哀れな黒と歪んだ白
菖蒲
第1話
遠くから野球部の声が聞こえる。
誰もいない、この伽藍堂となった教室には静寂だけが満ちている。茜色に染まった世界は、昼間の賑やかだった教室とは全く別の顔を見せていた。
そんな空間にいるのはわたしと彼女の二人だけ。
――美しい。
その人を見たときその言葉しか思い浮かばなかった。吸い込まれるような艶やかな漆黒の髪。その乱れのない黒は私の黒髪と比較してもまるで別物。
そして黒をより引き立たせるような彼女の白く柔らかい肌、触れたら穢してしまうのではないかと危惧するほどに綺麗なそれは芸術品といっても過言ではない。そう例えるのなら足跡のついていない雪原のような。
ああ、私は息を飲む。
本当に彼女――御堂朝香という人間はただただ美しかった。髪も瞳も肌も何もかも。
だからこそ私は彼女を羨んでしまう。誰からも愛される彼女に対し、もしも、自分も彼女みたいに美しかったのならば、きっと今頃は――そんな馬鹿げた気持ちを抱いてしまうほどに。
「――ふふっ、それは無理よ」
私の心を見透かしたかのように彼女は微笑みをこぼす。女神のような微笑み。慈愛に満ち、それでいて、この私という哀れさを愛おしむかの如く。
「貴女もわかっているでしょう? 貴女は私になれないって、私にみたいに誰からも愛されるような、そんな存在には到底なれはしないってことが。ああ、本当に可哀想、可哀想で哀れね」
彼女は愉快げに口元を歪ませ、そして、わたしの耳元でそう囁く。如何に私と彼女が違うのか。如何に私が愛されない存在なのか。ああ、やだ、やだな。心が痛む。痛くて傷む。ずきずきと、苦しくて私は胸に手を当てながら彼女の目の前で膝をつく。それはまるで神に祈る信徒のように。
「――そう、貴女は誰にも愛されない。これまでも、これからも。可哀想な紗夜」
「わた、しは、愛されない、うん、そう、私は誰からも愛してなんて、貰えない」
「――ええ、そうね。だから。ううん、だからこそ私が、貴女を愛してあげるのよ、紗夜」
その言葉は天からの施しのように私に舞い降りる。思ってもみない言葉に顔を上げると彼女は、ううん、御堂さんは私に向かって手を差し伸べていた。
「私だけが貴女を愛してあげる。だからこの手を取りなさい。私からの寵愛が欲しいのならば。でもね、この手を取ったら後戻りは許されない。私以外の者から愛されることも、私以外を愛することも、決して、決して許さない。」
――これから始まるのは。
「さあ、どうする? 紗夜」
――私と彼女の物語。
「嗚呼、嬉しいわ。紗夜。私の可愛い紗夜」
――友情でも恋でもない。
「これからは永遠に、私の愛は貴女だけの物」
――愛する者と愛される者の物語である。
★
朝目覚めると妙に頭が痛かった。ガンガンと走る鈍痛に顔を顰めながら体を起こす。記憶にモヤが掛かったように昨日のことが上手く思い出せない。
ええと、昨日なにがあったんだっけ。頭を抑えながら昨日のことに思考を巡らす。
夕焼けの教室。美しいあの人。そして向けられた手のひら。
断片的な記憶が要素として浮かび上がる。あれは夢だったのだろうかと疑問が浮かび上がる。
けれど頭の隅ではわかっていた。
昨日のことは本当に起きた事態なのだと言うことを。しかし、とは言っても未だにわかには信じ難くどうしても疑心を抱いてしまう。
より一層強くなった頭の痛みの前に私は「うあー」と情けない声を声を上げた。
毛布を勢いよく被る。これは私が現実逃避をするときの癖のようなもので、布団の中に体を押し込めていると少しは落ち着くのだ。ただ今回ばかりはあんまり意味はないらしい。落ち着こうと思えば思うほど昨日のことを意識してしまう。意識すればするほど心臓の鼓動は早くなり、それと比例するかの如く脳の痛みもまた強くなる。明らかに脳がこの信じられない事態についていけてない。今日はもう休んじゃおうか。そんないけない思考が首をもたげ始めたとき、唐突に久しく鳴ることのなかった我が家のインターホンが家の中に響いた。
「誰だろう」
一人暮らしの私の家に訪ねてくる人は極少ない。そして訪ねてくる者の大半は宗教勧誘だったり、新聞屋だったりするのだから碌でもない。もしまともな訪問者だとして、来るとしても精々義妹ぐらいのものだ。だからまあ、インターホンが鳴るといことはそれほど珍しいことなのだ。特にこんな朝の早い時間になることは。
