われることなく、潮風に流されて何処かに消えた。





 転校生が来た。

 女子だった。さらっしたロングヘアーが綺麗な、可愛らしくも美しさが滲み出ているような美少女。クラスが一瞬ざわめいた程だ。

 彼女は親の都合でこの地域に引っ越してきた。皆仲良くな、なんて先生は説明した。

「辻綾理央っていいます。よ、よろしくお願いします」

 転校生、辻綾理央は緊張しているのか、少し声が弱々しかった。笑ったら凄く可愛いだろうに、表情が強張り気味なため残念に思えた。


 辻綾理央は私の隣の、空いている席に座った。何人かの視線が感じられ、何人かのひそひそ話が聞こえる。クラスの便利屋の隣に美少女転校生。そりゃ良くも悪くも注目の的にはなるだろう。

「あ、あの……」

 辻綾理央が、か細い声で語りかけてきた。

「はい、何ですか?」

「よ、よろしくお願いします……!」

「あ、はい。どうも……」

 何故だか彼女は、この時になって初めて、うっすらとだが笑みを浮かべた。


 やっぱり、笑ったら可愛いいじゃん。


 私は素直にそう思った。





 しばらくの間、私は彼女と机をくっ付けて授業を受けることになった。

 まだ転校したばかりで教科書が揃ってないってことでもあるんだけど、それ以前にちょくちょく彼女は忘れものをした。

 ある日はノートを忘れて、次の日には筆記用具を忘れて。綾辻理央はかなりの忘れ癖のある少女であることが明らかになった。

 そしてそれだけじゃなく、重度のコミュ障であることもだんだん分かってきた。

 人と面と向かうとたちまち顔が赤くなって、言葉が出なくなる。出たとしても、その言葉は吃りがちになる。

 そのせいで、最初は隣の私を無視して何人かの生徒が話しかけに来たが、会話がどうしても続かないので次第に誰も彼女に交流を求めることはしなくなった。便利屋とコミュ障のコンビ。そんな認識が教室に広まりつつあった。

 いいのか……これは……?

 ま、どうしようもないけどさ……

「あ、あの」

 授業の合間の十分休憩の時間に、辻綾が私に話しかけた。

「何?」

「その、迷惑かけてしまって……すみません。私が……隣のせいで」

「いや、べつに私は迷惑してないっていうか……前からこんなもんだし」

「で、でも……」

「なあー、便利屋~」

 男子が一人、私の席までやって来た。

「なんでしょう」

「さっきの授業のノート見せて。写真撮りたい」

「どうぞ」

「お、サンキュウ」

 男子がズボンのポケットからスマホを取り出し、私のノートを開いて写真を撮り始める。ページを捲る音とカメラのシャッター音が交互に耳に入ってくる。

「うし、ありがとなー」

 写真を撮り終えたのか、私のノートをポイっと机に投げ捨てるように返し、彼は自分の席に戻っていった。私はノートを手に取り、閉じて鞄にしまい、辻綾の方を見る。

「私はずっとクラスの便利屋だから。気にしないでいいよ」

 それが私の存在価値でもあるし。

 そこまでは言わなかったけど、それでも辻綾理央は申し訳なさそうに、私の顔を見るのであった。





 最近、二人で帰ることが多くなった。

 友達がゼロの者同士、互いの傷を舐め合うように……てなわけではない。私がいつも通り一人で帰ろうとすると、気が付くと辻綾が後ろをついてきているのだ。

「……あのさ、尾行されても困るから、横に来れば?」

「あ、す、すみません……私なんかが、その……」

「べつに嫌ならいいけど」

「あ、ちょ、待って!」

 そうして辻綾は私の隣まで来て、同じ歩調で歩く。江ノ島電鉄が走る横を、私達は通っている。

「あの、星川さん」

「うん?」

「どうしたら、私、星川さんみたいになれるかな……?」

「はあっ?」

 私は思わず立ち止まった。

「え?」

「いや、『え?』って……私みたいになりたいって、あんた正気?」

「な、何かおかしいかな?」

「おかしいでしょ? だって私は端から見れば……」

 いいように扱われている底辺。私自身はそれで良いと思っている。馬鹿共にこき使われて、それでも『海』の時間さえ邪魔してくれなければ、私は何とも思わない。けど、客観的な判断からすれば、私の現在のポジションは哀れまれる状態であることは承知している。それを羨んでいるなんて……何なんだ、こいつ。

