巡る世界と煤けた歴史書

紫月 真夜

fine

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。いくら考えても答えは分からないし、誰も教えてはくれない。辺りは、呼吸の音でさえも聞こえないくらいの静寂に包まれている。今日の朝は、あんなにも活気に満ち溢れていたというのに。


 *


 五月十六日月曜日。特別でもなんでもない普通の日。まあ、自分の誕生日でさえ覚えていない俺のことだから、何か忘れているだけかもしれないけど。

 アラームのけたたましい音声によって目が覚めた。今日は学校がないんだっけ、なんて思ってもう一度布団にくるまる。そういえば、部活が九時からあったっけ、なんて思い出して布団から飛び起きる。これが俺のいつも通りの日常。

 カーテンを開ける。眩しい光が窓から差し込む。思わず瞬きを繰り返す。そのまま窓を開けると、春のあたたかい空気が入り込んでくる。例年よりも暑いような気もする。地球温暖化のせいだろうか。

「おはよ」

 自室のドアを開けて、リビングルームに移動する。冷え切った空間に、俺の気だるげな声が響く。母はここにはいない。いつも通り、五時半には家を出ただろう。父は……わからない。数年前に、母と俺を置いてどこかへ行ってしまった。未だに母は時折思い出しては塞いでいるというのに、自分の気配すら感じさせない父。父なんて名ばかりの存在はいらないから、今更帰ってきてもらっても困るけど。

 そんな考えを脳の奥底にしまいこみ、ダイニングスペースに意識を向ける。テーブルの上には、いつもみたいに朝ごはんが用意されている。冷めているスープを電子レンジで温める。キッチンに響く電子音。ガラスのコップを用意して、冷蔵庫を開ける。コーヒーと牛乳を取り出し、一対二で注ぐ。朝ごはんは、俺の大好きなハムチーズエッグサンドとコーンスープ。かなり手の凝ったものを作ってくれたなと嬉しくなる。その反面、こういうときの母は二、三日帰ってこないことを俺は経験則で知っている。静かにため息を吐いた。

 温まったスープをスプーンに掬って口に運んでから、朝の習慣となっているメッセージの確認を始める。まずは母から何か来ていないか確認、何もないことを確認してからクラスや部活の連絡網を確認する、という順番。まあ、母からの連絡は滅多にないのだけど。

 今日は終わらせないといけない課題もあるから忙しいな、なんて考えながら部活の連絡網に届いていたテキストを読むと、俺の口角は少しだけ上がった。ニヤリ、という表現が正しいような、そんな表情。俺にとって、部活が急遽なくなったという知らせは、それだけ嬉しいものだったらしい。

 俺にとって休みとは「自分のやりたいことをやれるひと時」である。普段学校では決められた時間割通りに勉強しないといけないため、自由とは言えない。部活では先輩には逆らえずにパシられる。そんな俺が唯一自分らしく色々なことができる時間が休みの日なのだ。

 今日は、大量の課題が出されているため自由ではないけれど、時間はまだたっぷりあるから、課題を終わらせた後は暇だろう。そうなったら、端末で少し遊ぼうかな。そう考え、イヤホンを両耳に付ける。いつも聞いている音楽のプレイリストに新たに曲をいくつか追加し、シャッフル再生ボタンを押した。


 そんないつも通り――学校も部活も休みだから少しいつもと違うけど――の日常は、テレビから聞こえる無慈悲な宣言によって破壊された。

「緊急速報です。世界が滅亡する、との情報が各国の諜報機関から発表されました。繰り返します……」

 ポーカーフェイスを装ったアナウンサーの歪な声は滑稽で。状況にそぐわないと知りながら思わず笑ってしまう。

 冗談としか思えない宣告だった。理由をちゃんと説明しないのは、ただの捏造されたシチュエーションだからだと思って。適当に点けていたテレビだから、何処かの映画かアニメかの台詞だって。そう信じるしかなかった。でも、何回チャンネルを変えても臨時のニュースが流れている。さっきまでどこのチャンネルでも昼のワイドショーやらドラマやらを放送していたのに。経済界の専門家がさっきまで映っていた番組では、専門家が見解を述べていた。

「いやぁ、流石にデマだとは思いますがね。予兆があればその時点で報告するでしょうし、日時も原因も対策も伝えないのは情報が不確実だからでしょうね」

「はは、まあそうですよね、世界を巻き込んだ実験か撮影かな」

 そう出演している芸能人が笑い飛ばす。SNSでは信じている人と信じていない人が半々で対立している。かくいう俺もどちらかというと信じていない。それも仕方ないだろう。もし実際に世界が滅亡するとして、予兆が何もないのはおかしいし、漫画とかドラマの中でしか名前を聞かない諜報機関がいきなり表に出てくるのもおかしな話だ。ただ、話のネタにはなるなと思い、友達にメッセージを送る。案外みんな携帯を見ていたようで、すぐに返事が来る。半信半疑のまま、いつの間にか普段のような馬鹿な話に逸れていく。俺も冷蔵庫からジュースを取り出してコップに注ぎ、ゲームを始める。課題が終わった後の至福の時間を満喫しよう。

 

 あの冗談みたいな報道から何分経っただろうか。テレビでは、未だに同じニュースを報道している局と普段通りのプログラムを放送している局に二分していた。SNSでは未だに話題にはなっているけど、これといった新情報がなく落ち着いている状態だ。


 人間は油断しているときが一番危ないとは誰の言葉だっただろうか。突然の、耳を塞いだくらいでは全く防げない大きさの衝突音と爆発音。その直後、地面が揺れ動き、誰かの呻き声が聞こえ、視界が赤く染まる。鼻を擽る鉄のような匂い。ああこれは血だ、と一拍遅れて脳が理解する。赤の隙間から青空が見える。家にいたはずなのに。何が起きたのだろうか。俺にわかるのは、残り時間は大してないということ。次第に視覚も、聴覚も、嗅覚も、思考も、何もかもがぼんやりと滲んでくる。ははっと乾いた笑いが零れた。だって、誰もこんな物理的な方法で世界を終わらせるとは思わないじゃないか。どうせなら誰も苦しまずに済むような終わらせ方にして欲しかった、なんて誰も叶えてくれないけれど。


 自分の体が少しずつ冷えていくのを感じる。段々と眠く、目を開けるのも億劫になっていく。いつ消えるかもわからないこの命の灯火だけど、少しも惜しくなかった。強いて言うならば、父母の関係をどうにかしたり、腐りきってるこの世界——せめて身の周りだけでも変えてみたりとか、やりたいことは山ほどあったのだけど。感覚はもうさほど残っていない。触覚も視覚ももう機能しない。いざ自分が消えると思ったら、もう何もかもどうでもよくなってきて。いつも授業態度が悪いからって俺を叱る先生や、弱そうだからとパシッてくる先輩たちも同じ状況にいると思うと、逆にスカッとしてきたくらい。けど、小さじ一杯分くらいはまだこの世界に未練が残っているみたいで、人間の心のままでよかったと安心感を覚える。消えたらどこに行くんだろう。お母さんは大丈夫なのかな。こんな俺に唯一仲良くしてくれたあの子は。

 終焉をすぐそこに感じる。君たちと過ごす日々は、楽しくはなかったけど有意義だったよ。ありがとう。そんな遺言にも近い言葉を頭の中で発す。刹那、意識が白に染まる。

 ……誰かが俺の名前を呼んだような気がした。聴覚は今際の際まで、もしくは死後でも働くというのは本当だったのか。そんなことを考えながら、俺の思考は途絶えた。

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