出るか出ないかで迷っている内にもインターホンはずっと鳴り続ける。「ピンポーンピピピンポーン。ピンピンピピピピンポーン」と執拗に。ここまでくると嫌がらせのようだ。しかも若干リズムを刻んでいるのがまた腹立たしい。
だがこうして考えると義妹でないことはわかる。義妹ならインターホンを押さず合鍵で勝手に扉を開けて入ってくるだろうから。それにあの過激な義妹なら今のようにインターホン連打で済むはずが無い。痺れを切らしたならばとっくにドアを蹴破ってでも入ってきてるであろう。
何度目か鳴らされたところでようやくインターホンは止まった。諦めたのかな。そう思った途端、部屋の中でどこか陽気なメロディが流れる。
それは私の知らないメロディだった。私の知る限りこの音を出す物など私の家にはない。けれどこの音が部屋の中から聞こえているのは事実で、その発生源がどこかにあるはずだ。
私は部屋の中を軽く見回しつつ、耳を澄ませる。するとそれはどうやら私の鞄の中から聞こえてくるのがわかった。鞄に近づけば音もまた近くなる。やっぱり鞄の中に何かがあるのは間違いないみたい。
私は学生鞄のファスナーを開けて中を見る。そして見つかった。ちかちかと音とともに点灯し、振動するその物体を。手に取ってみればそれには見覚えがあった。
――スマートフォン。
外に出ればそれを見ないことはない。私は持っていないが、現代の人間にとっては生活必需品と言ってもいい存在だろう。
スマートフォンの画面には着信の文字。その下にはスライドして応答、と書かれている。どうするべきか、私はスマートフォンの画面を見つめ考える。
「あれ?」
その画面に出ている文字に私はようやく気づく。
――御堂朝香。
着信の文字の上には確かにその文字がある。どうして気づかなかったんだろう。これ御堂さんからの着信だ。ということはこれも御堂さんの物なのだろうか。もしかしたら昨日、私の鞄に間違って入ってしまったのかも。それでスマートフォンがないことに気づいた御堂さんが探すために電話をかけてみた。多分おおよそそんな感じだろうか。
「探してる、なら。出ないと、だよね……?」
別に盗んだ訳ではないから多分怒られたりはしない、はず。私は頭の中で大丈夫大丈夫と言葉を反芻させながらスマートフォンと向き合うと画面に出ている丸い記号のようなものを右にスライドさせた。
「ええっとこれで良いのかな」
上手くできたのか不安になりながらもスマートフォンを耳に当てる。
「あの、御堂さん、ですか……? 私、加嶋です」
「遅い」
明らかに不機嫌そうな声。
「ご、ごめんなさい!!」
私は思わず謝った。もしかすると謝る必要はないのかもしれないけど、それぐらい怖かった。
「私が掛けているのだからワンコールで出なさい。最低でもツーコールよ。許すとしてもサンコールまで。いい? 次からはそれを心に刻んですぐに出るように」
「あの、その、ごめんない。気をつけます」
「わかればいいのよ。それよりもドアを開けてくださらない? いい加減足が疲れてきちゃったの」
「えっ、もしかして私の家の前にいるん、ですか?」
「ええ、そうよ。ちなみにさっきまでインターホンを何度も押していたのも私」
「あの執拗なピンポンは御堂さんだったんですか……はぁ、なんでそんなことを――ってその前に今開けます。すぐ開けます。なので怒らないでください」
「別に怒ってないわ」
よかった。胸を撫で下ろしながら玄関へと向かう。鍵を開けドアを開けるとそこには眉間に皺を寄せ、如何にも不機嫌そうに睨む御堂さんの姿があった。あっ、やっぱり怒ってる。
こうして私のいつもと少し違う朝が始まったのでした。
★
「そ、それでその……どうしてわたしの家に? あとこの携帯って……」
少し怒っている彼女の様子を窺いながら恐る恐る質問する。
「別にただ一緒に登校できればいいなと思っただけ。その携帯は貴女と連絡を取るための手段として昨日鞄の中に忍び込ませておいたの。ほら、貴女携帯持っていないみたいだったから」
どうして携帯を持っていないのを知ってるんだろうと一瞬疑問に思ったけれど、御堂さんならばなんだか知っててもおかしくないなと思ったので口にはしなかった。というよりしたくなかった。私の知らないことまで知ってそうで怖かったから。
「一緒に登校、ですか? えっと、どうして私なんかと……?」
「何か疑問に思うことがあるかしら。恋人同士が一緒に学校に行くのって世間一般では普通のことでしょう?