「星川さんは皆から必要とされて、頼られてるでしょ? 私には、そういうの全然ないから……」

 ああ……そういうズレた認識しちゃってるのか。

「違うよ、辻綾さん」

 私は彼女に事の内容を、正しく伝えようと思った。

「私はね、いいように使われてるだけなの」

「いいように……?」

「そ。色んなことにパシられてんだよ。決して頼られてるとか、そんなんじゃあないんだよ……」

 辻綾さんの頬が夕陽を受けてぽおっと朱色に染まっている。なのに表情はとても悲しげで、私に詰め寄ってきた。

「ど、どういうこと、それ⁉」

「どうって……」

「だって! そうだとしたら星川さん、あなたは……!」

 雫が彼女の頬を伝った。私の手を握りしめて、肩が震えている。

 なんて、このはピュアなんだろう。そう思った。単なるコミュ障ってだけじゃない。あまりにも人間関係のあれこれについて知らなさすぎる。べつに私みたいな人間は特異ではなくて、日本中似たような人はどの環境においてもいると思う。辻綾理央は、どんな人生をこれまで送ってきたのだろう。どうすれば今のような考えのままでいられたのか、凄く気になる。

「辻綾さん、私はね、これでいいの」

「え……?」

 彼女の髪がふわりと肩から落ちていく。

「私は、皆が私を使ってくれることに、初めて満足できるの。こんな私が生きていてもいいんだって、思えるから」

「この世に生きてちゃいけない人なんていないよ?」

 辻綾は純粋な思いを口にしたみたいで、きょとんと首を少しばかり傾けた。

「そうかもね。生きてちゃいけない人はいない。でも、いてもいなくてもどっちでもいい人なら、いるんじゃない?」

 私はふっと笑ってみせた。世の中の奇麗事をそっくりそのまま、何の臆面もなく口にする彼女が、どんな反応をするのか意地悪な好奇心が働いた。

「いてもいなくても、いい?」

「そう。例えば、漫画のモブキャラみたいな。背景の一部と化している人たち。彼等は居ようが居まいが、物語の進行には一切関係ない。だって、彼等には『中身』がないから」

 辻綾理央の手からパッと離れる。線路と歩道を分け隔てる柵に寄りかかり、私は彼女に私なりの人生論を展開していく。

「そしてね、私はそんな『モブ』なの。それでいて嫌なんだ。私は、自分が明確化されていないことが何より怖い」

 辻綾理央は明らかに困惑していた。とんでもない価値観、それは今まで彼女が出会ったことのない考えだったのだろう。だから、どう反応すればいいのか、辻綾理央は困っている。

 ちょっぴり、可愛いらしい。

「でも、だからって……間違ってるよ!」

 彼女は再び私の手を掴み、こちらに引き寄せる。

「間違ってる! それで皆の便利屋なのは、何か違う! ねえ、星川さん」

 辻綾理央の瞳が一瞬煌めいた気がした。

「私が、あなたをにしてあげる!」

 電車が私の後ろを通過していく。彼女の声はすんでのところでかき消されることなく、その内容は私の耳にも届いた。電車が完全に通り過ぎた後に、私は返事を口にした。

「どういう意味よ、それ?」

「私が、あなたが便利屋をやらなくても済むように、あなたの自分探しを手伝う」





 私は自室で読書をしていた。とは言っても、さっきから読んでいる内容が全然頭に入らない。文章を追っていても、途中で帰宅中での出来事が思い出されて、物語を理解しようとする気力が失われる。

