風岡香子のモラトリアム

小山空

第一部 盗難騒動

序章

プロローグ

 一月二十五日木曜日。

 まるで地球全体が一つのボールアイスにでもなっているんじゃなかろうかと思うほどに冷え切った午後二時四十分。

 この時間でも寒いのは、今が冬真っ盛りだからだ。空は灰色の雲が覆い、ただでさえ弱い日の光をシャットアウトして、地球の温度が上がるのを妨げている。

 どうせ寒くなるなら雪でも降らせてくれりゃ気分の方は晴れるというのに、ここ東京で雪が降ることはそうそうない。ただ寒くなるだけだ。

 まあ、いいさ。今日は試験も終わったことだし、久しぶりに牛肉でも買ってすき焼きだ。……一人寂しく、な。

 そんな風に晩飯のメニューを考えながら俺は、大学の学費を支払うために受給している奨学金の延長申請のために必要な在学証明書を発行するため、学生課窓口へとやってきた。建物の中は暖房が効いていて、冷えた身体に血が巡り直すのがはっきりとわかるほどだった。だがそんなことより俺は、普段は職員がしゅくしゅくと職務にあたっている学生課窓口が、いつもとは違う雰囲気であることが気になった。

 なんか、騒がしいな……。

 学生課の窓口の一つは学生が大挙して訪れており、パンク状態になっている。何かあったんだろうか。

 そうは思いつつも、別に他人のことなどさして興味のない俺は、さっさと自分の用事を済ませようと学生課の職員に声をかけた。やけに胸の大きい若くて美人な女性職員だった。

「あの――」

「はぁ……、盗難被害の報告などはあっちの窓口へ行ってもらえませんか?」

 そう言って女性職員はすでにパンク状態になっている窓口を指差した。

 は? 盗難? なんじゃそりゃ。俺はそんな被害にあってねぇぞ。

 俺の表情から困惑の色を読み取ったのであろうか、その職員は気まずそうな愛想笑いを浮かべ、うっすら茶色いショートボブの頭の後ろをぽりぽりと掻いた。

「あら、もしかして盗難関連じゃない? ごめんなさいね。最近急に件数が増えて、てっきり……」

 大人のくせに人の話を最後まで聞かずに対応するんだな、ここの職員は。まあいいさ。そんなしょうもないことでもめる気はさらさらない。この美人職員の胸の大きさに免じて許そうじゃないか。

「盗難の被害にはあってませんよ。在学証明書の発行をお願いしたくて来たんですが……」

「あぁ、はいはい。じゃあこの紙に氏名と学籍番号を書いてください」

 職員はそう言って申請書類とボールペンを差し出した。俺はさっさと記入を済ませて紙とペンを職員に返し、在学証明書の発行を待った。

 待っている間も例の窓口にはたくさんの学生が集まり、学内で置き引きにあっただの、部室棟のセキュリティを強化しろだのと相談に来ていた。

 盗難ねぇ……。そういや大学からメールが来てたか。盗難が多発しているって。学生課はこんなことになってたのか。まあ、俺には関係ないけどな。

 そんなことをぼんやりと考えているうちに在学証明書が発行されたようで、

「はい、お待たせしました。こちらが在学証明書になります」

「あぁ、どうも」

 目的のものを受け取った俺は、次の用事を済ませるため騒がしい学生課を後にした。



 暖房の効いた建物を出ると外の寒さがより身にしみるのは世の常だ。俺は頭が肩に埋まってしまいそうな程に首を縮こまらせて歩いて、次の目的地――部室棟――へやってきた。

 さすが私立大学と言うべきか、ここ学桜館大学は金だけは腐るほどあるらしく、部室棟は各部室だけでなく建物全体にエアコンを完備していて、部室棟に入るだけで生き返ったような気分になる。これでは部室に行ったら授業の教室まで行けなくなる、という学生が続出するのも頷けるというものだ。

 さて、そんなことより用事を済ませなくては。長居すると俺も家に帰れなくなりそうだからな。

 用事というのは高校時代の友人に借りた本を返すというだけのことなのだが、友人とは時間が合わなかったので、そいつが所属する文芸部のポストに投函しておくことになったのだ。

 部室棟の入り口すぐのところに各部室のポストがあり、そこで部室の鍵を管理したり、学生課に届いた各部活宛の郵便物を職員が配布したりするために使われている。

 友人からポストの位置を聞いておくのを忘れた俺は、端からしらみ潰しに探していくことにした。

 えぇと、文芸部、文芸部、文芸部、………………。

「み、みつからねぇ……」

 端から端まで全て見たはずなのに、なぜか文芸部のポストは見つからなかった。

 どっかで見落としたか……。もう一度端からだ……!

 文芸部、文芸部、文芸部、………………。

「あなた、さっきから何をしているのかしら?」

 なかなか見つけられず右往左往する俺の後ろから、女性の声が聞こえた。振り返るとそこには、眉のあたりで切り揃えた前髪と肩より下まで真っ直ぐ伸びた綺麗な黒髪が特徴的な、目鼻立ちがくっきりした美少女が怪訝そうな顔をして立っていた。

 お、俺に話しかけたのか……?

 俺はキョロキョロとあたりを見回す。俺とその美少女以外誰もいない。

 ってことは、俺か……。何って文芸部のポストを探してるだけなんだけどな。

 俺が答えようとした時、その美少女が俺に指を突きつけて言った言葉で、俺の背をせんりつが走った。

「さては、あなたが連続盗難事件の犯人ね……!」

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