穏やかな春の一日

 大学に――正確には所室に――向かう俺の頬を、確かに春を感じさせる暖かな風が撫でる。

 ひと月前。最初から部会格での成立アンド部室つきというぜんだいもんの好条件で学生相談所を旗揚げしてから、俺はほぼ毎日所室に通いつめている。

「大学のお金で暖房の恩恵を享受できるなんてめっちゃお得じゃん!」

 なんて歩美の発言に浮かれていた時期もあったが、その大学のお金とやらは俺たちが払った学費が根源なわけで、俺たちにとってはお得でもなんでもない当然の権利だということに俺が気付くのにさほど時間はかからなかった。

 まあそうは言っても、家の電気代の節約にはなるからと俺は通い続けていたのだが、三週間前には記録的な積雪を観測する程寒かったというのに、今ではすっかりポカポカ陽気だ。まあ俺は寒いのが得意じゃないから助かるけどな。

「この陽気ならもう暖房はいらないかもな」

 俺はぼんやりと呟いて正門を通り抜けた。



 学桜館大学のキャンパス内にはソメイヨシノや八重桜、それから……、あの、えぇっと、うん、俺には名前のわからないような品種の桜が植えられている。さすが、法人名や校章にまで桜が使われているだけのことはあると言っていいだろう。数年前には桜と熊をなぜか掛け合わせたゆるキャラ『サクラックマ』なんてものも創った、もとい、百年あまりの冬眠から目覚めたらしく広報活動の手伝いをしてもらっているそうな。それだけ桜を推すのも頷けるくらいの種類と数の桜だ。品種によって開花時期は違うようで、全体としては四分咲きの株が多いようだが、まだまだつぼみが膨らんできたかなという程度の株も少なくない。卒業式でも入学式でも桜が咲いているという風景を作るためだろうか。日本のアニメやマンガなんかでは卒業式の日に散ったはずの桜が、入学式の日には新入生を満開で出迎えるという不自然なシーンが当然のように使われていて奇妙に思っていたんだが、なるほどこういう理屈だったんだな。

 そういえば俺の入学式の時も桜はまだまだ頑張って咲いていた。同じ高校から進学したということもあって、一人暮らしの俺の家に前日から泊まって一緒に入学式に来ることにした見城が、キャンパスに入るなり満開の桜並木を目にして浮かれてやがったのも懐かしいな。

 あれから約一年が過ぎ、四年生たちはもうじき卒業だ。たしか式は二十日だったよな。

 それが終われば四年生たちは社会の荒波に飲み込まれていくのだろう。

 卒業してしまう親しい先輩との涙のお別れイベントが、ノリで入ったサークルもすぐに辞めてしまった俺に起こるような可能性は全くないが、早くも人生最後のモラトリアムである大学生活の四分の一が終わってしまうという事実が俺の頭を悩ませる。

 香子にき付けられてからというもの、俺も大学生活を楽しまなくてはいけないと切実に感じさせられているのだ。

 だがしかし、俺には不安はない。

 馬の合う仲間と一緒にサークルを立ち上げたんだ。あとは野となり山となるだろう。

 不安ではなく期待を持って、俺は部室棟へ足を踏み入れた。



「はぁ……」

 さっきまでの期待はどこへやら……。

 階段を目の前にして思わず溜息が出てしまった。

 部室棟は五階建てで空調は館内全域に行き届いているというのに、エレベータだけは設置されていないのだ。

 所室をもらえたのはいいのだが、二階スタートとはいえ五階まで上がるのは毎度のことになると骨が折れる。まあ、本来ならありえない好待遇なのだから文句を言える立場じゃないしな。運動習慣になると前向きに考えて我慢するとしよう。

「はぁ……」

 二度目の溜息をついて、俺は階段を上がり始めた。



 そういや今日から歩美は帰省するとか言ってたな。実家は千葉県のちょうせいむらと言ったか。聞いたこともない村だったが――まあ俺の場合聞いたことのある村の方が少ないが――何とも縁起のいい名前だ。

 しかし、そうすると所室は誰も来てないかもしれないな。なんせ、毎日のように所室に顔を出しているのは一人暮らし組の俺と歩美だけで、実家暮らしの香子や銀は週に三、四回程しか顔を出さないからな。まあそれでもかなりの頻度ではあると思うが。

「香子や銀も来なかったら家にいるのとあんまり変わらないなぁ」

 とは言えども所室を開けておかないと、万が一学相のポスターを見たどっかの誰かが、何を血迷ったか本当におもしろいことを持ってきてくれた時に対応できないからな。廃棄ロスを恐れてチャンスロスを生むと失うものが大き過ぎる、って何かの授業で教授の誰かが言ってたが、俺たちの場合はチャンスロスがそのままモラトリアムの廃棄ロスになってしまうわけで、つまりこれは責任重大な仕事なのだ。

 そう考えると階段を上がる脚にも力が入るというものだ。

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