 読むの、止めよう。

 私はしおりを挟んで、本を閉じた。


『私があなたをあなたにしてあげる!』


 その言葉が、頭から離れない。私は彼女の言葉に二つの矛盾した思いを抱いた。

 一つは侮辱。私が便利屋として生きてきた今までの人生そのものを否定されたから。私なりに、悩み過ぎないための最善策であり、辛うじてそれのおかげで生きてこれたというのに……一般論をぶつけるんじゃねえ。

 二つ目は、期待。私が侮辱だと感じたのも、少なからず体のいいパシりであることにどこか引け目を感じていたからだ。最善が最高とは限らない。

 だから、辻綾理央が私に何をしてくれようというのか、どんな変化をもたらしてくれるのか。半ば淡い期待が生じてしまった。

 ベッドに腰を降ろし、そのまま後ろに寝そべる。一つ息を吐き出して、目を閉じた。

 辻綾理央。彼女だけが、私と対等な立ち位置で接してくれる。

 私を、アイテムではなく人間として見てくれている。

 バイオリンの音が聞こえてきた。きっと母が一階で練習でもしているのだろう。

 私は耳を塞いだ。





 翌日、学校に行くと私の机の上には数枚の色折り紙がペランと置かれていた。自分の机をくっ付けて、私を見つけた途端に満ち足りた表情を浮かべた辻綾理央がこちらを見つめてくる。

 いや、何だこれ……?

「私と折り紙折らない?」

 いやいやマジか。高校生で折り紙って……どういう経緯があってこの現状に至っているのか知りたい。

 案の定、多数の視線が私達に集中している。

「いや、何なのこれ……?」

「星川さん、夢中になれるものがあれば自ずと『自分』も見つかるよ。というわけで一緒に折り紙折ろうよ!」

 つまりはこれが彼女なりの私への援助、ということらしい。でも、さすがに折り紙はないんじゃないかなあ……

「ほらっ、座って星川さん」

 私は腕を引っ張られ、強制的に席につくことになった。

「折り紙ってね、案外奥が深いんだよ。ほら見てこれ」

 辻綾が差し出したのは。

「な、なにこれ」

「カエル! これね、こうやってお尻を押さえて離すと――」

 ぴょんっと、緑色の紙で折まれたカエルが机の上で飛び跳ねた。

「うわっ」

「ね、すごいでしょ? 私の過去作なんだけど、星川さんにも色々教えてあげるから」

 辻綾理央はとてもはしゃいでいるように見えた。そんなに折り紙が楽しいものなのだろうか。確かに私は「カエル」なんて知らなかったし、紙飛行機以外にもこんな遊び心に溢れた折り紙作品が存在することを知れたのは、少なからず衝撃的で、且つ静かな興奮を覚えるものだった。

「今からカエルの折り方教えるね。えっと、まずは紙を――」

 辻綾理央が手に取った紙は、ひょいと彼女の手から離れた。

「あっ」

「なーにやってんの、あんたら?」

 やはり、か。馬鹿共が嘲笑しに来た。

 予想はしていた。高校生にもなって折り紙を広げているなんてそんなおいしいネタを、こいつらが拾わないわけがない。

「ねえねえ、ここは幼稚園じゃないんだよ~」

「か、返してっ」

「こんなのさー、遊んで何が楽しいの? ねえ、便利屋」

「……何」

「あんたさ、最近こいつと仲良くやってるみたいだけど、調子乗ってない? あんたは私たちの『便利屋』なんだから。なに普通の生徒らしいことしちゃってんのさ」

「べつに私は調子には乗ってないし、これからもちゃんと皆のために働くよ? 少し隣の人と交流しているだけ」

「生意気に口答えしてんじゃないよ! やっぱ調子乗ってんじゃねーか!」

 相手が私の胸倉を掴んでこようと迫ってくる。私はそれを特に防ごうともせず、そのまま受け入れようとした。本日の最初のお仕事は、くすぶっている馬鹿共の憂さ晴らしの相手、要はサンドバッグ代わり。そんな風に考えていた。