それと、私なんか、と卑下するのはやめなさい。自分を卑下しても良いことなんて何もないわ」
「は、はい。わかりました」
その真剣な瞳に飲まれ私は頷いた。でも確かに恋人同士なら一緒に登校するのは普通だし。そんなにおかしなことじゃないのか、も。とここまで考えた時、ふと私は思う。私って御堂さんと付き合っていたっけ。
「あの、つかぬことをお聞きしますが、私たちって付き合っているんですか……?」
「何言ってるの? 貴女、私の手を取ったじゃない。あれはつまりそういうことでしょう? もしかして昨日こと覚えていないのかしら」
「ひぃっ、ごめんなさい。馬鹿なこと言いました。しっかり覚えています。ごめんなさい」
考えを整理しよう。昨日のことは確かに覚えている。夢だったと思いそうにもなるが、しっかりと覚えている。でもあれはつまりそういう意味だったのか。てっきり主従関係を結ぶという意味と思っていたけれど御堂さんにとっては告白の意を持つものだったらしい。
――ということは私と御堂さんは恋人同士?
女同士でなにを、なんてことよりも、ヒエラルキーの最底辺にいるであろう私とヒエラルキートップの御堂さんが付き合うことのほうが信じられない。とんだ天変地異が起こったものだと冷静に考える自分もいれば、現在進行系で慌てふためく自分もいる。考えれば考えるほどに脳は混乱の一途を辿っていた。
そんな私を見て御堂さんはやれやれとため息をついた。どうやらわたしの心の中はお見通しのようだ。
「今はとりあえず私と貴女が恋人の関係になったということだけを理解すればいいわ。だから考えすぎるのはやめなさい。また気絶されても困るもの」
「気絶?」
「気絶。昨日、貴女気絶したのよ。私の手を握った直後にね」
話があらかた終わるころには既に遅刻は明確なものとなっていた。そもそも休もうかで悩んでいたのだから気にするような問題ではなかったけれど、あれほど辛かった頭痛も幸い今は多少マシになっていた。これなら学校に行っても支障はなさそうだ。
「そろそろ行きましょうか」
そう言って御堂さんは立ち上がった。かと思えば私の方をじっと見つめると何かを思い出したかのように私の顔を覗き込んできたのだった。
「あの……御堂さん? えっと私の顔に何か付いてたりしますか……?」
「いえ、今日最初に会ったとき体調が悪そうだったから気になったの。もしかしたら今もまだつらいのかしら。つらかったらこのまま休んでもいいのよ」
自分の体調を気遣ってくれる彼女の言葉に私は驚いた。強引そうな彼女がわたしのことを気にかけていたのが少し意外だったのだ。
「頭痛が少しありましたが、今はもうだいぶ治まっているので大丈夫です。その、お気遣いありがとうございます」
「そう、じゃあ改めて行きましょうか」
彼女が未だ座っているわたしに手を差し伸べる。
「はい」
わたしは少し逡巡しながらも手を取った。
誰かと一緒の登校するのは初めてのことだった。今まで私には私と一緒に歩いてくれる人なんていなかった。いつも歩く道を二人並んで歩く。それは何故だかとても新鮮で、妙に気恥ずかしかった。
私の住んでいるところから学校までは徒歩で行ける距離にあるものの特段近いというわけではない。これでも学校に近いところを選んだつもりだったのだが、金銭的事情もあって安いところを選んだ結果、学校まで歩いて20分と少しという、歩くにはやや遠くなってしまったのは仕方のないことである。
住宅路を通り商店街を抜けると駅が見える。そして駅からもう十分も歩けば学校に辿り着く。「私立、色才学園」それが私の通う学校の名称だった。日本国内を見てもこれほど大きな学校は幾つもないだろう。小等部、中等部、高等部の三つに分かれており、私はそこの高等部に属している。
私の家は決してお金持ちではない。だから本来ならば私立に入るだけの余裕などない筈だった。けれど私はある事情によって学費を免除されている。その事情はこの学校のある秘密に関わっているわけだが、まあその話はまた今度にしよう。
人気のない校門をくぐり校舎へと入っていく。遅刻した場合、まずは職員室に行き、登校したことを伝えないとならない。自分一人ならばそれは別に構わない。けれど。私はちらりと隣の御堂さんを見る。二人で一緒に行くことはあまりいい結果を生まないだろう。それこそサボっていたと思われてしまったら御堂さんの心象が悪くなってしまう。
遅刻の原因となったのは紛れもなく私。私のせいで御堂さんの迷惑となるのはどうしても避けたい。
そうして辿り着いた職員室。
さて、どうすれば御堂さんの心象が悪くならないかを考えていると急に御堂さんに手を引かれた。