 辻綾理央が、馬鹿の腕を掴むまでは――

「やめてっ!」

「うわっ、何だよお前!」

「星川さんをいいように扱うのやめて!」

「うっせーな、キモイんだよテメー!」

 馬鹿が腕を振りほどこうとしても、辻綾はがっしりと掴んでその手を離さなかった。二人はそのまま取っ組み合い状態になって、窓の方に近づいていった。

「もう、星川さんのことを、馬鹿にしないって言うまで、この手を離さないからっ」

「うぜーな! 離せよ! キモイっつってんだろ!」

 教室中がざわめきに包まれていた。面白がって観戦する人、心配そうに「ちょっとヤバくない?」などと呟いて周りと意見を確認し合っている人。様々な思いが入り乱れて、クラスの生徒全員が一点に意識を注いでいた。

「いいよっ辻綾さん! はやく手を――」

「離せっ!」

 馬鹿が渾身の力を振り絞って辻綾理央の腕をほどいた。そして次の瞬間、彼女の胸に手を当てて強く突き飛ばした。

「はぁっ――」

 一瞬、場が静まり返った。皆、辻綾理央に注目していた。

 彼女は胸を自分の手で押さえていた。後ろによろめきながら後退し、窓に背中をぶつけた。

「つ、辻綾、さん……?」

 彼女は、

「理央っ!」

 私は辻綾理央の元に駆け寄った。

 呼びかけても、彼女は返事を一つもしてくれず、ただ頭を項垂れているばかりだった。





 辻綾理央は、かつて心臓の病気を抱えていた。

 この学校に転校してくる二年前まで、ずっと入院生活を続けていた。そのため学校に通えたことはずっとなかった。

 二年前、海外の病院で手術を受け、無事に成功。一先ず病気を治すことができた彼女は晴れて誰しもが送っているを、初めて送れるようになったのだ。

 それでも、胸には手術跡が残っていた。

 胸に強い衝撃を受けると、手術跡に響いてしまう。

 そんな大事なことを、辻綾理央はずっと隠し続けていたのだ。





 扉を叩く。

「はーい」という返事が聞こえて、私はゆっくりとスライド式の扉を開ける。

 ベッドに横たわりながらも、彼女の顔はこちらを向いていて、そして笑顔だった。

「ありがとう、また来てくれて」

「来ないわけにはいかないよ。私のせいなんだから……はい、これお見舞い品」

「だから、沙紀のせいじゃないって言ってるのに……わあっ、たこせんっ!」

 は目を輝かせて私が差し出した江ノ島名物・たこせんべいが入った紙袋を受け取った。

 あの事件から一か月ほど過ぎていた。私たちはもう、下の名前で呼び合うようになっていた。

 そして、理央の気持ちはわからないけど私は彼女に対して、確固たる想いを抱いていた。

 今の私は、とてつもなく幸せだ。

 だって、私が『私』としていられていると、自分でも思うから。

 その理由は、理央にあった。

「もう少しで、退院できるんだっけ?」

「ふん? ほうひゃよ」

 早速たこせんをほおばっている。

「食べるのはやっ」

「ばってわたひこれふきなんだもん」

「わかったから飲み込んでからしゃべりな」

 まるで頬袋にたくさん食べ物をつみこんだリスみたいな顔になっている。私はなんだかおかしくって、少し笑ってしまった。

「なーに、その笑いは?」

「ごめん、やっぱ理央可愛いなーって思って」

「……っ、ばかっ」

 理央は私がからかうとちょっとばかし照れているのか顔を赤らめる。一応、私の気持ちはまだ知らないはずではあるけど、彼女はどんな風に私を思ってくれているのだろう。