「御堂さん?」
「静かに。それとあと少しの間だけ背中を丸めて俯いてて貰えないかしら」
どういうことだろう。疑問に思いつつも素直に御堂さんの言葉に従う。御堂さんは私の手を握りながら職員室のドアを開けた。
「失礼します。二年C組の御堂朝香です」
「あら、御堂さんどうしたの?」
私達のクラスの担任が職員室にいたのは偶然だった。御堂さんはこれ幸いと笑みを浮かべて担任へと話しかけた。
「ええ、実は――」
御堂さんの話術は実に巧みであった。
私が考えるでもなく御堂さんはきっちりと話の展開を考えていたようだ。
登校途中に具合の悪そうにしている私を見かけた御堂さんは放っておくこともできず、私の体調が良くなるまで付き添うことに。その結果学校に来るのが大幅に遅れてしまった。そういうシナリオを即興で組み上げた御堂さんはさも本当に起こったことのように教師へと伝えたのだった。
御堂さんの日頃の振る舞いが良いからこそ通じた嘘だろう。とは言ってもわたしの体調が悪かったのは本当なため、あながち嘘とは言い切れないけど。兎にも角にも現状は乗り切った。
遅刻は遅刻として処理はされるものの理由がしっかりしていることもあり、少しは多めに見てくれるらしい。さすが御堂さんである。
二人で教室へと向かう。途中で未だ手を繋いだままなことに気づいて御堂さんへと視線を送るも彼女が気づくそぶりはない。教室までずっとこの状態なのは流石に少し恥ずかしい。悩んだ挙句、一言伝えようと決意した時、御堂さんが足を止めた。
「なに間の抜けた顔をしてるの? 教室、着いたわよ」
気づけば既に教室の前だった。未だ手を繋いだままというのに彼女は躊躇いもなくドアを開け教室へと入って行く。
がらり、ドアの開く音を聞いてクラスメイトの何人かがこちらを見ていた。時間はちょうど一時間目が終えたあたり。つまり今は五分休憩というわけだ。
「御堂さんと加嶋さんだ。珍しい組み合わせ」
「ほんとだ。あの二人って仲良かったけ?」
「話してるところ見たことないよ?」
クラスメイトの視線が私たちに集まる。どちらかと言えば御堂さんに注がれている視線の方が多いけど。
今まで話したこともなかった関係の人が一緒に遅刻してきた上、手を繋いで入ってきたとなれば注目されても仕方はない。特に御堂さんという人気者が関わっていれば尚更である。
クラスのざわめきに御堂さんはなにを思っているだろう。そう思ってわたしは彼女の方を窺う。
彼女は笑っていた。いかにも楽しげに。
「皆さんおはようございます」
御堂さんの言葉にクラスの人たちが返事を返す。そんな中で一人の人がわたしたちへと近づいてきた。
「御堂おはよー」
「おはようございます。友恵さん」
友恵さんと呼ばれたその人を見る。ボーイッシュに切り揃えられた短い髪。僅かに茶色く染められた髪と褐色の肌。彼女の纏う体育会系の香りは私に僅かばかりの畏怖を与えるのだった。
「なあ、少し聞いてもいい?」
「ええ、いいですよ。私に答えられることならいくらでも聞いてください」
「御堂って加嶋と仲良かったけ? いや、悪い意味とかで言ってるんじゃなくて。なんかこー珍しい組み合わせだなって思ってさ」
「ああ、それですか? 勿論、仲は良いですよ。なんといっても友達以上の関係ですからね」
その時、クラス内に衝撃が走った。友恵さんと御堂さんの会話に聞き耳を立てていた聴衆もみんなあんぐりと口を開いて驚いていた。無論、友恵さんも。
「冗談ですよ。昨日ちょっとしたきっかけで意気投合しましてお友達になったんです」
冗談と聞いてみんなの身体から一斉に力が抜ける。「そうだよなー冗談、だよな。ハハ」とぎこちない笑顔がそこかしこで咲いていた。
私はホッと息をつく。もしもこのまま私と御堂さんが友達以上の関係なのだとバレていたならば、この先平穏な学校生活は見込めないだろう。ただでさえ人の視線が苦手なのに周りから奇異な視線で見られてしまうことになったら、私は到底耐えられそうにもない。
御堂さんの方をちらりと横目でみる。彼女はこの関係がバレてしまうことを何も気にしないのだろうか。こんな私なんかと、しかも女同士で付き合っているなんて、彼女の評判にも関わることだろうに。
けれど御堂さんは笑っていた。さっきからずっと、ただ楽しそうに。私の懸念していることなど何も気にも止めず。
ただただ御堂さんは笑っていた。
哀れな黒と歪んだ白 菖蒲 @ayame11
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