 やはり、あくまで友達だろうか。

「でも、残念だな。もう少しで退院できるといっても、学校もう夏休みに入っちゃってるよね」

 理央の言葉を、私は意外に思った。

「あのクラスに、戻りたいの?」

「まあ、うん……あんなことが確かにあったのに、変に思うかもしれないけど」

「……いや、べつに変だとは思わないです」

「ほんと? ……私ね、あんなクラスでも、やっぱり初めてのクラスだったから。嬉しかったんだ、皆といれて」

「そっか」

 理央は自ら病気を持っていたことを隠し、それを先生にも伝えていた。病気のことを明かしてしまえば、嫌がおうでも皆彼女を腫れ物として扱うだろう。理央はそうはなりたくなかった。普通の青春を送りたかったから、転校ですらなかったのに『転校生』を名乗って私達の学校にやって来た。

「ごめんね、沙紀」

 なんの前触れもなく理央が謝りの言葉を口にしたものだから、私は何のことかと訊ねた。

「沙紀の自分探し、あの日以来止まったままで」

 なんだ、そのことか。

 もう、必要ないよそんなこと。

 私は座っている円イスを理央の方に近づけて、彼女の顔をしっかりと見て、言った。

「気にしないで。私、私を見つけられたから」

「え?」

「あなたはもう、

 理央は最初、意味が分からなかったのか戸惑った表情を浮かべていたけど、なんとなく意味が飲み込めたのか、だんだん落ち着いた顔になって。

「そっか、良かった!」

 とても明るく、笑った。





 夏休みの間は、学校との接点はもちろんなくなる。必然的に、との関係も一時的に消滅していた。

 担任との、関係。

 私は、学校が始まる一週間ほど前。退院した理央と鎌倉に遊びに行った時に、そのことを明かした。

「そ、そんなことが……」

 理央はしばらく絶句していた。それはそうだ。親友が教師と性的な関係を持っていたなんて、衝撃のあまり言葉を失わない方がおかしい。

 近くで私達の会話を聞いている大仏さんは、どう思っているかな。

「私のこと、嫌いになった?」

 正直、私は私自身を呪いたいほど過去を葬りたかった。あの頃の私はとにかく自分のことを忘れられる時間が欲しくて、先生の要求を受け入れていたけど、今になってみれば体が震えるくらいだ。私は、自分の体を好きでもない人に捧げていた。それが悔しくて堪らなくなっていた。

「沙紀」

 理央は突然私の方に向き直り、私の両手を柔らかく包み込んだ。

「大丈夫だよ、私は、そんなことであなたを嫌いになったりしない」

 そして、私を自分の方に引き寄せた。私は彼女の温もりを感じとった。

「つらかったよね。大丈夫、大丈夫だから」

 気付いたら、目から涙がこぼれていた。理央の優しさがとてつもなく暖かくて、どんな言葉を言えばいいのか分からなかった。ただひたすら私は泣き、理央も私とともに泣いてくれた。





「君から私を呼ぶなんて珍しいですね。新学期早々何事ですか?」

 一学期の頃、少なくとも一週間に一回は通っていたこの理科準備室。先生が理科の教師だから、ってことが使用の理由らしいけど。

 もう、こことも今日でおさらばだ。

 私は、完全に過去と決別する。

「まあ、何でもいい。夏休み中もね、私はずっと君に会いたかった。職場から解放されたと思っても、今度は家庭が私を苦しめる! 私を癒してくれるのはもはや君だけだってことに気づいたんです私は! さあ、私に快楽を――」

「先生、もうやめましょう」

「……はい?」

「この関係、終わりにしましょう」

 そう告げた途端、先生が絶望の叫びをあげた。

「はあああああああああああああああああっ⁉ いや、どういう意味ですか、それはっ! 私わけが分かりません!」

「言葉通りの意味です。私は、あなたとの関係を許否します」

「なんでですか? 君も私を求めていたではないですか⁉ 癒しが欲しかったんでしょう⁉」

「私は自分を忘れていたかっただけです。その為にあなたを利用した。そのことについては謝ります。ごめんなさい」

 私はすっと頭を下げる。先生がこちらに近づき、手を伸ばしかけたがその直前に頭を上げた。

「でも、私はようやく私を見つけられた。自分を見つめることが、出来るようになったんです」

 制服のポケットからある物を取り出し、それを先生に見せつける。

「これ以上、私に関係を迫るようだったら、このボイスレコーダーを持って他の職員及び警察に駆け込みます」

「き、君は……ほんとに、な、なんて、ことを……」

 先生は膝をつき、がっくりと項垂れた。その際手に持っていた鍵を落とし、私はすかさずそれを拾った。

「因みに、今扉のむこう側には親友が副担任と一緒に待機しています。私が部屋を出る瞬間に襲おうとしても無駄ですよ」

 そう言い残しドアノブに手をかけた瞬間、後ろで何かが動く気配を察した。

 忠告しても聴かない気か。

 振り返ると、先生がゆっくりと立ち上がるところだった。

「……せめて、最後に教えてください」

 どうやら、悪あがきをするつもりではなかったようだ。

「……なんですか?」

「君は、自分を見つけられたと言いましたけど……その、自分って結局何だったんですか?」

 大きく息を吸って、私は明るく言い放った。

「『I』ですよ、先生!」

「……愛?」

 解錠し、扉を開け放つ。先生の返しを聴こうともせず、私はその場をあとにした。





 海は良い。


 見ていると、何だか安心する。


 広大な母なる海が私達二人を見守ってくれているようで。


 ああ、波の音が心地いい。


 理央が、そんな台詞を口にした。


「良いね、海って」

「でしょ? 良いものなんだよ、海は」

 水族館近くの、砂浜に下る階段に腰を降ろし、二人で海を眺めていた。砂でお尻が汚れるかもだけど、私も理央もそんなことは気にしなかった。

「そうかー、沙紀はこの景色を私と出会う前は独り占めしていたのね。でも残念! 私が浸食してしまったよ」

「いいですよーべつに。浸食してきたら壁をつくるまでよ」

「そんなっ、私を拒まないでー!」

 何よそれ、なんて言って思わず笑みがこぼれる。理央もふざけ半分に笑う。こうしている時がやっぱり一番楽しい。

「で、何かな話って」

 理央がこちらを向き、改まった態度をつくった。私は、自分の想いを伝えようと決めていた。もしかしたら、今の関係にひびを入れることになるかもしれない。それでも、私は――

「理央、私ね」

「うん」

「私、あ、あなたのことが、その……」

「うん」

 ヤバい、心臓の動悸が激しくなっていく。

「……す、好きっ!」

「うん、知ってる」

 一瞬、静寂な間があった。

「……あ、えっと、だから、その、友達としてではなくて、ほんとに、引くかもしれないけど、あなたのことを、その、こ、恋――」

「だあかあら、知ってるって」

「え――」

 海が見えなくなった。

 少し間をおいてから、唇に当たった柔らかい感触に気が付いた。

 視界が元に戻る。また海が見える。

 そうして、横を向くと理央の顔がある。

「気づいてないと思った?」

「……え、いいの、だって、私」

「私も沙紀のこと好きだもん。もう、それでいいじゃん」

 理央が私の肩に頭を預ける。何だか、それで私の力もすっと抜けたような気がして。

「そうだね」

 私も、彼女に寄り添った。



 私には『I』が必要だった。

『愛』が私を形造るものだった。

アイ』を、理央が示してくれた。

わたし』がそれを掴んだ。


 もう、私は悩まない。

 私は、強く強く生きていこうと、心に決めた。

 ――海を眺めながら。

























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